神戸・北野 香りの家オランダ館
~9話~

【==== 山道 ====】

港みはらし台に向かう道の途中、大学生らしいカップルと大地くんの姿を見つけた私は、スピードを上げて彼らに駆け寄った。

椿

大地くん!

大地

……!

金髪の男性

ん……? あんた、この子の姉さん?

椿

あ……えっと、と、友達です!

ポニーテールの女性

そうなんですか……。
よかったね、僕。お迎えが来たよ。

ちらりとこちらを見上げた大地くんの目許は赤く、涙が光っているように見えた。

椿

(大地くん……)

ポニーテールの女性

……私達、さっきまでみはらし台にいたんですけど、下りてくる途中で、この子が1人で登ってくるのを見つけて。

ポニーテールの女性

ご両親やお家のことを聞いても教えてもらえなかったので、心配してたんです。

椿

そうなんですか……あの、保護してくださってありがとうございます。
後は大丈夫ですので。

金髪の男性

そうか。暗いから、気を付けて帰ってな。

椿

はい。本当にありがとうございました!

2人は私と大地くんに軽く手を振ると、そのまま街の方へと道を下りていった。

……大地くんと私だけの空間に、しんと静けさが満ちる。

……先に、薫さんに連絡だけしておくね。

できる限り柔らかく言って、私は携帯を取り出して電話をかけた。

椿

もしもし……薫さんですか?

椿

はい、大地くんをみはらし台の近くで見つけまして……。

椿

大丈夫です、怪我とかは全然ありませんから。

椿

そちらは今……ああ、お家の近くまで戻ってこられたんですね。

椿

……あの、薫さん。

椿

大地くんは必ず私がお家までお送りしますから、薫さんやお母様は先に戻っておいていただけますか?

椿

大地くんと、少しだけ話をしたいんです。

椿

……ありがとうございます、薫さん。なるべく早めに戻りますね。

通話を切って息をつくと、叱られると思ったのか、大地くんは怯えたように少し身じろぎをした。

そんな彼に向き直って……小さな手をきゅっと握る。

椿

大地くん、このままみはらし台まで行ってみようか!

大地

……え……。

椿

私、北野に住んでるのに行ったことないんだよね。
地元の人があんまり観光地に行かないのって本当かも。

椿

きっと綺麗だよ。

大地

…………。

大地

……うん……

【==== 山広場 ====】

椿

すごーい!

大地

……きれい。

ほどなくして辿り着いたみはらし台からは、輝く神戸の街が一望できた。

かすかな風に揺れる葉擦れの音を聞きながら、ベンチに座ってしばらく夜景を眺める。

大地くん、ここの景色を見にきたの?

大地

……ううん。
人がいない方に歩いていったら、こっちに来ちゃっただけなんです。

大地

どこに行けばいいか、わからなくて……。

椿

……香水瓶を割っちゃったことなら、薫さん、怒ってなかったよ。
間違えて落としちゃっただけなんだよね?

大地

はい……。でも、ちがうんです。

椿

違う?

大地

おうちを出てきちゃったのは、怒られるのがいやだったからじゃなくて……。

大地くんはベンチに座ったまま、膝を抱えてうつむいた。

大地

……「へいきだよ」って言ったんです。

椿

え……?

大地

薫くんが、香水瓶の割れたかけらを拾おうとしてしゃがんだ時……

大地

お仕事で疲れてたせいで、ふらっとしたんです。

大地

それで、ガラスで手を切って……。それなのに、へいきだよって。

大地

そしたら、なんだか……すごく怖くなったんです。

大地

だって、お父さんも、お母さんも……いつも……へいきだよって……。

椿

…………。

大地

僕、お父さんが元気だった頃、いっぱいわがまま言ってた。

大地

僕とお母さんのためにって、忙しいお仕事頑張ってたのに……。

大地

お母さんも、僕がいると、つらいのを我慢しちゃうんです。

大地

お父さんがいなくなって寂しいのに、お仕事を増やさなきゃいけなくなって……

大地

でも疲れてるのに、僕のごはん作ったり、お話を聞いてくれました。

大地

どうしても具合がわるい時は、「ちゃんとお世話できなくてごめんね」って……。

大地

薫くんやおばあちゃんも、お仕事忙しいのに、いっぱい相手をしてくれます。

大地

でも、わかるんです……。みんな、お父さんやお母さんと一緒なの。

大地

僕が子供で、まだできないことばかりだから、みんなに迷惑かけてるんです。

大地

ほんとうはもっとしっかりして、お母さんを助けなくちゃいけないのに。

大地

このまま僕がいたら、いつか薫くんも、お母さんや、お父さんみたいに……。

大地

だから、僕……いない方がいいのかもしれないって……。

椿

……大地くん……

ぎゅーっと、心臓を締め付けられるような気持ちだった。

大地くんのお父さんも芳乃さんも、本当に大地くんを愛しているから、彼の将来を考えてお金の心配がないようにと頑張っていたんだろう。

でも、薫さんは前に「仕事の無理がたたって」と言っていた。

きっと働きすぎが原因で、お父さんに不幸が起きてしまって……。

聡(さと)い大地くんはそういった事情を理解していたようだし、同居することになった薫さん達にある程度の負担がかかっているのも、わかっているみたいだ。

椿

(それが、今の大地くんには心苦しかったんだ……)

大地くんの年齢がもっと高ければ家のお手伝いをしたり、自分のことは自分でこなすこともできただろうけど、まだ小さな彼が1人でやるには危険なことも多いし、見守る人も必要だ。

大切な人達が懸命に助けてくれるのに、何もできないもどかしさはどれほどのものか……

椿

(……でも……)

椿

…………つらかったんだね、大地くんも。

椿

だけどね、大地くんがいない方がいいなんてこと、ぜ~~~~~~~ったいに! ないからね!!

大地

……椿ちゃん。

椿

私は皆と知り合ってひと月も経ってないし、大地くんのお父さんやおばあちゃんおじいちゃんには会ってないけど、それでも横で見てればわかるもの。

椿

大地くんの家族は、皆大地くんが大好きなんだって。

大地

…………。

椿

もちろん、大地くんが皆を心配する気持ちもわかるし、そういう思いやりってすごく大事だよね。

椿

自分だけ良ければいいとかじゃなくて周りを気遣える大地くんは、とってもえらいよ!

椿

だけど……大地くんのお母さんさん達はそんなふうに、「自分のせいで」って大地くんに考えてほしいわけじゃないと思うんだ。

椿

迷惑かけないようにって縮こまったり、何でもかんでも我慢する「いい子」になってほしいわけじゃないはずだよ。

大地

……でも……。

椿

…………もちろん、皆が大地くんのために頑張ってることや、大地くんがまだひとりで何でもできるわけじゃないのは、確かだもんね。

椿

皆に「無理しないで」って言っても、難しいよねえ。

椿

お仕事って簡単にやめるわけにいかないし。
優しい皆が大地くんを放っておくわけないし……。

椿

でも……でもさ!

椿

私は、言っちゃっていいと思うんだ。「無理しないで」って。

椿

「無理しすぎて皆が具合悪くなったりしたら、僕悲しいよ」って。

椿

「つらい時に、あんまり平気なふりされたら寂しいよ」って。

大地

え……! そ、そんなの……

椿

……大地くんからすると、「そんなのわがままだ」って感じるかもしれないね。

椿

大変な思いをさせてるのは僕なのにって。
言っても何も変わらないしって。

椿

だけど、それで変わることもあるって思うんだ。

椿

大地くんに大切に思われてるんだって実感して、皆すごく嬉しくなるだろうし……

椿

そんなふうに人の気持ちを変えられるのって、とても大きいことだよ。

椿

……スポーツとかもね、気持ちってすごく大事なんだ。

椿

同じことをするのでも、嫌々とか適当にやるのと、真っ直ぐな気持ちでやるのとじゃ全然違う。

椿

疲れてるのを直接治してあげられるわけじゃなくても、お仕事を代わってあげられるわけじゃなくても、大地くんにできることはあるし、それが皆の支えになってるはずだよ。

椿

無理にいい子にならなくても……我慢しすぎたり、自分を責めなくてもいいんだ。

椿

皆、そのままの大地くんが好きだよ。

大地

……そう、かなぁ……

椿

うん、そうだよ!

椿

でも私が言っただけじゃ説得力に欠けるから……

私はひょいっと、ベンチから立ち上がった。

椿

直接、皆に聞いちゃおう。
お互いの気持ちを伝えるのが、きっと必要なんだよ。

椿

帰ろう、大地くん。

大地

…………。

大地

うん……。僕も、帰りたい。

そのことに安堵しながら――

ふと、胸の中に風が吹いたような気がした。

立ち込めていたもやが、すうっと薄らいでいくような、そんな気分。

椿

(……考えてみれば……)

椿

(今私が大地くんに言ったのって、私自身にも当てはまることなんじゃ……?)

大地くんみたいに殊勝な理由じゃ全然ないけど、私も最近は、「いつもの自分」を抑え込んでばかりだった。

今の自分じゃ全然だめだ、せめて少しでも気に入られるようにならないと……って。

そのままの自分を否定して、「こうじゃないといけないのでは」っていう枠にはまろうとしてた。

本当に薫さんが「女の子らしい子」が好きなのか、確かめることもせずに。

椿

(……怖かったのかも、私)

椿

(だって、「うん、女の子らしい人が好きなんです!」って言われたら、私じゃやっぱりダメか……ってなっちゃうし)

椿

(薫さんの顔色を窺いながら、でも本当のことを確かめもせずに、中途半端なままで……)

大地

……椿ちゃん?

椿

…………!

椿

(しまった、今は私のことより、大地くんのことを優先しないとだよね)

椿

ご、ごめんね大地くん。よし、すぐにお家に戻ろう!

大地

うん……早く帰らないとね。

大地

お母さんも、すごく心配してると思うから……。

椿

……大丈夫だよ、大地くん。

強い後悔の浮かぶ表情を少しでも和らげたくて、明るい声を上げる。

椿

私が全速力で連れて帰ってあげる!

【==== 山道 ====】

大地

わあっ、椿ちゃん速~い……!

椿

でしょ!

大地くんを背負ったまま、私は全速力で駆けていく。

平日の夜のせいか人通りは少なめで、誰かにぶつかる心配はそれほどしなくてよかった。

男の子をおぶって全力疾走する女子高生というのはさすがに奇妙なのか、道行く人々がぎょっと振り向いたりもするけれど、それすらも何だかおかしい。

通行人

わっ……。

椿

すみません!

くるっとターンするようにして人を避けると、背中で大地くんが笑ったのがわかる。

流れる町灯りが綺麗で、秋風が火照った肌に涼しかった。

走るのって気持ちいいことだって、何だか久しぶりに実感したような気がする。

ただ、早く、速く、目指す場所へ向けて全力を尽くして……

オランダ館

椿

(……!!)

椿

ごめんなさい、遅くなってしまって……!!

敷地へ飛び込んで、急ブレーキをかける。

安心したような表情の薫さん、涙を浮かべた芳乃さん。

そして芳乃さんの隣で彼女を支えるようにしていたのは初めて会う50代ほどの女性で、きっと薫さん達のお母さん……大地くんのおばあさんなんだろう。

芳乃

ありがとう、椿ちゃん……。

芳乃さんは女性のそばを離れ、私の背から下りた大地くんに向けて手を広げた。

芳乃

……お帰り、大地。

大地くんはまた面持ちを固くしていたけど、芳乃さんの声で弾けるように走り出す。

芳乃

お母さん……っ!

芳乃さんが、強く大地くんを抱きしめる。

その姿にじんとしていると……薫さんも彼女達に近づき、片膝をついて大地くんと目線を合わせた。

ごめんね、大地。
香水瓶のこと、言い方がきつかったよね。

大地

……! 違うよ! 僕……、僕……。

大地くんは大きく首を振り、みはらし台で教えてくれたことを薫さん達にもぽつぽつ語った。

薫さんは大地くんが周囲を気遣って我慢していたことを知っていたし、芳乃さんやおばあさんもそうなのだろうけど……

さすがに「自分がいない方がいいのかも」とまで思い詰めていたとは考えていなかったのか、驚きに目を丸くしていた。

そして芳乃さんは、大地くんとそっくりな大きな瞳にますます涙を溢れさせる。

芳乃

……う……。も~~~、大地……!

芳乃

大地がいない方がいいなんて、あるわけないじゃん! もう……!!

芳乃

大地までいなくなったら、お母さん、また宝物なくしちゃうじゃない……!

大地

……おかあさ……

芳乃

お母さんのこと置いていっちゃ嫌だよ、大地……。

大地

……ぁ、う……。

大地

……ご……ごめんなさい……。お母さん、ごめんね……。

芳乃

…………ううん。

芳乃

いけないのは、お母さんの方だよ。
こんなんじゃ、天国のお父さんに叱られちゃうね。

芳乃

いっぱい心配かけてごめんね、大地……。

……大地、僕も心配させちゃってごめん。

潤んだ声に、大地くんと一緒に私もはっとした。

薫さんの双眸からも、透明な雫がこぼれていて……

でも彼は優しく、大地くんを見つめていた。

だけどね、大地。
僕達は「大地のせいでつらい思いをしてる」んじゃなくて、「大地のことが大好きだから、一生懸命頑張れてる」んだよ。

頑張り方が下手で、大地を不安にさせちゃったけど……

大地がいない方がいいなんて、ぜ~~~ったいに! ないんだよ。

大地

……あ……。

偶然、薫さんが私と同じような言い方をしたせいか……小さく、大地くんが笑った。

薫さん達にはその意味はよくわからなかっただろうけど、大地くんが笑顔になったことで、皆、少しほっとした様子だ。

椿

(良かった……。みんな素敵な人達だもん。丸く収まらないはずないよ)

私も見守りながら、安堵に胸を撫でおろしていると……

オランダ館

椿

(……あれ?)

気が抜けたせいか、目眩とともに視界が暗くなる。

椿

(じ、じっとしてればすぐに良くなる……よね)

椿

(でもさすがに、走り回りすぎた、かな――)

――! 椿さん!

遠くに薫さんの声を聞きながら……

私はそのまま、意識を手放してしまったのだった。

椿

(…………)

椿

(……ん……、……あれ……?)

【==== オランダ館屋内 ====】

目を開けると、ぼやけた視界に天井が映る。

ふかふかした感触に身を預けたまま、しばらくまどろみ……

椿

――あっ、私……!!

走り回った疲れや安堵から自分が倒れてしまったことを思い出し、今の状況が理解できていないながらもガバッと体を起こした。

見回すと、場所は薫さんのお家の中……私はソファーに寝かされていて、私の声に気付いたのか、薫さんがキッチンの方から顔を覗かせる。

椿さん、目が覚めましたか。気分はどうですか?

椿

……! は、はい、大丈夫です!ええっと……

大地を捜すのと、送ってくれる時に、随分走り回ってくれたんですよね。
きっとそれで倒れてしまって……

無理をさせてしまって、本当にすみません、椿さん。

椿

いえ、そんな……! 私が好きでやったことですし。

椿

今は目眩とかもないみたいなので、気にしないでください。
そうだ、大地くん達は……?

大地と姉と母は、今は2階で話をしてます。
皆落ち着いてますから、安心してくださいね。

……椿さんのおかげです。
改めて言わせてください、本当にありがとうございます。

椿

あ、あの…………どういたしまして……

照れてしまいながらも、ちょっとでも役に立てたのなら嬉しいと純粋に思う。

そういえば、椿さんが起きた時にとちょうど飲み物を用意しようとしていたところだったんです。

倒れてしまった後ですし、コーヒーよりカフェインレスのハーブティがいいかなと思っていたんですが……

はちみつシナモンティなんてどうですか? 苦手じゃありません?

椿

わ……い、色々気を遣ってもらってすみません!

椿

シナモン大丈夫なので、ありがたくいただきます。

良かった。じゃあ、少し待っていてくださいね。

笑顔でキッチンの方へ戻っていく薫さんを見送り……ふうと息をついて居住まいを正す。

……状況を把握してしばらく経つと、何だか恥ずかしさも湧いてきてしまった。

椿

(倒れちゃったってことは、私、もしかして薫さんにここまで運ばれたのかな)

椿

(芳乃さんも薫さん達のお母さんも細身の女の人だし、多分そうだよね……)

どたばた走り回って汗をかいていたし、学校帰りなので化粧もなし、髪も服もよれよれで……

そんな格好で寝ている姿まで見せてしまったのかと思うと、頭を抱えたくなった。

……あれ、椿さん?

するといい香りのするカップを手に戻ってきた薫さんが、カップをそばのテーブルに置いて、怪訝そうにこちらを覗き込む。

顔が赤い。
もしかして、疲れで熱が出たりしてるんじゃありません?

椿

えっ!? い、いえ、これは……

もし具合が悪いなら隠さないでください。
僕達の責任でもありますし……

椿

(わっ、か、顔が近……!)

椿

……ち、違うんです! 私、その、自分がみっともないかなって……

えっ?

椿

(あっ、つい正直に……)

今からでも適当に誤魔化そうかとも思ったけれど……

考えとは裏腹に、口は勝手に動いた。

ずっと悩んでいたことを抱えきれずに、ぽろぽろとこぼしてしまう。

椿

……今の私、すっぴんだし、走り回って髪も格好もよれよれで、恥ずかしくなっちゃって。

いや、でもそれはこの状況なら仕方ないというか――

椿

そ、それだけじゃないんです。

椿

前から……私、自分が女の子らしくないなって思ってて……

…………え。

椿

(……え、ええいっ、もう全部話しちゃえ……!)

椿

お洒落なお店で服とかよく買うって言いましたけど、実はあれも見栄を張っちゃってたんです!

椿

本当はつい最近まで、化粧とか服とかのこと全然わからなくて、友達にアドバイスを貰ってお洒落の勉強をしてる最中なんです。

椿

でもやっぱり、まだまだで……。
時々こうやって、ボロが出ちゃうんですよね。

椿

友達にも無理してるんじゃって指摘されたり……自覚もあって。

椿

女の子らしくすることが嫌なわけじゃ決してないんですけど、でも私には無理だったのかなぁって思っちゃうんです……。

――最後まで吐き出してしまうと勢いはしぼんで、こんなこと話したってどうしようもないし、薫さんも困るよね……と不安がやってくる。

でも、彼の反応から逃げるわけにはいかないと、私は恐る恐る彼を見上げたのだった……。