神戸・北野 香りの家オランダ館
~3話~

北野神社

椿

(まさか……恋人どころか子供がいるなんて……)

手に取りかけていた小箱に、ハッとする。

椿

(そうだ……。これだって彼女……ううん、奥さんへのプレゼントだったかもしれないのに)

椿

(そんなことにも気が付かないで、私……)

かあっと耳まで熱くなるのが、自分でもわかった。

考えなしに突っ走ってきた自分が恥ずかしい。

椿

あ、あのっ……!

椿

これ、この間、落とされたもので……。
そ、それと、服のお詫びで……。

お兄さん

え……?

椿

と……とにかくっ! お兄さんのものですから、貰ってくださいっ。

お兄さん

あ、あのっ……。

無理やりに受け取らせて、じゃあっと体をひるがえそうとする。

だけど、かけられた無邪気な声に、思わず動きを止めてしまった。

男の子

お姉さんは、薫くんのお知り合いですか?

椿

…………えっ……。

椿

(薫くん? 薫くんって、このお兄さんのこと?)

椿

(普通、お父さんのことくん付けで呼ぶのかな。いやでも、そういったご家庭もあるかもしれないし……)

椿

え……ええっと、知り合いってほどではないんだけど。

椿

その……お詫びと、落とし物を届けにきただけで……。

男の子

そうなんです?

男の子

わざわざ薫くんのために、ありがとうございます!

屈託なく笑った表情や、色素の薄い綺麗な瞳が、お兄さんに似ていると思った。

血の繋がりってあるんだなって思わせる笑顔。

椿

……う、ううん。大したことはしてないから――

お兄さん

いいえ。

遮ったのは、お兄さんだった。
私から受け取った小箱を開けて中から綺麗な香水瓶を取り出し、それを顔の近くまで持っていって確かめている。

お兄さん

この子の言うとおりです。わざわざありがとうございます。
確かにこれは僕が買ったものですね。

お兄さん

先週に失くしたものでしたから、わざわざ探しにきてくださったんじゃないですか?

椿

あ……はい。でも、それはもとはといえば私のせいで……。

お兄さん

やっぱり……! すみません、それはご迷惑をおかけしました!

お兄さん

でも、すごく助かりました。
実は他にも香水瓶を買っていたものですから、「あれは迷って結局買わなかったんだっけ」って思い込んで、落としたことに気付いてなかったんです。

お兄さん

運営や警察に届けられていたら、僕からは問い合わせをしないままでしたから、戻ってこなかった。

お兄さん

こうして持ってきてくださって、本当にありがたいです。

椿

そ……そうですか? ご迷惑でなければ、良かったです!

嬉しそうにしてくれるお兄さんに、来たのは間違いじゃなかったんだとほっとする。

だけど、それも束の間。お兄さんは私をさらに驚かせる発言をした。

お兄さん

そうだ! ここのすぐ近くに美味しいものがそろうカフェがあるんです。

お兄さん

よかったら、そちらで何かお礼にご馳走させてもらえませんか。

椿

ええっ……!

椿

(お、お兄さんとカフェ……!?)

椿

い、いいえっ! とんでもないっ! そんなことをしてもらうわけには……!

椿

それに……。

ちらっと、彼の手の先……お子さんの存在を確かめる。

椿

(そ、それって、いいものなの???)

男の子

……薫くん、僕もカフェ、行っていいの?

お兄さん

もちろんだよ。
大地を置いていくわけないだろう? 美味しいもの一緒に食べよう。

男の子

……うん!

男の子

お姉さんっ、行こう!

椿

あ……。

誘導するように男の子が私達の前を駆け出した。

お兄さん

行きましょう。

にこっと、私を促すお兄さん。

なんだか断ることもできす……戸惑いつつも、私は彼らについていったのだった。

カフェ

お兄さん

なんでも好きなものを頼んでくださいね。

椿

あ……ありがとうございます。

椿

(い、いや、それよりも……!)

椿

あの……! 改めまして、先日は本当にすみませんでした。

椿

私っ、先週のフリマで、不注意でお兄さんにぶつかったものなんです。

先週の出来事を一から彼に話す。

舞い上がったり、テンパったりで、上手く事情を伝えられていなかったことに今さらながら気が付いたのだ。

お兄さん

ああ、あの時の方でしたか! 言われてみれば、雰囲気が確かに……!

お兄さん

すみません。
僕、眼鏡をかけていてもあまり視力が良くないものですから、人の顔を覚えるのが苦手で……。

椿

(あ……そうだったんだ。私みたいのには興味ゼロ、とかじゃなくて良かった……)

お兄さん

でも……それで、わざわざお詫びの品まで用意して探してくださったんですね。

お兄さん

あれはこちらも悪かったから気にしないでよかったのに……。

椿

いいえっ! とんでもないです!

椿

無事、こうして会えてよかったです。
お詫びもそうですけど、落とし物もちゃんと届けたかったから……。

椿

あのシャツも大丈夫でしたか? シミになったりは……。

お兄さん

あはは、全然。洗ったらすぐに落ちちゃいましたよ。

お兄さん

丁寧にありがとう。
せっかくのお気持ちなので、こちらはありがたく頂きますね。

贈り物の紙袋を手にして、お兄さんが明るく笑う。

それがお日さまみたいに眩しくて、ひとつだけ心音が跳ねた。

椿

(え……えっと)

椿

(ちゃんとお詫びもできたことだし、もうここでお暇したほうがいいんじゃないかな)

言い出すタイミングを見計らっていると、お兄さんの横でメニューを真剣に見ていた男の子が私に顔を向ける。

男の子

ねえねえ、お姉さんはどれにします?

男の子

僕はね、スペシャルパフェ! 果物とアイスが色々のってて美味しいんだよ。

椿

あ……。

にこにこと嬉しそうに誘う男の子。

この笑顔を崩してしまうのは嫌だ。
とっさにそう思ってしまった。

椿

(ちょっとだけなら、いいのかな……)

椿

……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて頂こうかな。

椿

えっと……このコーヒーゼリーを頼んでもいいですか?

お兄さん

もちろん。
だけど、パフェじゃなくていいんですか? 遠慮しなくていいんですよ。

椿

あ……はい。せっかく誘っていただいたのにすみません。

椿

あんまりカロリーの高い物は部活の事情で食べないことにしてるんです。

椿

先生が同じカロリーを取るなら、ちゃんとバランスを考えて、栄養を取れるものにしなさいって。

椿

でも、これならカロリーは低いし、私、コーヒーもゼリーも好きなんです。

お兄さん

へえ……しっかりされてるんですね。

椿

はい! 色んなことに気付いてくれて、とっても頼りになる先生なんですよ。

お兄さん

ああ、いや。そうじゃなくて。

お兄さん

あなたが、しっかりされてるなって思ったんです。

お兄さん

自分を律することができるのも、それを嫌々じゃなく楽しそうにやっているのも、素敵ですね。

椿

…………。

椿

……あ、いえ、そんな……

とっさに首を振ったけど、嬉しかった。

お兄さんの言い方はお世辞とか無理に持ち上げている感じじゃなくて、気軽で、普通な口調だったから。

お兄さん

じゃあ、コーヒーゼリーと……大地はスペシャルパフェでいい?

男の子

うんっ!

お兄さんはすぐにお店の人を呼んで、メニューを伝える。

その後、何かを思い出したかのように、小さく「あっ」と声を上げた。

男の子

どうしたの? 薫くん。

お兄さん

ああ、いや……ちょっと。

男の子

? ちょっとどうしたの?

お兄さん

うん……忘れ物をね、しちゃったなって気が付いて。でも、平気だよ。

椿

忘れ物? さっきのフリマでですか?

お兄さん

あ……ええ、そうなんです。

お兄さん

実はさっき見ていたお店の中で気になるお店がありまして……。

お兄さん

話を聞いたら北野で実店舗を出してるそうなので、名刺を貰おうと思ってたんです。

お兄さん

だけど……うっかりもらい損ねてしまいまして。

椿

(……! もしかして)

椿

それって……私が声をかけた時に見ていたお店ですか?

お兄さん

……そうですけど、でも大丈夫ですよ。
帰りに、また寄ってみますから。

お兄さんが言い終わる前に、私は立ち上がっていた。

椿

私っ、行ってきます!

お兄さん

え……?

椿

ごめんなさい、私が話しかけたから貰いそびれちゃったんですよね。

椿

頼んだものが来るまでまだ時間がありますし、近いですからその間に貰ってきちゃいます。

椿

私、陸上部なんで、足は速いんですよ。

お兄さん

あ……!

通りかかった店員さんに、一旦外へ出ることを伝えてから、私は喫茶店を飛び出していった。

男の子

わあ……お姉さん、ホントにはやーい!

男の子

もう、あんなところまで行っちゃった!

お兄さん

ははっ……本当に。止める間もなかったね。

お兄さん

……元気な子なんだねえ。

北野神社

椿

はあ……はあ……。

フリマまで駆けると、すぐにお兄さんと再会した場所へ辿り着いた。

椿

(あ……このお店かな? 香水瓶が売ってあるし)

椿

すみません。
こちらのお店、北野に実店舗があるって聞いたんですが……

店番の男性

ええ。よろしければ、こちらのショップカードをお持ちください。

椿

ありがとうございます!

椿

(あ、時計屋さんだったんだ。時計のイラストが描いてある)

ふと商品に目をやると、アンティークの品々だけでなく、手作りらしい時計がたくさん並んでいた。

椿

(わあ……! すごく素敵なものばかり)

椿

(これは、私も一度お店に行ってみたいかも)

椿

(でも……学生の私にはとても手を出せそうにないな)

そんな私の考えが透けて見えたのか、店員さんがにこやかに告げた。

店番の男性

店舗の方は時計の取り扱いだけなんですが、私の趣味で、来てくださったお客さまにはコーヒーをお出ししているんです。

お店の店員

時計を眺めるだけでも構いませんから、お気軽にいらしてくださいね。

椿

あ、ありがとうございます。

心遣いに嬉しくなりながら、頭を下げて来た道を戻る。

椿

(眺めるだけでもなんて、良心的なお店なんだ。お兄さんに伝えておこう)

椿

(それに……そういうのあのお兄さんに似合いそうだよね)

お洒落なお店で素敵な時計に囲まれながらコーヒーを飲むお兄さん……

その時の香りまで浮かんできそうなほどしっかりと脳内に想像できた。

椿

(それで、その横に私も……なんて)

椿

(はっ……!)

椿

(だ、だめだめ! そういうこと考えちゃ! 結婚されてる方なんだから!)

一緒にカフェなんて入ったものだから、欲をかいてしまったのかもしれない。

今日のだって、正直、本当にいいのかわからないのだ。

椿

(だから……たとえこれ以上どうこうなりたいって下心がないとしても、奥さんが嫌な気持ちになっちゃうようなこと、しちゃいけないよね……)

カフェ

お店に戻ると、ちょうど男の子のパフェがテーブルにやってきたところだった。

お兄さん

すみません、ありがとうございます。

椿

いいえ、すぐでしたから。
時計屋さんでしたけど、こちらでよかったですか?

カードを渡すと、お兄さんは嬉しそうに瞳を細めた。

お兄さん

ええ、ここです。
アンティークの品が気になって立ち寄ったんですけど、とても素敵な時計を扱っていたので興味があって……。

椿

よかった。
お店の方がコーヒーをお出しするんで、ぜひ来てくださいって言ってましたよ。

お兄さん

へえ……時計屋さんでコーヒーを?

話している間に、今度は私の頼んだコーヒーゼリーがやってくる。

上に乗っている大きなソフトクリームが気になるのか、ちらっとこちらを覗き見る男の子が愛らしかった。

椿

ね、よかったら、アイスの部分を食べてもらってもいい?

椿

お姉ちゃん、ちょっと大きすぎるんだ。

男の子

……! いいの?

椿

もちろん。そうしてくれると助かるな。
ちょっと待ってね。

お店の人に頼んで、お皿を貰ってから取りわける。

それを差し出すと、男の子は満面の笑みを浮かべた。

男の子

わあ、ありがとうございます!

椿

(ふふ、かわいいな)

男の子

ね、お姉ちゃん、フルーツなら平気?

男の子

僕のもひと口どうぞ。

椿

わ、ありがとう。えっと……大地くんだっけ?

大地

うん、大地! 小学1年生だよ。よろしくね。

椿

うん、よろしく。
お姉ちゃんはね、椿。湊川 椿、高校2年生。

大地

椿ちゃん! お花の名前だね。

大地くんに頷いた後、お兄さんへと向き直った。

椿

すみません、名乗るのが遅れて。湊川 椿です。

お兄さん

はは、そういえばそうでしたね。僕もうっかりしてました。

僕は薫……薫・ヴォルヒンです。

椿

ヴォルヒンさん……。

椿

(聞きなれないけど、どこの国の名前だろう?)

薫でいいですよ。その方が呼ばれ慣れていますので。

オランダとのハーフですが、生まれてからずっと日本なので、外国の名前で呼ばれるのがどうも……。

椿

あはは、そういうのもあるんですね。

大地

お姉さん、僕も。
僕も4分の1、オランダの人なんですよ。

椿

うん、大地くんはクォーターだね。

大地

そうそれ、クォーター。

得意げに大地くんが告げて、頬が緩む。

そんなふうに和気あいあいとしていると、しばらくして大地くんがスプーンを置いた。

大地

僕、お手洗いに行ってきていい?

ひとりで平気?

大地

うん、大丈夫。

じゃあ、ハンカチ。よく手を洗ってくるんだよ。
いってらっしゃい。

大地

はーい。

頷いて、大地くんはすぐ近くにあるトイレへ向かっていった。

椿

……それにしても大地くんってすごくしっかりしてますよね。

椿

私があのくらいだった頃は、もっとお母さんにべったりだったような気がするなぁ。

椿

でも、男の子だとやっぱりお父さんと一緒に遊びに行ったりする方が多いんでしょうか。

椿

大地くんと薫さんも、すごく仲良しみたいですしね。

……そうですね。
大地とは一緒に住んでいるので、すごく慕ってくれてるんですよ。

椿

…………。……えっ?

椿

(一緒にって……。親子なら一緒に住むのが普通だよね?)

椿

(それって、いったい……)

ふたりの関係を計りかねていると、薫さんは困ったように笑った。

混乱させてすみません。大地は、姉の子供なんですよ。

椿

えっ……ええっ!!!

椿

(お姉さんの子!? 薫さんの子供じゃなかったの!?)

あはは。やっぱり、親子だと思ってました?

椿

……す、すみません。顔立ちも似てたので、てっきり……。

いえいえ、謝られるようなことじゃ。それに、よく間違えられますし。

椿

(そ、そっか……。考えてみれば、薫さんと大地くん、ちょっと歳が近すぎる気もするし)

椿

(……そうかあ、お姉さんの……)

薫さんが大地くんのお父さんでないとしても、それがイコール恋人がいないとか結婚していないという意味にはならないのだけど……

でも、やっぱり少しほっとしてしまった。

椿

(お姉さんの子ってことは、薫さんにとっての甥だよね。それなら似ていてもおかしくないよ)

椿

(でも甥っ子とこんなふうに出かけたりするなんて、子供好きなのかな? それに……)

椿

大地くんやお姉さん夫婦と一緒に住んでらっしゃるんですか? すごく仲良しなんですね。

椿

ご家族でよくご一緒に出かけたりもするんですか?

…………。

椿

(……あ、あれ?)

ほんのちょっとだけ入った間に、どきっとする。

――そしてすぐに、私は自分の軽はずみな発言を後悔することになった。

姉夫婦と暮らしている、というわけではないんです。

姉の夫……

義兄は、半年前に亡くなってしまいましたから。