北野坂
あ……!
(――危ないっ!)
フリマからの帰り道……大荷物のせいでバランスを崩しそうになった薫さんを見つけ、私は無意識のうちに全速力で駆け寄っていた。
破れかけた買い物袋を下からさっと支え、荷物の隙間から彼の様子を確かめる。
だ、大丈夫ですか?
え……湊川さん!?
うわ、すみません! みっともないところをお見せして……
いえっ、そんな……。
袋、完全に破けなくて良かったですね。
はい。ありがとうございます、助かりました。
(……でも、私が手を離したら、ビリッといっちゃうな。それに……)
(何となくだけど薫さん、ちょっと疲れてる感じかも? 微妙に顔色が良くないような気がする)
(考えてみればお仕事や大地くんと遊んだり、こうして買い出しもしたりで……忙しいはずだよね)
……あの、薫さん。
良かったら私、お家まで荷物お運びしましょうか?
……えっ。
でも湊川さんも荷物がありますし、ご迷惑をかけるわけには……
あ、大丈夫ですよ! これはフリマで買った服とかで、軽いですし……
それに部活では筋トレもしっかりしてるので、腕の力にだって自信あります!
体力もありますから、お家が遠くても平気ですよ!
……と言い終わってから、私は我に返って、嫌な汗をかきそうになった。
(しまった、筋トレしてますとか体力ありますとか、今のは女子っぽくなかったよね!?)
(しかも図々しく、お家にお邪魔しようとしてるみたいだし……!)
でも、私が何か言い訳をする前に、薫さんが微笑む。
あの柔らかい香りをふわりと漂わせながら。
……ありがとうございます、湊川さん。
もし湊川さんにこの後の予定がなくて、本当にご迷惑でなければなんですけど……
お手伝いしていただいても、いいですか?
は……はいっ! もちろんです……!
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・
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オランダ館
本当にありがとうございました、湊川さん。
家、ここなんです。
わあ……!
薫さんについて坂を上っていき、その先で私達を待っていたのは可愛らしい洋館だった。
クリーム色の外壁に深いブルーグリーンが映え、お家の周りにある花壇では、色とりどりの花が咲いている。
(そういえば持たせてもらってる荷物の中に、ガーデニング関係っぽいものもあったし……)
もしかしてこのお花、薫さんが?
ええ、そうなんです。
庭いじりが趣味で……四季折々の花は見た目でも香りでも楽しませてくれますから。
へえ~っと感心していると……門を開く音が聞こえたのか、玄関のドアを開け、薫さんを迎えに出てくる姿があった。
あっ、お姉さんだ……! こんにちは!
大地くん! こんにちは。
薫くん、おかえりなさい。
……もしかして、お姉さんがお荷物運んでくれたんですか?
ただいま、大地。そうなんだよ、すごく助かっちゃった。
そっか。お姉さん、ありがとうございます!
どういたしまして。それじゃあ……
薫さんは多分気を遣って「お茶でも……」と言ってくれるだろうけど、お家の人もいるかもしれないし、あまり厚かましくするのもと、私はここで失礼するつもりだった。
でもそれを告げるより先――小さなぬくもりが手に触れて、びっくりする。
近寄ってきた大地くんが、私の手を握っていた。
お姉さん、よかったら上がっていってください。
いいよね、薫くん。
……うん。僕もお茶くらい出さないとと思ってたんだ。
あ、コーヒーの方がいいかな?
え、えっと……
……!
ごめんなさい……! ご用事がありましたか。
離れていきそうになった小さな手を、とっさに握り返す。
いや……ううん、暇だったから、大丈夫!
薫さん、すみませんがちょっとだけお邪魔させていただいてもいいですか?
ええ、もちろんですよ。どうぞ、こちらへ。
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・
・
【==== オランダ館屋内 ====】
大地、姉さんは?
さっき、2階でお掃除してたよ。
そうか、じゃあ後で呼びにいこうかな。
……湊川さん、どうぞ。
ありがとうございます、いただきます!
淹れてもらったコーヒーを受け取り、勧められたソファーに腰を下ろす。
(薫さんのお姉さん、お家にいたんだ。こっちに来られるならちゃんと挨拶しないと……!)
(髪とか服とか、変になってるとこないよね?)
こっそり自分を見下ろしながら、自然と視線はお部屋の中を巡っていった。
映画にでも出てきそうなほど綺麗で整えられた内装に、更にそわそわしてしまう。
(落ち着かないってわけじゃなくてむしろ居心地いい感じのインテリアなんだけど、高級ホテルにTシャツジーパンで来ちゃったみたいというか……)
私が浮ついている間に、大地くんは薫さんにホットミルクを作ってもらったらしく、湯気の立つマグと、何かお菓子の乗ったお皿を持って私の隣へやって来た。
お姉さん、ワッフル食べる? これ、コーヒーとか紅茶の上に乗せるといいんですよ。
えっ、上に乗せる……?
うん、こうするの。
間にシロップが入ってるから、あっためるととろけて美味しいんだよ!
大地くんは薄いワッフルを、私のコーヒーカップと、自分のマグの上へ乗せる。
しばらく待ってから食べてみると……サクッとしたワッフルの食感と、甘いシロップがコーヒーにぴったりだ。
ん~! 美味しいね、これ!
でしょ! このワッフル、朝にお母さんが焼いてくれたんです。
大地、それ僕の分も残しておい……
自分の紅茶を用意しようとしていた薫さんが、ふいに動きを止めた。
彼はポケットから携帯を取り出すとメールか何かを確認し……表情を真剣なものに変える。
湊川さん。
本当に申し訳ないんですけど、少し待っていてもらえますか?
……? はい、わかりました。
大地も、しばらく待っててね。
薫さんはそう言うと、すぐに部屋を出ていってしまった。
(ど、どうしたんだろう? 何か急用でもできたのかな)
(それだったら私、帰った方が……)
どうしようかと目を泳がせ、気付いたのは大地くんの表情の硬さだった。
……大地くん?
…………。
……きっと、お母さんの具合が悪くなったんです。
彼は、手元のマグの中へこぼすように呟いた。
えっ……
朝は元気みたいだったけど……急に気分が悪くなったり、立てなくなることもあるんだって、おばあちゃんが言ってました。
そういう時は薫くんとかおばあちゃんにメールするんです。
……そ、そうなんだ……。
大切な旦那さんを亡くした人の気持ちが、私なんかにわかるはずもない。
だけど心の傷は簡単に癒えないし、気持ちが体にも影響してしまっていることくらい想像はついた。
(……っていうかそれなら、ますます私がお邪魔してる場合じゃないよね!?)
(書き置きでもして、おいとました方がいいんじゃ……)
えっと、大地くんも私のことは気にしないで、お母さんの所に……
ううん。
僕がいると、お母さんは絶対、『平気だよ』って言うから。
だから、いいんです。
…………。
すぐには言葉が出てこなかった。
ここで行儀よく座っている大地くんの中で、どれだけの思いが渦巻いているんだろう。
きっと本当は、すごく心配で今すぐ飛んでいきたいくらいだろうに……。
僕、ここで待ってる。ちゃんと、待てますから。
不安が滲む面持ちで言いながらも、大地くんは薫さんが買ってきた荷物の方へ行き、中を探って厚紙や折り紙のようなものを取り出した。
それから今度は部屋にあった本棚から、折り紙の本を持って戻ってくる。
(ひとりの時はいつも、こうして大人しく待ってるのかな……)
……! そうだ、お姉さん……。
ん? な、何?
僕のこと、見ててくれる?
ひとりの時は危ないから、カッターを使っちゃダメって言われてるんです。
でも、お姉さんが見ててくれたら、大丈夫だと思うから……。
……私……。
(私なんてほぼ他人みたいなものだし、薫さんや他のご家族がいないのに長居するのは気が引けるけど……)
……うん、わかったよ! 私でよければ、大地くんが怪我したりしないよう、ちゃんと見てるね。
思い切って笑顔で答えると、大地くんの表情がぱっと輝いた。
ありがとう……! 待っててね、道具を持ってくるから。
大地くんは一度部屋を出ると、すぐに文房具らしきものを持って帰ってきた。
そういえば、何を作るの? 学校の図工の宿題とか?
お母さんにあげるカードなんだ。いつもありがとう、って。
大地くんのお母さんにあげる……メッセージカード?
うん! もう何回もあげたことあるんですよ。
大地くんは慣れた手つきで色とりどりのペンを使って絵を描いたり、柄入りの折り紙をカッターで切って花や蝶などの飾りを作っていった。
わあ、上手だね、大地くん……!
えへへ……そうかなぁ。
そうだよ! 私より器用なくらいかも。
(いや、「かも」というか絶対そうだよ。私不器用だし……)
メッセージカードはいわゆる「飛び出す絵本」のような仕掛けが施されたりと、お世辞ではなく凝っていたし、もらったら嬉しいだろうなと思うようなものだった。
工作が得意なんだろうなというのはもちろんだけど、お母さんへの愛情の強さがはっきり見て取れた。
……しばらくしてカードが完成すると大地くんは立ち上がり、部屋の奥にあるガラス戸の棚へ歩いていく。
よく見ればそこには、たくさんの綺麗な香水瓶が並べて飾られていた。
これ、薫くんが集めたものなんだ。
この列にあるのは、薫くんが作った香水が入ってるんですよ。
ここにあるのなら、好きに使っていいって言われてるんです。
……大地くんが香水を?
不思議に思っていると、彼は香水をひとつ手に取ってこちらへ戻り……
さっきのメッセージカードに、そっと一吹きした。
これ、お母さんが好きな匂いなんです。
蜂蜜のようなオレンジ色の瓶に入った香水は、柑橘系の爽やかな甘さと、華やかなフローラルな匂いを弾けさせる。
……そうなんだね。すごくいい香り。
お母さんも、きっと喜んでくれるよ!
……うん! そうだといいな。
・
・
・
誠一さん、大地、お昼ごはんできたよ~。
あ……トマト入ってる! 僕、トマト嫌いなのに。
こら大地、ママがせっかく作ってくれたのにワガママ言っちゃダメだろう。
好き嫌いなく全部食べて、その後パパと公園でキャッチボールして遊ぼう。な?
おとーさん、投げるの下手なんだもん! やだよ~。
まあまあそう言わずに。パパと遊んでよ、大地ー。
しょうがないなぁ、もう。
――あっ。ほら、また~!
おとーさん、ボール取ってきたよ。
今度はちゃんと僕の方に……
……おとーさん……?
おとうさん、どこ?
大地くん……。
これからは今までよりもっといい子にして、ママを支えてあげるんだよ。
……芳乃(よしの)さん。この度は本当に、気の毒なことで……。
はい……。遠い所をわざわざ、ありがとうございます。
芳乃……。
……お母さん……。私……私が悪かったの。私が、ちゃんと……
自分を責めるな。……お前のせいじゃない。
姉さん。もうすぐ……。
……皆様、最後のお別れをしてさしあげてください。
…………。……おいで、大地。
……おとうさん……。
……髪や爪も、こんなに綺麗にしてもらって。
相変わらずハンサムだな、誠一さんは。
天国に美人がいても浮気しちゃ嫌だよ……。
…………。
向こうで、ゆっくり休んでね。
大地のことは、私に任せて。だから……。だから……
お時間になりました。
――――あッ……
姉さん!
嫌! いやあっ……
おかあさ……
行かないで……。
いやあああ……ッ!!
…………。
(これからは今までよりもっといい子にして、ママを支えてあげるんだよ……)
……はい……。
・
・
・
【==== オランダ館屋内 ====】
僕、もっと……
……大地くん?
ぱちりと、澄んだ瞳が開いた。
メッセージカードを作った後もなかなか薫さんが戻ってこないので、大地くんは私によりかかって、少し眠っていたのだ。
ぼんやりと私をしばらく眺めた後、大地くんはどこか寂しそうに笑う。
なんでもないです。
…………。
……あのね、大地く――
ごめん、湊川さん、大地! 随分待たせちゃいましたね。
……あっ、薫さん……。
はっと部屋の入口を振り向くと、そこには彼の他に、もうひとり20代後半くらいの女の人がいた。
お母さん!
ごめんねぇ、大地。ちょっと頭痛くなっちゃって。
でももう平気だからね!
彼女は走り寄る大地くんを笑顔でぎゅうっと抱きしめてから、私の方へ目を向ける。
初めまして、あなたが湊川さん?
は……はい! 初めまして、大地くんのお母さんですよね?
ええ。芳乃・ヴォルヒンって言います。
薫と大地がいつもお世話になってるみたいで……。
いえ、そんな! お世話になってるのはこっちの方です……!
芳乃さんはにっこりと笑みを深めると、私の手を長い指先で優しく握った。
迷惑じゃなかったら、これからも仲良くしてあげてね。
もちろん、私も仲良くなれたら嬉しいんだけど。
……! はいっ、こちらこそ……!
(わ~……)
芳乃さんは、思っていたより薫さんや大地くんに似ていて、とっても綺麗な人で、それに想像していたよりずっと明るく気さくな人だった。
……もちろん、「そう見えるだけ」かもしれない。
ここには息子の大地くんがいるし、私だって一応お客さん的な立場だし。
でも……無理に明るく振る舞ってるだけじゃなくて、もともと朗らかな人なんだろうなって何となく感じる。
大地のこと、見ててくれたんでしょう? 本当にありがとう。
いやいや、ただ横にいただけですし……。
そんなお礼を言われるようなことじゃ。
ううん、本当に助かったわ。ありがとう、椿ちゃん。
(……! 名前で呼ばれた……。なんか嬉しいかも……)
でも、もう夕方近いわね。良かったら、夕飯うちで食べてく?
あ……いえっ、ありがとうございます。
でも、家で用意してると思うので……。
長居しちゃってすみません。私、そろそろ失礼しますね。
そこまで送りますよ。大地、姉さんと一緒にいてあげて。
うん! お姉さん、今日はありがとう! ばいばい、またね。
……うん、またね、大地くん!
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・
オランダ館
芳乃さんにも改めて挨拶をしてからお家の前まで出ると……
湊川さん……。今日のこと、本当にありがとう。
薫さんが深く頭を下げるので、私は慌ててしまう。
そ、そんな。
私がしたのなんてちょっとした荷物運びと、大地くんの横でぼーっとしてただけで……
でも、大地が「一緒にいてくれ」って頼んだんじゃないですか?
え? ええ、大人と一緒じゃないと刃物を使っちゃダメだからって……。
やっぱりしっかりしてますよね。
……うん。しっかりしすぎてるんだ、あの子は。
…………。
きっと姉さんに負担をかけないようにだろうけど、大地、やりたいことや欲しいものをかなり我慢するようになって……。
(……確かに、それはそうだよね。はたから見ててもわかる)
でも大地は、湊川さんが相手だと結構素直でいられるみたいだから。
……? 私ですか?
町中で会った時、大地から公園に誘ったでしょう?
いつもだったら、湊川さんと遊びたくても、自分からは言い出さないんです。
僕や周りの人間が気付いて促さなかったら、我慢したまま。
でもあの時は、大地から遊ぼうって誘ったし、今日だって、湊川さんにそばにいてほしいって自分で頼んだ。
……あ……。
そ、それは……私が周りの人達の中では、年齢が大地くんに近いからかもしれませんね。
精神年齢で言ったら、同じくらいかも、あはは……。
歳が近いというのはあるかも。
でも、それだけじゃないと思いますよ。
湊川さんが優しくて、真っ直ぐな人だから。
信頼できるって、きっと大地も思ってるんです。
夕陽に淡く染められながら、薫さんが眩しそうに目を細めた。
そんなふうに言ってもらえたのが嬉しくて喉を詰まらせていると、彼はちょっと慌ててた様子で付け足す。
あ……でも、本当はそうやって大地に頼ってもらうのは僕達の役目ですから、湊川さんに負担をかけたいわけでは決してないんです。
うちの事情や大地のことで湊川さんが気に病むことなんて、全然ありませんから。
……いえ、そんな……。
だってこの前公園で遊んだ時、私のこと、大地くんと薫さんの友達だって言ってくれましたよね。
私、嬉しかったです。
……湊川さん……。
ほ、ほら、友達って助け合うものじゃないですか。
だから何か困ったこととかあったらいつでも呼んでくださって大丈夫ですから!
私にできるのなんて、ほんの些細なことでしょうけど……。
……いえ。
湊川さんと一緒にいると、清々しい、楽しい気分になるんです。
それってすごく大事なことだと思いますから。
じんと私の胸を痺れさせて、薫さんはポケットから手帳とペンを取り出した。
手早く何かを書きつけた手帳のページを破って、私に差し出す。
そこに記されていたのは、彼のメールアドレスと電話番号だった。
良かったら、都合のいい日に食事でもご馳走させてください。
今日のお礼を改めてしたいので、大地と、嫌じゃなければ姉も一緒に。
……! い、嫌だなんて……!
……お礼なんてされるほどのことじゃありませんでしたけど……
でも、都合つけて連絡させてもらいますね。
また、皆さんとお会いしたいですから。
うん、僕も。
「僕も」――そんな一言に心音が高鳴る。
私は彼にもらったアドレスを大事に手のひらに包み、切なさと溢れるような熱を抱えて、帰途についたのだった……。