神戸・北野 香りの家オランダ館
~8話~

高校教室

薫さんのお家にお邪魔してから週が明けた、月曜の放課後。

「お洒落を頑張ってたけど最近はどう?」と聞かれた私は、ファッションやお化粧についてアドバイスをくれた皆へのお礼も兼ねて、最近のことを軽く報告した。

その流れで、薫さんから食事に誘われたことも話したのだけど……。

小春

え~っ、つっつんすごーい!! デートなんて……!

椿

デ、デートまでいってないよ! 全然ふたりきりとかじゃないし、4人でランチするだけ。

瞳子

……でも、その人のお姉さんと甥子さんとも仲良くなれたわけっしょ。
何か家族ぐるみってカンジ。

しかも相手の男の人、調香師って……アレ、すっごい狭き門なんでしょ?

椿

……へっ? そうなの?

いや、あたしも演劇部の関係でちょろっと調べ物してかじっただけだけどさ。

食べ物用の香料を扱うフレーバリストならまだしも、香水とかを調香する人は日本で100人くらいしかいないとか。

しかも一人前になるには10年くらいかかるともネットに書いてあったような……。

その男の人、二十代前半くらいなんでしょ? ならかなりすごいんじゃない?

椿

……ど、どうなんだろうね? 本人からそんな話は全然聞かなかったけど。

椿

(でも薫さんのことだし、さっきのが本当だったとしても、自分から言いそうにはないよね……)

ま、そういうのは海外の一流ブランドでオリジナル香水出してるような人の話で、メーカー勤務ってなるとまた別なのかもしれないけど。

瞳子

……で、今度その人達とランチに行くと。

椿

そうなんだ。
薫さん達が手が離せない時に、大地くんの相手をちょっとしただけなんだけど……そのお礼だって。

椿

ディナーとかだと高くなっちゃうだろうし、明後日の夕方、ご馳走してもらうことになったんだ。

小春

へええ~、やっぱりすご~い……。

小春

あ……でもつっつん、明後日ってことは普通に部活ある日でしょ? 部活終わってから行くの?

椿

……! えっと……その日は部活休もうかと思ってるんだ。
土日にできればよかったんだけどね。

椿

薫さん達もお仕事とか都合があるし、土日だと混雑するかもだし、相談して明後日がいいかなって。

椿

でも休んだ時は帰ってから自主トレしてるから、なんとか大丈夫だよ。

瞳子

ふ~ん……。

ま、普通はほぼ毎日練習してるわけだし、それだけでもエライんじゃない?

小春

ナギちゃん、結構サボるもんね~。

いーの、うちは大会前とかでもなけりゃ、そういうとこわりかし緩いから。

椿

(……大会前か……)

気づけば秋季記録会までは、あと1週間ちょっとに迫っていた。

椿

(それが気にならないわけじゃないけれど……)

でも大会前の時期は、徐々に練習量を減らしたり休養日を入れて日頃の疲労を抜き、本番をベストコンディションで迎えられるように調整するものだ。

椿

(だから、問題ない……はずだよね)

瞳子

……ま、心配いらないなら良かったよ。
ウチらも煽ったみたいなとこあるから。

椿

煽ったとかじゃないって。色々教えてくれただけだよ!

椿

コーディネートとかメイクとか全然わからなかったから、私、本当にありがたいと思ってるし……

椿

次の1回だけかもだけど、憧れの人と食事まで行けるようになったのも皆のおかげだと思ってるし!

瞳子

…………。

椿

だから食事の時もお洒落して、お互い楽しめるように頑張ってくるね……!

北野坂

――そして約束をした当日……

椿

今日は本当にごちそうさまでした。とっても美味しかったです!

和やかな食事を終え、私はお店の前で頭を下げる。

芳乃

椿ちゃんの口に合ったなら良かったぁ。美味しかったね、大地。

大地

うん!

本当に今日は付き合ってくれてありがとう、みな……

じゃなかった、椿さん。

椿

……っ、はい……!

薫さんに名前で呼ばれ、じわりと頬が熱くなった。

きっかけは、食事の途中――

大地くんが「お母さんだけお姉さんを名前で呼んでていいなあ」と言い出したことだった。

「僕も名前で呼んでいい?」と大地くんに聞かれ、もちろん断るはずもなく……。

椿

『あ、あの、薫さんもあんまり気を遣わずに、名前呼びでいいですから!』

勢いに任せ、勇気を出してそう言った私に、彼は「じゃあお言葉に甘えて」と返してくれたのだ。

大地

椿ちゃん、ばいばい。またね~!

椿

うん、またね!

……別れ際までは必死に平静を保っていたものの、彼らに背中を向けた瞬間、つい顔がだらしなく緩んでしまう。

まるで夢を見てるみたいに幸せで……

だから、その落差でショックは大きかった。

屋外グランド

椿

(……うそ……)

記録会までちょうど1週間前となった、土曜の午前練習で。

TT……タイムトライアルの結果に私は呆然としてしまう。

タイムトライアルというのは、自分の状態を確認したりレースの予行演習をするために、本番に近い条件で走って記録を計測することだ。

その結果が……今までの自己記録から見た目標タイムに、全然届いていなかった。

何回かやらせてもらったけどタイムは縮まない。

――「うそ」なんて、最初は思ったけど。

でも、薄々記録が落ちてしまった理由は自覚していた。

お洒落研究のためにウィンドウショッピングをしたり、化粧の練習をしたり、フリマへ行ったり……

そういうことで今までより忙しくなった分、何度か寝不足のまま部活に出たり、部活を休んでしまったこともある。

椿

(頻繁にじゃないし、自主トレはしてたから大丈夫だって思ってた……ううん、思いたかった)

椿

(でもきっと、単に練習量が減ったことだけじゃなくて、気持ちも影響しちゃってるよね)

走ることが好きだって気持ちを今までは一番優先していたし、それに迷いなんてなかった。

でも、今は色んなことに気が散ってしまっていたし、そんな自分を心の奥底で後ろめたく思っていたのかもしれない。

スポーツは体だけ鍛えていればいいってものじゃなくて、当然精神面も影響してくる。

自信を持つことや、理想の自分や走りをイメージしながら練習することはとても大事だ。

それなのに、私は……。

椿

(……どうしよう)

たまたま今日、調子が悪いだけ……じゃないことは、何となくわかってしまっている。

次のメニューにすぐは移れず、ふらふらとグラウンドの端に寄ると……

椿

(あ……)

朝子

…………。

タオルで汗を拭きながら水分補給をしていた樋口さんに、思ったより近づいてしまっていた。

しばらく前、不調な様子だった樋口さん。

そんな彼女はさっきのタイムトライアルで、ぐっと記録を縮めていた。

あの不調は新しい練習方法に慣れていなかったための一時的なもので、「もっと上達するためには……」と模索し続けていた樋口さんの努力がちゃんと実ったんだ。

羨んだりする気持ちはないし、私がそんなふうに思う資格はない。

椿

その……樋口さん、すごかったね。私も見習わなくちゃ――

朝子

インハイ出場目指してるって大口叩いてたけど、あれ嘘だったんだ。

朝子

私には関係ないから、別にどうでもいいんだけど。

椿

…………。

立ち尽くす私には構わず、樋口さんはすぐに次のメニューをこなすために去っていった。

椿

(……そう……だよね)

椿

(ほんと、どの口がインハイなんて言ってたんだろ……)

佐久間先生

個人的にはあんまり好きじゃないのよ、部活に全てをかけろとか、精神論がどうのこうのって。

佐久間先生

確かに湊川は次の部長候補だし、ムードメーカーだけどさ、基本、陸上はチームプレイじゃなくて個人競技だからね。

佐久間先生

「湊川がいないから盛り上がらない、調子が出ない」なんて、人のせいにするのは筋違いだと思うのよ。

佐久間先生

でも、ここは学校で、部活だから。
皆で一緒にやることの意味や、お互いが与える影響がゼロだとは言えない。

佐久間先生

それに……記録が落ちて一番ショックなのは、湊川自身だろうし。

佐久間先生

だから、気にしなくていい、記録が落ちたって構わない、って言うと嘘になるわね。

椿

……。……はい……。

佐久間先生

……今の湊川には、何か陸上より優先したいものがあるのかもしれない。

佐久間先生

ひとつわかっておいてほしいのは、私はそれを必ずしもいけないと言いたいわけじゃないのよ。

佐久間先生

別に陸上やるためだけに生まれてきたわけじゃなし、湊川がその選択を後悔しないのなら、部活をセーブしたっていいと思うわ。

佐久間先生

湊川の明るさとかのびのびしたフォームとかが私は好きだから、出席が減ると寂しいけどね。

椿

は、はい……ありがとうございます。

椿

もう少し、自分でよく考えてみたいと思います……。

高校中庭

椿

(あ……。あすか先輩、まだ残って練習してるんだ)

練習を終えて学校の門へ向かっていると、遠くに校舎の周りを走る先輩の姿が見えた。

あすかさんは10月の下旬頃にある高校駅伝の予選に出る予定で、その結果次第だけど、長くても年内には引退してしまう。

高校最後の大会に向けて、受験を控えながらもひたむきに練習を重ねているんだ。

それなのに、私は……とまた思ってしまう。

先輩に気付かれないように、こそこそしながら足を速めた。

???

――よっ、椿。

千尋

今日は走ってガッコ出ていかねえの?

椿

あっ……千尋。千尋も軽音部の土曜練習?

千尋

ああ、そろそろ文化祭の準備期間も近いしな。
うちもライブやんだよ。

椿

そっか……。ふふっ、楽しみだな、千尋のステージ。

千尋

……椿、大丈夫か?

椿

…………。

千尋

あー……悪い、上手い言い方できなくて。

千尋

こういうのは瞳子とかの方がいいんだろうけど、あいつ先帰っちまったからよ。

椿

ううん。心配してくれてありがとう。

椿

……あのね、今思うと、なんだけど……。

椿

私、最初はきっと『恋に恋してる』状態だったと思うんだ。

千尋

ん……うん?

椿

私にも初恋がやってきたんだって浮かれて、薫さんに恋をしてたっていうよりは、格好良くて年上で、ハーフの男の人と偶然出会ったっていう、ロマンチックな状況にはしゃいじゃってただけっていうか。

千尋

…………。

千尋

でも……今は違うんだろ?

椿

……うん。多分。

千尋

お前がさ、そうやって本気になってるなら、オレも応援したいって思うよ。

千尋

だけど最近の椿、何だか無理してるんじゃねえかって……。

千尋

オレは無理に女らしくしなくたって、いつもの椿の方がいいと思うし、その『薫さん』って人が本当にイイ人なら、そのままの椿を好きになってくれるんじゃねえの?

椿

…………。

椿

やっぱり女の子らしくなんて、私には似合ってなかったかな。

千尋

え!? い……いや、そうじゃなくて……。

椿

ごめんね、千尋が励ましてくれてるのは、よくわかってるんだ。

椿

でも私、悩んだりするのが下手みたいで。
考えれば考えるほどどうしたらいいかわからなくて……。

千尋

椿……。

椿

だけど、確かに突っ走りすぎだったなあ……とは自分でも思うんだ。

椿

だから、これからどうするか落ち着いて考えてみるよ。

椿

元気付けてくれてありがとね、千尋。また明日。

千尋

……おう。また明日な。

千尋は気を利かせてくれて、小走りで先に学校の門を抜けていった。

私も同じ道筋を辿りながら、ふうと沈んだ息をつく。

……陸上部の練習は全然苦にならないし、走ることは大好きで続けたいと思う。

プロの選手を目指してるわけじゃないし、将来のこともまだぼんやりしか考えてないけど、佐久間先生みたいな体育の先生や、スポーツジムのインストラクターとかになれたらな……という気持ちもあった。

……私が女の子らしい物事を全然好きじゃなくて、薫さんのために無理にやっている……というのなら、陸上を最優先しよう、女の子らしくなんてもうやめちゃおう!と簡単に吹っ切れたかもしれない。

だけど、恋をすることも、慣れないお洒落をすることも、楽しかった。

ただ……初恋に浮かれてはいても、「この恋が叶う可能性はとても低い」ということはずっと頭の隅にあって、薫さんにとっての私は、友達か、せいぜい妹くらいなんだろうとも思う。

その状況で部活に専念していたら彼らとの接点がなくなって、子供の私なんてもう相手にされないか、私の知らない間に素敵な女の人が現れてしまうんじゃないか……という不安もあった。

椿

(それでも、陸上をおろそかにしちゃってるのは、絶対よくないことだよね……)

椿

(恋も部活も両立するなんて、私には無理なのかもしれない)

椿

(……どっちか、諦めなくちゃいけないのかなぁ)

高校校門

椿

……ん?

椿

(携帯が……メールかな?)

ポケットに振動を感じて、中に入れていた携帯を取り出す。

画面を見ると、電話の着信で――かけてきた相手は、薫さんだった。

椿

(……!! ど、どうしたんだろう)

嬉しいけど複雑な気持ちで、通話ボタンを押して耳に当てる。

椿

はい、湊川ですが……

『椿さん! 急にごめん……大地を見なかった!?』

椿

えっ?

薫さんの焦った声に、ぎくりと緊張が走った。

さっきまでの落ち込みも一旦押しのけて、心配な気持ちが湧いてくる。

椿

大地くんを? いえ、私は見てませんが……。迷子ですか?

『……さっき、大地が僕の香水瓶を落として割ってしまったんです』

『ガラスの破片を大地が拾おうとしてたから、僕がダメだ、隣の部屋に行ってなさいと言って……』

『片付けを終えたら、大地が家のどこにもいなかったんです。近くを捜しても見つからない』

椿

(…………!)

『香水瓶のことで僕が怒ってるとか、きつく叱られたと思って、混乱して飛び出してしまったのかもしれない』

『申し訳ないんだけど、もしどこかで大地を見かけたら――』

椿

い、いえ! 私この後予定もないので、捜すの手伝います! 手伝わせてください!

『あ……』

『……ごめんね、ありがとう。大地を見たり手がかりがあったら、連絡してもらえますか?』

椿

はい! 何かあったら、すぐお知らせしますね!

口早に今日の大地くんの服装を聞いたり、手分けして捜す方面を決めてから通話を切った。

それから一応お母さんにも「遅くなるかも」と簡単に事情を書いてメールした後、私は電話を切って携帯をしまいこみ、地面を蹴って駆け出す。

椿

(大地くん、大丈夫かな……。もうすぐ日が暮れちゃいそうだし、急がないと!)

北野坂

チラシ配りの人

う~ん……。そういう子は見てないねえ。

椿

そうですか……ありがとうございました!

大地くんがいなくなったという連絡を薫さんから受けた後、私は急いで彼らの家の付近まで行き、あちこち聞き込みをしながら捜索していた。

大地くんが自分で帰ってきた時のために、在宅していた芳乃さんはそのまま家に残ってもらい、薫さんは私と別方面を捜しているそうだ。

それと、薫さんのお父さん……大地くんから見てのおじいちゃんは海外勤務なので日本にはいないけど、おばあちゃんである薫さんのお母さんはあのお家で同居なので、仕事を早めに切り上げて一緒に捜してくれているらしい。

……それでも、まだ携帯に「見つかった」という連絡は入っていない。

椿

(小さい男の子が1人で歩いてたら結構目立つとは思うけど、この辺り人通りも多いし……)

椿

(夕陽が眩しくてちょっと視界も悪いから、あんまり人の目に留まらなかったのかも)

秋空の端はもう暗くなり始めている。
気が焦るのを感じて、足を速めた。

とにかく走って走って、気になる場所は大地くんの名前を呼びながら覗き込み、近くの人に声をかける。

北野坂

――そして夕陽が完全に沈んで暗くなった頃、やっと手がかりが見つかった。

道路工事の人

その子なら、見たかも……さっき、あっちの方に歩いていったよ。

椿

えっ……本当ですか!?

道路工事の人

多分……。
こんな時間に子供が1人だから、ちょっと気になってはいたんだ。

椿

あ……ありがとうございます! そっち、捜してみます!

勢い良くお辞儀をしてから、ぱっと踵を返して走り出す。

椿

(そうだ、手がかりがあったってことだけでも薫さんに伝えておこう。芳乃さんも少しは安心するよね)

立ち止まる時間も惜しく、小走りのまま携帯で薫さんに電話して目撃情報を伝える。

まだ目撃情報の子が大地くんだと確定したわけじゃないけど、薫さんも急いでこっちへ向かうそうだ。

椿

(よしっ、連絡は済んだし……急ごう! こっちだったよね)

住宅街

さっきの人が「あっちの方に~」と指差したのは、薫さんの家に戻る方角だった。

もしかしたら自分で家に帰ろうとしているのかな?と思ったけど、聞き込みをしながら進んでいくと、薫さんの家を通り過ぎ、小道に入っていく。

【==== 山道 ====】

椿

(ここ、『うろこの家』の裏側辺りだよね)

椿

(確か、このまま進むと『港みはらし台』っていう小さい展望台があるんだっけ)

この辺りは穴場的なスポットなのと街灯がないのもあり、他に人気はない。

心配を募らせながら、携帯をライト代わりにして走っていくと……

椿

――あっ!

さらりとした金髪が目を引く大学生くらいの男性と、彼と同じ年頃のポニーテールの女性……

そして女性のそばでうつむいている大地くんが、そこにいたのだった。