神戸・北野 香りの家オランダ館
~4話~

カフェ

姉の夫……義兄は、半年前に亡くなってしまいましたから。

椿

(――――!!)

急なことでしたが、仕事の無理がたたったようで……

姉もその後体調を崩してしまったので、大地と一緒に、北野にある実家に戻ってきたんです。

それを僕と両親でサポートしている感じですね。

椿

……す……

椿

すみませんっ! 私、立ち入ったことを……

いえ、いいんです。隠しているわけでもありませんし。

大地

ただいまー!

……ああ、大地、おかえり。ひとりで大丈夫だった?

大地

うん、ちゃんと石鹸で手も洗ってきたよ。

大地

あれ……。

大地

お姉ちゃん、どうしたの?

椿

……! う……ううん! なんでもないよ。

きっと薫さんは、大地くんがちょうど席を外している時だったから、事情を教えてくれたんだと思う。

椿

(半年前……たった半年前なんだもの)

薫さんはさらりと話していたけど、それがどんなに大変なことなのか、高校生の私にだってわかった。

今はこうして普通に見える大地くんもお父さんが亡くなって悲しくなかったわけがないし、そんな彼の前で、つらいことを思い出させるような話をできるはずもない。

椿

(私も変に気遣わせたり、気まずくなるような態度を取らないようにしなくちゃ――)

大地

お姉さん、僕のお父さんの話を聞きましたか?

椿

げほ……っ!?

……大地。

大地

あんまり、気にしないでください。

大地

それよりお姉さん、さっきコーヒーが好きって言ってたでしょう?

大地

僕がパフェを食べ終わるの、まだ時間がかかりそうだから、頼んだらいいですよ。

椿

え……。

大地

薫くん、いい?

……もちろんだよ。今お店の人を呼ぼうか。

椿

あ、あの……でも……。

大地に付き合ってもらっていいですか? きっと本人が言うようにまだ時間がかかるので。

コーヒーでいいかな? それともカフェオレとかのが好き?

椿

あ……じゃ、じゃあ、アイスコーヒーで。

うん。

椿

……ありがとうございます。大地くんも、ありがとう。

大地

ううん。一緒に食べようね。

すみません。アイスコーヒーひとつ追加でお願いします。

店員

かしこまりました! 少々お待ちくださいませ。

椿

(……結局、大地くんにまでいろいろ気を遣わせちゃったみたい)

椿

(でも、薫さんが優しいのもそうだけど……大地くんもすごいなぁ)

椿

(私が小1の頃って、もっと何も考えてなかった気が……)

しっかりせざるを得ない状況だというのも、きっとあるんだろう。

だけど、もし私が同じ年頃で同じ境遇だったら、多分人に気を配っている余裕なんてないだろうし、大地くんがすごく頭が良くて芯の強い子だっていうのは間違いないはずだ。

……彼らに比べると、薫さんにもう一度会いたい!と下心でやってきた自分が恥ずかしくなったり、軽率な発言のせいでこうして事情を説明させてしまったことを申し訳なく感じてしまうけど……

でも、本当に素敵な人達なんだなと改めて思う。

椿

……ね、じゃあ、大地くん。

椿

コーヒーのお礼に、お姉ちゃんの学校であった面白い話をしようか?

大地

えっ……なあに、なあに?

僕も聞きたいなあ。

椿

ふふっ、夏休み前のことなんですけど……

北野坂

椿

すみません、すっかり長い時間喋っちゃって……。
ごちそうさまでした、ありがとうございました!

椿

お話しできて、とても楽しかったです。

どういたしまして。僕達も楽しかったですよ。
ね、大地。

大地

うん……!

椿

(……本当に楽しい時間だったから、お別れが寂しいな)

椿

(でも、もともとこの1回だけって覚悟はしてたんだから――)

お互い北野町に住んでるし……きっとまたどこかでお会いできますよね。

椿

…………えっ。

僕達はフリマによく顔を出してるから、もし見かけたら声をかけてください。

大地

また、お姉さんの面白いお話、聞かせてほしいな。

椿

……あ、あの……

……? あれ、もしかしてお住まいは北野じゃなかったり……?

椿

……っ、い、いえ! この近所に住んでます!

椿

もしお会いできたら……。その時は、また……。

ええ。それじゃあ、また。

大地

またね~!

椿

(……また……)

椿

(また会える時を期待しても、いいのかな……?)

手を振りながら、私はふたりの姿が夕日に溶けていくのを、ずっと見守っていた。

椿の部屋

椿

…………。

家に帰り、自分の部屋へ入って後ろ手に鍵をかける。

そして荷物を下ろした私は、ぼふんとベッドに突っ伏した。

椿

(……あああ~……! 何だろう、この感じ……!!)

目を瞑ると、今日のやり取りが頭の中で浮かんでは消えていく。

薫さんの明るくて気さくな表情。

すごくいい子な大地くんと、薫さんが彼に向ける温かい眼差し。

お姉さんのお子さんだってわかって安堵した時のことや、立ち入った質問をしてしまった私を逆に気遣ってもらったこと。

薫さんも大地くんも、また会おうと言ってくれたこと……。

椿

(社交辞令ってやつかもしれないけど、すごく嬉しかった)

椿

(もう一度会えるだけでいいって思ってたのに、今は……)

この間の時とぜんぜん違う。

浮かれてしまうのもあるけど、それより胸が苦しい。

椿

(…………っ)

椿

(……わ、私……どうしたらいいんだろう!?)

今まで友達にどんな相談を受けても、答えに迷うことはなかった。

私はこう思うよ、こうあってくれたら嬉しいな……そんなふうに、すぐに自分なりの答えは出せた。

でも、今の自分の感情に何をするのが一番いいのか、わからない。

椿

……あ……。

ふと顔を上げると、鏡に映っている自分と目が合った。

椿

(……うっ。自分で言うのも悲しいけど、やっぱり女の子らしい可愛さとかはあんまりないよね……)

アドバイスしてもらって選んだ服はともかく、運動しやすいように短めにした髪や、筋肉質で柔らかさのない体のライン。

愛らしい、可愛らしいという雰囲気でもないし、かといって、かっこいい大人の女性的な魅力があるわけでもない。

椿

(……無理だろうってのは、わかってるよ)

椿

(これが本当に恋だとしたって、あんな大人の男性と、私なんかが釣り合うとは思えない)

椿

(本気で、付き合ったりしたいなんて考えてるわけじゃないけど……)

じわりと胸の奥の方で熱が広がる。

椿

(……でも、自分にこんな気持ちがあるんだってわかっただけでも嬉しいよ)

椿

(私にも、初恋がやってくるなんて……!)

タンスの上に置いていた小箱を、そっと手に取る。

蓋を開けると、懐かしい古びた髪飾りが姿を見せた。

子供向けのデザインで、壊れたのを直した跡があるヘアゴム。

椿

(小2だっけ、3年の時だっけ……)

椿

『ちょっと! そのカブトムシ、この子が捕まえたんでしょ? 返してあげなよ!』

いじめっ子

『げっ……また出やがったな、男女!』

あちこち首突っ込んで、掴み合いの喧嘩なんかもよくしてた。

椿

『――はい。怪我とかしてない?』

隣のクラスの男の子

『う、うん、僕は大丈夫。取り返してくれてありがとう……』

隣のクラスの男の子

『でも、これ……』

椿

『……あー……』

椿

『いいよ、別に! もともと似合ってなかったしさ』

椿

(……本当は気に入ってたんだよね)

椿

(友達からもらったものだったし、キラキラした飾りが、その時に好きだったアニメのヒロインみたいで……)

椿の兄

『……おう、お帰……って、どうしたんだお前!?』

椿

『………う、……おにいちゃん……』

家に帰ってから糸が切れたように泣いてしまった私を慰めながら、昔から手先が器用だったお兄ちゃんが直してくれたんだ。

でも、修理された後も髪飾りはしまったままにしていたし、いま思えば、その時から女の子らしいものを避けてしまっていたような気がする。

かわいいものを見て惹かれても、自分には似合わない。

私が身につけたら、せっかくのかわいいものが可哀想だし、また壊れてしまうかも……

そんなふうに心の奥で理由をつけて、遠ざけてしまっていたのかもしれない。

椿

(でも……これは、私にとって初めての恋なんだもん)

一生に一度しかない、大事な初恋。

どうせ無理だなんて、最初から何もしないで諦めたりなんかしたくない。

椿

(…………うん! 何をすればいいのか、まだよくわからないけど……)

椿

(でも、どうせダメでもともとなんだし。迷惑にならない程度に頑張ってみよう……!)

北野坂

――翌日。

椿

(トーコとこの間行ったお店は、あそこだったよね)

日曜日ということもあって、私は外へと飛び出していた。

少しでもかわいらしいものを研究できたらと、お洒落なショップをいくつか探しまわるためだった。

高校教室

椿

トーコ、ちょっといいかな?

瞳子

ん~?

その翌日の学校では、トーコにお願いして、短くてもかわいく見える髪形を教えてもらった。

合わせて、髪飾りやスタイリング剤とかの扱い方も、雑誌を見ながら説明してもらう。

椿の部屋

椿

ううーん……これで、いいのかな?

椿

何度やっても、なんかちょっと違うような……。

さっそく、帰り際にひとつずつ髪飾りとワックスを買って試してみたけど。

トーコのようにやってみても、雑誌を参考にしてみても、あか抜けた感じはしなかった。

それどころか夢中になりすぎて、過ぎた時間に青ざめてしまう。

椿

えっ! もう12時過ぎてるの!? 明日も朝練で5時起きなのに!

椿

(部活後に買い物して帰ってきたから、いつもより遅くなっちゃったんだ)

慌てて布団へと飛び込む。だけど……

椿

(……トーコが髪をいじってくれた時は、すごくまとまりがよかったよね)

椿

(使ってるワックスが違うからかな。奮発して、もう少し高いの買えば良かったかも……)

気が付いたらそんなことばかりを考えてしまって、すぐに寝付くことはできなかった。

屋外グランド

椿

ふ、あ……。

椿

(……昨日、全然寝られなかったよ。危なく寝坊しちゃうところだったし、気をつけなきゃ)

翌日の朝練。
もう一度あくびが出そうなところを慌てて飲み込んでいると、跳ねるような足取りで、後輩の瑞希ちゃんがこちらへ駆け寄ってきた。

瑞希

先輩……! 今日は絶好調なんですね。

椿

う、うん。そうなの、かな?

椿

(本当は寝不足で調子が落ちないように頑張ったからなんだけど……)

瑞希

よかった……! この間、調子が悪そうにしてたので安心しました。

瑞希

先輩が前を走っててくれると、わたしもやる気が上がって嬉しいです。

椿

……ありがとう、心配かけてごめんね。

椿

(……寝不足ではあるけど、今すごくやる気が満ちてるとは思うんだよね)

椿

(それに、気合いもたっぷりだから、調子が悪くないのは確かなのかな?)

その証拠に、今日の走りはすごく伸びた感じがした。

佐久間先生

湊川、今日のタイムいいじゃない。
特に出だしがすごく良くなってたよ。

椿

ありがとうございます!

椿

(やった……! これってもしかしてアレかな、恋愛効果ってヤツなのかも!)

佐久間先生

その代わり、最近は樋口が伸び悩んでるね。

佐久間先生

樋口には加速走の練習を多くしてみたけど、上手くいかない?

樋口

……はい。すみません。

椿

(……珍しいな、樋口さん。ムラのある私と違って、いつもすごく安定してるのに)

つい様子を気にしていると、ばちっと彼女と目が合った。

椿

あ……。

椿

ひ、樋口さん、加速走の練習を増やしたんだね!

椿

私と同じ先行型だから、びっくりしちゃった。

樋口

……ええ、先生の勧めで。

椿

あれって、追い上げ型の人の方が――

樋口

悪いけど、練習に戻るから。

椿

あ……。う、うん、ごめんね。

椿

(……う~ん、今日もうまく話せなかった)

樋口さんとはもう2年部活で一緒だけど、クラスが違うのもあってかあまり仲良くなれていない。

同じ100m走をやる仲間だし、彼女の陸上に対する真面目な姿勢とか安定した走りは尊敬しているし、私としては仲良くなりたいのだけど……。

椿

(でも樋口さんみたいな落ち着いた人からすると、私みたいなのってうるさいのかもしれないなぁ……)

佐久間先生

あ、そうだ。湊川、ひとつだけ。

椿

は、はい?

佐久間先生

気付いてないかもしれないけど、無理すると後からくるからね。

佐久間先生

体調の管理はしっかりとしておきなさい。

椿

……えっ……

椿

あ……はい。気を付けます!

椿

(……びっくりした。先生には寝不足だったのバレちゃってたのかな?)

少しだけ先生の言葉が気になったけど、その後も中々のタイムを出し続けた私はあまり深く考えることなく、好調のまま練習に励んでその日の朝練を終えたのだった。

高校教室

椿

(好調……だと思ったのに。部活とお洒落はまた違うよね……)

放課後――未熟さを自覚して、はぁ~と肩を落とす。

千尋

あれ……どうした、椿。落ち込んで。

椿

千尋。
……実はさっきトーコが部活行く前、軽く髪のセットしてくれたんだ。

椿

それなのに私、ついいつもの調子で手櫛でくしゃーっとやっちゃって……

千尋

あ~……。瞳子呼んできて直してもらうか?

椿

ううん。
この後私も部活だから、結局崩れちゃうのはそうなんだけど。

椿

でもわかってて崩れるのと、無意識に触っちゃって崩しちゃうのとはやっぱり違うよね。

椿

髪もそうだけどメイクとかも、汗かいて拭ったり、ちょっと指が当たっただけでよれちゃうしね。

千尋

…………。

千尋

……なんか、女って大変なんだな。

椿

え……?

千尋

瞳子なんかを見てっとそんなふうに感じなかったけど、お前が頑張ってんの見ると、男にはわかんなかっただけで、実は皆結構手間暇かけてんだなあって……。

千尋

だからって、あんまり教室で雑誌ばっか見てる椿もつまんねーけどさ。

椿

う……!

千尋

…………ま、お前が楽しいんならそれでいーよ。
頑張れ。

椿

うん……頑張るよ、私!

千尋

……おう。

千尋は軽く手を振って、部活に行ってしまった。

……私を心配していたから、千尋は色々と言ってくれたんだと思う。

だけどその時の私はそんな彼の思いなんて気が付きもしないで、かわいらしい女の子に……薫さんに見てもらえる女の子になりたい。
……ただ、それだけしか見えていなかった。