神戸・北野 香りの家オランダ館
~1話~

屋外グランド

椿

(……空が高い……)

見上げれば、秋空。
澄み渡った青が一面に広がっている。

アナウンス

『――100m女子決勝、出場選手をご紹介いたします。第1レーン、――さん……』

髪を風になびかせながら、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。

体調はバッチリだ。

アナウンス

『第5レーン、湊川 椿さん、県立北野――』

手を上げて応え、ゴールまでの道を見据えた。

ストレートに伸びるレーン。

0.01秒の違いで明暗を分ける私達の舞台。

でも、緊張することや、いいタイム出ないかもって不安になるのは、昨日の夜までで済ませたから。

今はそれより、早く走りたいってウズウズしてる。

邪魔するものも曲がった部分もない、私だけのシンプルな道を、光みたいにただ真っ直ぐ、駆け抜けていきたい。

審判

On your marks.

審判

Set……!

カフェ・ド・ミュージアム

全員

かんぱーい! 椿、1位おめでと~。

椿

えへへ……みんな、ありがとう!

放課後、いつもの喫茶店で……。

市の陸上大会で女子100m1位を取った私を、仲良しの皆が祝ってくれていた。

ちなみに今日は、大会の疲れを取るため陸上部はお休みとなっている。

小春

つっつん、すごいね! 100mって陸上で一番人気の種目なんでしょ? それで1位を取っちゃうなんて。

小春

しかも、2位は隣のクラスの樋口さんなんだよね。
同じ学校で上位2つ押さえちゃうなんてそれもまたすごいよ~。

右隣に座っている春ちゃんが、大きな丸い目をきらきらと輝かせた。

椿

ありがと~。でも、私なんてまだまだだよ。

椿

樋口さんともかなり微差だったし、私って結構記録にムラが出ちゃうんだよね。

椿

県レベル、ううん地区レベルで通用するように、さらに頑張らなきゃだよ。

そっか、今回のは市の大会だったっけ。

インハイは近畿地区で上位にならないと出場できないもんね。

むしろ、市レベルで優勝できないとまずいわけか。

左隣に座る渚は、クールに眼鏡を指先で持ち上げる。

椿

うん。1年の時と今年のインハイも、近畿地区大会出場を逃しちゃったし。
新人戦でも県大会止まりだし……。

椿

ここで喜んでないで、来年こそ目指せインターハイなんだ!

瞳子

……とはいえ、神戸で1位っしょ? 十分すごいんじゃないの。

瞳子

今日くらい素直に祝われときなって。

目の前の席で、読者モデルもやってるくらいお洒落好きなトーコが、長い睫毛を揺らして笑う。

そして……

千尋

そうそう。
真面目なのもいいけどさ、仲間内でちょっとはしゃぐのくらい全然アリじゃん!

右斜め前に座る千尋が明るく言うと、トーコはふと怪訝な表情を浮かべた。

瞳子

あんたさあ……

千尋

え?

瞳子

心が強いよな。女4人の中に男1人乗り込んでくるって。

千尋

………………うっ。

……そう。
この場には私を含めセーラー服が4人で、千尋だけが学ランな男の子だったのだ。

椿

(確かに、女の子ばかりの中に男の子1人とかその逆とかは、珍しいかもしれないけど……)

椿

でもお祝いしてくれてるんだし、千尋が来てくれて私は嬉しいよ。

千尋

お、おう! いいよな!? オレここにいていいよな!?

千尋

つか用事とかあって来られなかった奴から「俺の分まで祝っといて」って伝言されたのもあって来てるから、気持ち的には男1人じゃなくて、そいつらの魂も背負ってるし……!

瞳子

いや別に、帰れとか男がいちゃ悪いっつってるわけじゃないんだけどさ。
な、渚。

必死さがありありと伝わってきて見てる分には面白いしね。

椿

(必死さ……?)

小春

もう2人とも、あんまりちーちゃんで遊んじゃ駄目だよ。
可哀想じゃない。

千尋

……か、可哀想って……。

小春

それにつっつんが1位だったの聞いて、最初にお祝いしようって言い出したのちーちゃんだもんね。

椿

……えっ、そうなの? 千尋。

千尋

あ……ああ。
お前、インハイとか新人戦の近畿大会行けなかったの、割と落ち込んでたし。

千尋

だけど来年に向けてって、へこまずにずっと練習してただろ。

千尋

だから何かでいい結果が出たら、励ましてやろうと思ってたんだよ。

椿

千尋……。

思わずじんとしていると、千尋が笑って腕で小突くフリをする。

千尋

な、なんてな。
まあ、みんなで騒ぐきっかけが欲しかったっつーのが、一番の理由だって……!

椿

あはは、千尋らしいね!

千尋

だ、だよな~。

小春

……もう、つっつんったら。

有原見てると不憫すぎて笑えてくるわ。

瞳子

ウケる。

……と、しばらく賑やかにしていると。

凛子

いらっしゃい。今日はずいぶんと楽しそうね。

この喫茶店の女性店主である凛子さんが、カウンターを出てこちらへやってきた。

椿

凛子さん! すみません、うるさかったですか?

凛子

ううん、そうじゃなくて。
新作メニューの感想を聞きにと、ちょっと宣伝でもと思って。

椿

あ、この桃のワッフルならすごく美味しかったです! ヨーグルトソースもすごく合ってて。

凛子

ふふ、ありがとう。

椿

……で、えっと、「宣伝」ですか?

凛子

ええ。
このお店とは関係ないんだけど、私、趣味でフリーマーケットに出店したりしてるの。

凛子

あの賑やかな雰囲気が結構好きなのよね。

凛子

それで今度の日曜日にも近くの公園でフリマがあるんだけど、女性向けの古着とか小物の取り扱いが多いみたいだから、あなた達もどうかしらと思って。

椿

へえ、フリマですか……。

椿

(面白そうとは思うけど……私は遠慮しておこうかな)

椿

(大会が終わったばかりとはいえ秋季記録会も近いし、日曜は部活後に自主練もしておきたいんだよね)

小春

この辺りでフリマとかやってるんだ。
わたし、行ってみたいなあ!

瞳子

お……! じゃあ、皆で行ってみっか。

悪いけど、あたしは無理かな。
その日は昼前から用があって。

椿

私も。その日は部活が――

瞳子

渚はともかく、椿の部活は午前だけっしょ?

瞳子

凛子さん、午後にこの3人で顔出しに行きますから。

椿

えっ……!

瞳子

その代わり、いいのあったらちょっとオマケしてくださいよ。

凛子

ふふ、いいわよ。

椿

い、いや、部活の後に自主練――

千尋

な、なら、オレも行ってみっかな……!

瞳子

オトコが女の買い物に混じんとウザいから、マジやめて。

千尋

なっ……!

小春

ヒトミンはちーちゃんに容赦ないよね~。

あのふたりもある意味仕様っていうか。

椿

ちょっ、トーコ、私……!

瞳子

じゃあ、日曜日。
部活が終わる頃学校まで迎えに行くからな、椿。

椿

(えええ~!)

北野町広場

――そして、日曜日。

小春

わー、このネックレスすごくかわいい~!

瞳子

てか、安っ! マジ安っ! おにーさん、ホントにこの値段!?

レジャーシートに並べられた服やアクセサリーを眺めて、春ちゃんとトーコがはしゃいでいる。

広い公園の中は、同じようにフリーマーケットに参加しているお店と人で、とても賑わっていた。

椿

(結局、断れなくて来ちゃったよ。もうちょっと練習していきたかったのが本音だけど……)

椿

(まあ、ふたりが楽しそうだからいっか。私もこういうのが嫌いってわけじゃないし)

椿

(……あ、あそこで食器並べてるお店、見にいこうかな? この前マグカップ割っちゃったんだよね)

小春

ねえねえ、つっつん!

椿

ん……うん?

小春

これどう? 可愛くない?

春ちゃんが広げて見せたのは、綺麗な刺繍の入った、上品な白いブラウスだ。

椿

わあ、いいね。

小春

だよねえ! つっつんに似合うんじゃないかと思って。

椿

……へっ?

椿

(春ちゃんが気に入ったのかと思ったら、私に……!?)

椿

いやっ、春ちゃんには似合いそうだけど、こんな可愛いの私にはもったいないってば。

瞳子

……別にもったいないってことはないと思うけどさ。
ま、好みは人それぞれだし。

椿

似合いそうって言ってもらえたのは嬉しいけどね。
あ、これとか春ちゃん好きなんじゃない?

小春

うん、好きっ!

瞳子

コレいーよ。いま流行りだし。
この間の撮影で小春っぽい子が着てて、すごく似合ってた。

小春

えー、そんなこと言われたらすごく悩む! 買っちゃおうかなあ……!

小春

あ、向こうにクレープの移動販売車が来てるね!

色々と物色しながら凛子さんが出店しているエリアに向かっている途中、たくさんの屋台が並ぶスペースを通りかかる。

瞳子

いいね、寄ってくか。椿はどうする?

椿

私は……いいや。
学校でお弁当食べてきたばかりだから、お腹いっぱいで。

瞳子

そう? じゃあ、あたし達だけちょっと並んできていい?

小春

ごめんね。混んでるから待たせちゃいそうだけど……。

椿

ううん! あっちにベンチあるし、私、場所取って待ってるね。

小春

つっつん、ありがとー!

ふたりに手を振って、近くの飲食スペースへ移動する。

椿

(ふたりとも、目がキラキラしてたなぁ。やっぱり女の子は甘いの好きな子多いよね)

私はといえば陸上をやっているせいもあって、甘いものや太るようなものは基本的に避けるようにしていた。

この前お祝いしてもらったみたいに特別な時は普通に食べたりするし、絶対NGってほどでもないんだけど。

だけど皆と一緒に美味しいものではしゃげなくて、ちょっと寂しいなんて思ったりもする。

椿

(甘いものだけじゃなくて、ファッションとか恋愛話とかもそうなんだよね~)

椿

(話を聞くのは好きなんだけど、自分がお洒落したり恋したりってなるとさっぱりだし)

椿

(まだ高校生だからいいのかもしれないけど、『もう高校生』でもあるからなぁ)

椿

(私ももうちょっと、その辺の経験をしておいた方がいいんじゃないかと思ってはいるんだけど……)

椿

(…………)

椿

(……って、そんなことぼーっと考えてる場合じゃないや。全然空いてるベンチがないよ)

椿

(う~ん、向こうの方はどうかな)

椿

(――ん?)

行き来する人達の間を縫って席を探していると、ふと食べ物ではない匂いがほのかに香った……気がした。

何となく気になり、香りの元はどこだろうと振り向いて――

椿

わっ……!

肩に強い衝撃を受けて、足元がふらつく。

同時に、バラバラっと地面に何かが落ちる音がした。

椿

(……! 誰かにぶつかっちゃったんだ!)

椿

す、すみません……!

顔を上げたのと同時、先ほどの香りがまたふわりと匂い立つ。

椿

(……あ……)

???

いえ、こちらこそ……大丈夫ですか?

香りが届いた瞬間、心地よくて気持ちが穏やかになるような、そんな感覚。

椿

(……この人から……?)

目の前にいたのは、ハーフなのだろうか、少し異国の雰囲気を感じさせる顔立ちの男性だった。

深い色の瞳が、心配そうに私を窺う。

???

どこか怪我とかされていませんか?

椿

あっ……わ、私は平気です。
でも、あなたの荷物が……。拾わなくちゃ!

人に踏まれてしまわないようにと、急いで2人で落ちた箱や袋を拾い集めた。

椿

壊れたりしたものとかありませんか?

???

大丈夫みたいです。
ありがとうございます、助かりまし――

椿

……ああっ!?

???

……!? ど、どうしました?

椿

ごめんなさいっ!!! 服にクレープのクリームが……!

???

え……ああ、コレ?

???

あはは、大丈夫。
コレは僕が持っていたクレープのせいだから気にしないでください。

???

座れる場所が見つからなくて、持ったままフラフラしてたのが悪かったんです。

椿

そんな、私がいきなり振り向いたりしたから……。
本当に申し訳ありません!

???

気にしないでください。
後できちんと洗っておけば大丈夫ですから。

彼は汚れをハンカチで拭いながら、明るく私を気遣ってくれた。

???

それじゃあ。

椿

は、はい! すみませんでした!

椿

(……! あ……!)

頭を下げた瞬間、小さな箱が視界に入る。

椿

(ひとつ拾いそびれたんだ!)

椿

あ、あの……!

だけどその時には、男性は人ごみの中に消えてしまっていた。

椿

(どうしよう……絶対さっきの人のだよね?)

慌てて箱を拾って彼を追いかける。

でも、彼は席を探すのを諦めて別の場所へ行ってしまったのか、どんなに周りを探してみても、あの男性を見つけることはできなかったのだった。

北野町広場

小春

凛子さーん! こんにちはー。

凛子

あら、本当に来てくれたのね。ありがとう。

あの後、私はトーコ達と合流して、凛子さんのお店へ来ていた。

結局、あの小さな箱は私が手にしたままだ。

勝手に中を見るのもどうなんだろうと思って開けてはいないけど、箱には「Perfume」と書いてあるし、重さやサイズから、入っているのは香水瓶だと思う。

手書きの値札がついていたから、多分このフリマで購入したものじゃないだろうか。

椿

(あの人の香りも……香水だったのかな)

椿

(男の人でも香水とかするんだ)

凛子

……どうしたの? 椿ちゃん。珍しくぼうっとして。

椿

え……! あっ!

椿

ご、ごめんなさい。そんなにぼんやりしてました!?

小春

あはは、してたねえ。

瞳子

椿はね、さっきぶつかった人の落とし物が気になって仕方ないんですよ。

凛子

落とし物?

瞳子

拾って届けようとしたけど、その人すぐに消えちゃって、どうしたらいいか困ってるんですって。

椿

う、うん。そうなの。これなんですけど。

椿

今日、もう会えなかったら、フリマの運営の人か、交番にでも届けようかと思ってて……。

拾った箱を見せると、凛子さんは少し考えるような顔をする。

凛子

……その人、どんな人だったかしら。

凛子

もしかしてハーフっぽい顔立ちで、眼鏡をかけた黒髪の男の人?

椿

あ……! そ、そうです。
多分その人です! 凛子さん、知ってるんですか?

凛子

その人、きっとフリマの常連さんよ。
アンティークな小物を集めてて、特に香水瓶が好きみたいなの。

凛子

ウチでもアンティーク系の雑貨を出してると寄っていってくれるから、少し話したこともあってね。

凛子

来週土曜にも神社でフリマがあるんだけど、そこは骨董品とか、外国で買い付けたアンティークを売ってる人も多いの。

凛子

そのフリマにもよく行くって言ってたし、規模も大きくないから、運が良ければ会えるかもしれないわよ。

椿

えっ……。

椿

(そっか……あの人が凛子さんの知ってる人で合ってるなら、そうやって直接会って渡す方法もあるんだ)

彼からふわりと香る、優しい匂い。

大人びた男性らしい顔立ちと、でも気取ったところのない気さくで朗らかな態度。

あの時の出会いを思い出すと、なぜだか少し、その日が楽しみになる。

椿

(……落とし物を届けたいってのもあるけど)

椿

(服を汚しちゃったことやぶつかって荷物を落とすことになったのも、改めてちゃんとお詫びをしたいな)

椿

凛子さん、教えてくださってありがとうございます。
私、そのフリマに行ってみようと思います。

凛子

ええ。その人と会えるといいわね。

瞳子

…………ふ~ん。

小春

何だか、予感がするね~。

瞳子

いい方に行けばいいけど。
ま、人生何事も経験よ。

香水瓶の箱を両手で包んで見つめる私は……

春ちゃんとトーコが面白がるようにこちらを眺めていたことや、今日の偶然の出会いがこの後大きな変化を自分にもたらすことになるとは、その時はちっとも気付いていなかったのだった。