神戸・北野 香りの家オランダ館
~2話~

屋外グランド

瑞希

先輩、今日はどこか調子が悪いんですか?

椿

えっ……!?

それは、爽やかな朝のグラウンド。

陸上部の朝練中、瑞希ちゃんの言葉に私はドキッとさせられていた。

瑞希ちゃんは私とは種目が違うものの、なにかと慕ってきてくれるかわいい後輩だ。

椿

そ、そんなことないよ。今日も元気いっぱいだし!

椿

どこも、悪いところなんてないって。

内心冷や汗をかいていると、後ろから現れた人物が私の逃げ場を奪う。

佐久間先生

へえー……だとしたら、やる気がないってことなのかな?

椿

わっ、先生……!

佐久間先生

今日の湊川はぼうっとしすぎ!

佐久間先生

どの練習メニューもただこなすだけで、ちゃんと意義を考えてやってるようには見えなかったわよ。

椿

う……!

そうなのだ。今日の私はどこかおかしい。

やる気がないわけではないのに、イマイチ調子が出ないのだ。

あすか

はは、絞られてるねえ。

ポニーテールを爽やかに揺らし、先輩のあすかさんが笑って横を通り過ぎる。

あすか先輩もわたしとは種目が違って長距離走手だけど、走る時の姿がとても真摯で綺麗で、憧れの先輩だ。

そんな彼女のからかう口調に、恥ずかしさで顔が上気しそうになってしまう。

椿

(みんなに気付かれないように頑張ってカバーしてたつもりなんだけど、やっぱり無理があったみたい……)

佐久間先生

次が大会じゃなくて記録会だからって、練習に手を抜いてるわけじゃないでしょう?

椿

は、はい、それはもちろん……!

順位の決まる「大会」と違い、「記録会」はあくまで自分のベストを目指したり現状を記録するもので、他の人より記録が良かったとしても表彰されたり、上位大会に進めるというわけではない。

とはいえ、自分の状態を確認するのは今後の練習方針決めやモチベーションアップのためにも必要だし、「記録会で計測した公認記録が一定以上であれば参加できる大会」なんかもあるから、記録会でいいタイムを残せるようにするのはとても意義のあることなのだ。

佐久間先生

……まあ、湊川が何の意味もなく適当にやったり、怠けるような子じゃないってるのはわかってるけど。

佐久間先生

怪我しても大変だし、体調が悪いのに無理するようなことだけはやめてね。

椿

はい……。すみません。

高校教室

椿

はあー……。

椿

(先生の言う通りだ。私、いったいどうしちゃったんだろう)

教室に移ってからもやっぱり気分は晴れなくて、もう一度大きな息をついていると、登校してきた渚と目が合った。

おはよー、椿。
どうしたの? 珍しくため息なんてついて。

椿

……おはよう、渚……。

そんな死んだ目で机に突っ伏しながら挨拶されても。
どしたの?

椿

それがね……

千尋

はよっす。
椿、さっき朝練でクマちゃんに怒られてただろー。

椿

うっ……!

千尋

あ……わ、わり。そんな気にするなよ。
そういう日もあるって。

クマちゃんって……陸上部の顧問の佐久間先生? 一体なに言われたのさ。

椿

ぼうっとしてて、気もそぞろだって。
私も自覚してるんだ。なんか気合いが入らないっていうか……。

椿

どうしても元気が出なくって、考え事ばっかりしちゃったり。

たとえば、あのお兄さんはちゃんと見つかるかな、とか。
あの小箱を返せなかったらどうしよう、とか。

椿

(私って、こんなに心配性だったっけ……)

……はあ……つい、ぼうっとね。

千尋

ふうん……。

千尋

何か、それってアレみたいな症状だな。

椿

うん?

千尋

ほら、恋!

千尋

誰かに一目惚れでもしちゃったんじゃねえの。
なんつって。

椿

え……。

千尋

えっ……?

……わー……バカ。

途端、ぶわっと顔が熱くなる。

椿

(こ――)

椿

――恋っ!? 私がっ!?

千尋

……え……!?

でも思い返してみたら、そうだ。
この不調はあのお兄さんに会ってからだし。

それに、気が付けばあの時のことばかり考えている。

椿

そ、そうなの……!? こういうのが恋なの!?

いや、私に聞かれてもわからんから。

千尋

……ま、まじか……。

椿

わ~……恋……。恋……。

瞳子

はよーん。……うわっ! どした!?

瞳子

メッチャ暗い男と、なんか浮ついた人がいるけど!

いやー……なんというか。

千尋

……と……とうこ……。

千尋

き、昨日、フリマでなにがあった……!

瞳子

はあ!? なに言って……。

瞳子

…………。

瞳子

……ああ、アレか。

千尋

……!

千尋

な、何だよ! アレって何だよ! 微妙な顔してないで教えろよー!

ドキドキと胸が高鳴る。

周りの声が聞こえないくらい、私は舞い上がってしまっていた。

椿

(恋……これって恋なのかな)

椿

(私、本当に一目惚れしちゃったの?)

だって、こんな感情は初めてだ。

椿

(た、確かに、お兄さんはカッコよくて素敵な人だった! すごくいい香りがしたし……)

香りに引き寄せられて出会ったっていうのが、なんとも運命的だ。

椿

(いや、運命的ってのは言い過ぎかもしれないけど、ちょっとロマンチックな感じはあるよね!?)

椿

(どうしよう……! 再会できたとして、私ちゃんと話せるかな!?)

椿

(……って、そういえば)

昨日会った時、私は制服だった。
だけど、もし次に会えたとしたら……

椿

(……私服……だよね?)

いつもの私。
ラフな格好ばかりで、スカートのひとつも持ってない。

椿

(…………!)

椿

と……トーコっ!

瞳子

おっ……どした?

椿

お、おはよう、あの、あのね……!

椿

お願いがあるの……!

椿の部屋

ドサドサッと机に置いた雑誌が、勢いのまま滑って床へ落ちそうになる。

椿

い、いけない。力が入りすぎちゃった。

椿

こういうところから、女の子らしくしていかないとだよね。

そう言いつつも、部活が終わって急いで買って帰ってきたせいか、息が弾んでいた。

はやる気持ちをなんとか抑えて、今度は優しく雑誌を手に取る。

私と同じ歳くらいの女の子が、かわいらしい笑顔でポーズを取り、表紙を飾っていた。

椿

(……わあ、トーコが言った通りだ。みんな可愛い……!)

……そう、トーコに頼んだのは、高校生向けでおススメのファッション雑誌を教えてほしいとのことだった。

あのお兄さんに会いに行く時のために、思い切ってお洒落や化粧を頑張ってみようと考えたからだ。

椿

(この気持ちが恋かどうか、まだわからない……)

椿

(だけど、せっかく会いに行くのなら、お兄さんに『可愛いな』ってちょっとでも思ってもらいたいし)

雑誌に載っているのは、私とは比べることもできないくらい、お洒落で綺麗な子達ばかりだ。

それでも、頑張れば今の自分よりは少しくらいマシにできると思う。

椿

(……ずっと、こういうのは似合わないって着ようと思わなかったけど)

椿

(でも、憧れがなかったわけではないんだよね)

身内が言うのも何だけど、うちの母は女性らしくて上品なタイプで、服装だっていつも気を遣っていた。

いわゆる「女の子らしい」遊びよりも外に飛び出すほうが好きだった私は、似合わないとかわいい服を避けつつも、そんな母みたいになりたいって思う気持ちが、心のどこかであったりはしたのだ。

きっと、あのお兄さんとはお詫びをして落とし物を渡したら、もう会う機会はないだろう。

だから、1回。

彼に会うその1回だけ。

椿

(私だって、女の子らしくなれるよう精一杯やってみよう……!)

高校教室

そして、翌日。

椿

おはよー!

千尋

おー、はよっす。つば……

千尋

き!?

瞳子

ぶっ……!

まだ朝日が照りつける教室で、振り返った皆が私の顔に、驚きの表情を返す。

それもそのはず。今日の私は昨日までの私とは違うのだ。
……色んな意味で。

椿

……トーコに教えてもらった雑誌に、100円ショップのでもメイクできるって書いてあったから、昨日の夜慌てて買ってきて、挑戦してみたんだ。

椿

あ、さすがにメイクしたまま登校とか朝練はできないから、朝練終わってから、さっきトイレでメイクしてきたんだけど。

瞳子

……アンタ、歌舞伎界にでもデビューする気なの?

千尋

わーっ! お前、言葉を選べよ! 言い方ってもんが……

椿

ありがとう、千尋。
でもいいの、……変なのは自分でもわかってるから。

椿

雑誌に書いてあった通りにやってみようとはしたんだけど、どのくらいの濃さでとか、どの色が自分に合うかとか全然わかんないし、はみ出すし、違うところにつくし、こすっちゃうし、左右で同じにならないし……!

あるあるだわ……。

小春

未知の領域へ果敢に挑戦するつっつん、何だかカッコイイ~。

椿

この際恥を忍んで何がいけなかったのか、アドバイスをもらおうと思って落とさずにそのまま来たの。

千尋

へ、へ~……。

瞳子

……口で言うよりやったが早い。
ホラ、こっち向きな。

トーコはメイク落としシートで私の化粧を一度オフすると、目の周りをメインにお手本メイクを施してくれた。

瞳子

椿は肌とか綺麗なんだからさ、ファンデ厚塗りしないで、部分的にちょっと化粧するくらいでいいの。

瞳子

眉は後でちょい整えた方がいーかな。
……ほいっ、できた。

ちゃちゃっと私の顔をいじって、トーコが鏡を向ける。

そこに映る私に目を丸くした。

椿

えっ、うそっ! 全然違うっ!

おおっ、元を活かしたナチュラルメイクって感じ。

小春

つっつん可愛いし、ヒトミンもすごーいっ! 今の技なに?

椿

……トーコ、マジシャン?

瞳子

アホか。日頃の努力だっつーの。

瞳子

ま、椿だって練習すれば、これくらいすぐにできるようになるって。

瞳子

……だけど、次のフリマまでにどうにかしたいんっしょ?

椿

……!

瞳子

椿の暴走をしばらく見てんのもオモロイけど。
とんでもないほうへ行きそうだし。

瞳子

服も化粧も、トーコさんが指南してあげよう。

椿

……トーコ……。

椿

あ、ありがとう! 助かるよ……!

瞳子

まかせとけって。

椿

(……本当、持つべきものは友って言うけど……)

椿

(うん! 頑張ろう……!)

椿、HR始まる前には化粧落とすでしょ? お手本として今の顔写真撮っとけば?

椿

あ、そうだね! 携帯携帯……。

小春

私も記念に撮っちゃお~。

千尋

…………。

瞳子

……おい。

千尋

……だっ! イテーな、瞳子。なにすんだよ!

瞳子

バーカ。なんで、かわいくなってからの方が心配顔してんだよ。

千尋

べ、別に、してねーよ。

瞳子

へえ、ふーん。ふぅうん。

千尋

う……。いや、心配は心配だけどさ。

千尋

なるようになるしかないのかなー……って、そう思うじゃん。

瞳子

…………。

瞳子

まあ……そうだよなあ……。

北野神社

そして、いよいよフリマ当日。

椿

(化粧も濃すぎない。服も変なとこはないよね?)

会場へ入る前に、もう一度だけ身だしなみをチェックをする。

トーコに付き合ってもらって買った服は、とてもかわいらしいと思う。

お兄さんの服を汚したお詫びに、ハンカチの贈り物も用意した。

椿

(うん……! 私にしては上出来だよ)

椿

(……本当は、もっとカジュアルな感じのが好きなんじゃない?って言われたし、実際そうなんだけど)

どうしてもいつもの自分より少し大人びたものにチャレンジしてみたくて、上品で清楚な雰囲気のコーディネートにしてもらったのだ。

椿

(だって、その方がきっと男の人には好感度が高いよね?)

椿

(一番の目的は、お兄さんに気に入ってもらえるような女の子になることだし……)

本当に自分に合っているのか少しだけ不安がやってくるけど、慌てて首を振った。

椿

(大丈夫っ! トーコがわざわざ見立ててくれたんだもん!)

椿

(よし……! 行こう!)

意気込んで会場へと足を踏み入れる。

すると、自分でも思っていたより早く、その時は訪れた。

椿

……あっ!

すらりとした立ち姿。どこか清涼感のある雰囲気。

椿

(あの人だ……!)

椿

(本当に見つけちゃった……)

お兄さんはゆっくりと歩きながら、お店を眺めていた。

凛子さんが言っていた通り、アンティーク系の小物を並べてあるブースを通りかかると、長い足を折りたたんでしゃがみ、気さくに店主さんと話しながら色々と手に取って見ている。

その楽しげな眼差しに、なんだか胸に不思議な感覚が広がった。

椿

(わ……どうしよう、心臓が……)

この時のために頑張ってきたのだと思うと、足がすくむ。

椿

(き……緊張する……)

椿

(こ、こういうのって、試合の時のとは全然違うんだ……)

椿

(……だけど)

椿

お、お兄さんっ!

お兄さん

え……。

彼が私の声に振り向く。
ほんのりと、あの時の香りが鼻に届いた。

やっぱりそうだ。間違いない。

椿

あのっ、先日はすみませんでした!

椿

こ、これ、お詫びの品なんですけど……貰っていただけますか。

思い切って紙袋を差し出すと、彼はそれをきょとんと見ていた。

そして、不思議そうに首を傾げる。

お兄さん

……ええっと……すみません、どこかでお会いしましたでしょうか?

椿

………………えっ!

椿

(お、覚えてない……!?)

椿

(い……いやでも確かに、あんなちょっとの出会いで覚えてる方が不思議だよ)

私なんて眼中にないよね……とくじけそうになる心をなんとか立てなおす。

椿

ひ……人違いではないんです。
それと、コレ……。

あの小箱も渡そうとバッグに手を入れたその時――

ぱたぱたと走ってこちらへ向かってくる、小さな人影に気がついた。

やってきたのは、小学校1年生くらいの男の子だ。

椿

(わ……かわいらしい子だな――)

お兄さん

大地!

椿

え……。

男性の呼びかけにその子はぱあっと笑みを広げて、彼の手を握った。

なんのためらいもない行動。

仲のよさそうな、大人の男性と幼い男の子。

よく見れば男の子の顔立ちにも洋風な雰囲気があり、お兄さんと似ているようで……。

椿

(……うそ……。ま、まさか、お兄さんは……)

椿

(子持ちのお父さんだったの――!?)