神戸・北野 香りの家オランダ館
~6話~

公園

もしアロマに興味があって、今度の土曜日が空いているようでしたら……

誘いたいところがあるんです。

椿

え……えっ!?

椿

(そ、それって……)

もしかして、個人的なお誘いだったり?

椿

(そんな……まさか……!)

実は今度うちの会社で、アロマの調香体験ができるイベントをやるんです。

事前申し込みは必要だけど無料ですし、初心者の方にも使い方からちゃんとアドバイスしているから、もしよかったらと思って。

椿

(…………)

椿

(か、会社で……。そ、そうだよね)

……? 湊川さん?

椿

あ、いえ、何でもないんです!

椿

(薫さんが真剣な表情だったから、ついつい自分の都合のいいふうに想像しちゃったよ)

椿

(でも……)

椿

(真剣なのって、それだけ薫さんが香水とかアロマのことに真面目だってことなんだよね)

椿

(薫さんがそうやって打ち込むものを……私も体験してみたいな)

椿

……あの、あります、興味!

椿

土曜日は午後なら部活がないので、それでも大丈夫ですか?

ありがとう。うん、一日やっているイベントだから大丈夫ですよ。

僕も調香師のひとりとして行くから、その時はよろしくね。

椿

……!

椿

は、はいっ……!

それじゃあ湊川さん、また。

大地

またね、お姉さん! 今日は遊んでくれてありがとう!

椿

こちらこそありがとう! またね~!

手を振ってふたりと別れ、家に戻る足取りが軽い。

椿

(楽しかったな……。それに、薫さんからイベントに誘ってもらえるなんて)

椿

(薫さんからしたらお仕事の一貫で宣伝みたいなものだろうし、これで『脈アリかも!?』とかまでは言えないけど……)

椿

(だけど本当だったら、落とし物の香水瓶を渡しただけでおしまい、でもおかしくなかったんだ)

そう考えてみれば、今の状況はかなり健闘している……と言ってもいいんじゃないだろうか。

椿

(これからもっと仲良くなれるかも……って、夢を持つのくらいは許されるよね?)

一度だけ、去っていく薫さんと大地くんの姿を振り返って……

私は浮かれた気持ちを膨らませながら、帰り道を歩いていった。

……そして、やってきた調香体験イベント当日。

【==== 講義室 ====】

湊川さん。来てくださったんですね。

椿

あ……! 薫さん、こんにちは。

化粧品メーカーの神戸支店、そのワークショップルームへと入った私を、中で案内をしていた薫さんがすぐに見つけてくれる。

「お仕事中」で白衣を着た彼は普段ともまた違って見えて、どきりとした。

挨拶を交わすと、彼は手近な席に座るよう勧めてくれて、私はちょっと緊張しながら腰を下ろす。

まだ開始時間の前だけど、社員の人は薫さんを含めて3人、お客さんは私を入れて6人いた。

椿

(やっぱり大人の女性や、カップル参加が多いかな?)

椿

(一応綺麗めの格好にはしてきたけど、私みたいな高校生は微妙に浮いてるかも……)

そわそわしながら何となく辺りを見回していた私の耳に、近くに座っている女の人達の会話がふと聞こえてくる。

女性客

……今日も薫さん来てるみたいだね。

女性客

うん、ラッキー! 私、前回作った香水見てもらうんだ。

椿

(……!?)

一瞬驚いて……でも、不安と共に納得もしてしまった。

椿

(そ、そうだよね……。薫さんを気にしてるのが私だけなはずないよ。あんなに素敵な人なんだもん)

椿

(あんまり色々聞きすぎると迷惑かもって、薫さんに恋人がいるのかどうかも知らないし)

椿

(今まで会った時に聞いてた限りでは、そういう特定の人はいなさそうだったけど……)

……湊川さん、どうかされました?

椿

えっ!? あ、いえ、何でも……!

そうですか? 体質によっては、香料の匂いで気分が悪くなってしまう方もいらっしゃいますので、もし体調が優れないようなことがあれば、遠慮なく言ってくださいね。

椿

は、はい。ありがとうございます。

椿

(しまった、変な顔しちゃってたみたい……)

椿

(薫さんが人気ありそうなのは気になるけど、せっかく誘ってもらったのに余計なこと考えてちゃいけないよね)

椿

(どうにもならないことで悩むより、面白そうなものが周りにたくさんあるんだし。……これ、何に使うのかな?)

たくさん並んだ香料瓶や見慣れない道具を眺めて開始時間を待っていると、ここにいる社員さんの中では彼がリーダー的な立場なのか、薫さんが前に出て挨拶や説明を始めた。

皆様、お待たせいたしました。
本日は弊社調香ワークショップにご参加いただき、本当にありがとうございます。

今回は初めて参加される方も多いようですので、手短にご挨拶させていただきますが……

椿

(…………)

改めて「お仕事中」の薫さんをこうして見ていると、何だか不思議な気持ちになる。

明るく聞き取りやすい声や、くるくるとよく変わる表情。

薫さんは一見落ち着いた雰囲気で知的な感じがするし、実際そうではあるんだけど……

でも彼に気取ったところや近づきがたさなんて全然ない。

日本ではまだ香水やアロマを使う文化が浸透しきっているとは言えません。
男性ならなおさらですね。

ですが私達は、もっと皆様の日常の中に香りを取り入れて頂ければと考えていまして……

わかりやすく語る口調には、どこか熱っぽいものが含まれている。

(……きっとこのお仕事、楽しんで頑張ってるんだろうな)

……それでは前置きはこの辺りにして、調香に入っていきましょうか。

まず皆様には、各テーブルにある香料の香りを見て、気に入ったものを2~3種類選んでいただきます。

もちろん私達がそれぞれのテーブルにつきますので、ご質問がありましたら遠慮なくご相談くださいね。

事前説明が終わると、私のいるテーブルにも社員さんがやってきて、道具などの使い方を教えてくれた。

ムエットという紙に香料を付け、香りを試していくらしい。

椿

わ……いい香り。……でも、ちょっと甘すぎるかも?

女性社員

爽やかなタイプの香りがお好きですか? それでしたら……

用意されている香料は人気の高いものを8種類ほどに絞って置いてあったので、どれを試しても良い香りだったものの、そのぶん迷いも出てしまう。

椿

(最初は柑橘系がいいなと思ったけど、フローラルな感じもいいよね……。う~ん……)

湊川さん、どうですか?

椿

あっ……薫さん!

椿

えっと……今、オレンジ系の香りを中心にするか、ラベンダー系の香りをメインにするか迷ってたんです。

椿

家で集中して勉強する時に、ルームフレグランスとして使いたいなと思ってたんですけど、ラベンダーは確か集中っていうよりリラックスしちゃうって書いてあったので……

……あ、本当にうちのサイトのアロマコーナー、見てくれたんですね。

椿

えっ? それは、もちろんですよ。

いやあ、嬉しいな。
ああいうページって、そんなに見てもらえないものだから。

言葉通り、無邪気に嬉しそうな笑みを浮かべる薫さんに、また心音が鳴る。

椿

(……何か、かわいいな)

ああ、そうだ。オレンジ系かラベンダー系かでしたね。

もちろん効能は目安にはなりますけど、そこまで気にしなくても大丈夫ですよ。

それよりも自分の好きな香りかどうかの方が重要じゃないでしょうか。

それに柑橘系とラベンダーは相性がいいので、ブレンドして使うのにも向いていますね。

薫さんのアドバイスを聞きながら、ムエットをいくつか重ねて匂いをかいでみたりと、自分の求めているものに近い香りを探していく。

調香した香りは、時間が経つと香料が馴染んでまた匂いが変わってきますよ。

それに香料には揮発性が高く消えやすいものと、揮発性が低く後から香ってくるものがありますので、実際に使う時にも、時間と共に香りがゆっくりと変化していくんです。

それと香水のように肌につける場合は、その人自身の香りと混じり合って個性が出ますから……

そういった変化は調香の難しい部分でもあり、面白い部分でもありますね。

椿

へえっ、そうなんですか……!

その後は、他のお客さんもいるからずっと薫さんと話しているってわけにはいかなかったものの、彼が近くにいない間だって、私はちっとも退屈なんてしなかった。

ひとまず完成した「私の香り」を手に、じんわり頬が緩んでいく。

椿

(お仕事中の薫さんを見られるのも新鮮で楽しいけど、それを抜きにしても、香りって面白いよ。来てみて良かった……!)

椿の家リビング

椿

(瓶に今日作った香水を注いで……これでいいのかな?)

調香体験を終え、薫さんにお礼を言って別れた後……

私は近くの100円ショップに寄り、「リードディフューザー」というものを買って家に帰ってきていた。

細いウッドスティックの挿してある小瓶に香水を入れると、自然と部屋に香りが広がっていく。

椿

(……うん、いい香り! 勉強もはかどりそう)

――湊川さんらしくて、素敵な香りですね。

薫さんの言葉を思い出しながら唇を綻ばせて、テーブルに参考書やノートを広げた。

……すると、うしろでひそひそと内緒話を始める気配がある。

椿の母

椿ってば、最近お洒落を頑張ってるみたいね。

椿の父

ん、んん……。
俺としてはちょっと心配でもあるんだが……まあ、女の子ならよくあることなんだよな?

椿の母

女の子だ男の子だって言うより、誰にだってああいう時期はあったんじゃないかしら。

椿の母

きっと恋よ、青春よ。

椿の父

恋か……。青春か……。

椿の母

椿だってもう18なんだし、もし思うようにいかなくても人を傷付けるよう方に走っちゃう子じゃないわ。

椿の母

あの子はいつだって真っ直ぐだったもの。

椿の父

……そうだな。ここは見守っておくべきか。
大抵のことはなるようになるだろうしな。

椿の母

でもあなた、椿が彼氏連れてきたら『こんなどこの馬の骨ともわからん奴に~!』って怒っちゃうんじゃない?

椿の父

いや……蓮も椿もあまりに恋愛っ気がないせいで、むしろちょっと安心しているというか……。

椿

(全部聞こえてるんだけどなぁ……)

「蓮」というのは私の兄のことで、今は家を出て東京で就職している。

図工や美術の成績があんまりよくない私とは違って、小さいけれど技術力の高い町工場で板金加工などを頑張っているそうだ。

椿

(お兄ちゃんか。しばらく会ってないなあ)

椿

(そういえば薫さんが何歳なのか詳しくは聞いてないけど、お兄ちゃんの方が多分年上だよね?)

椿

(もし、もし……万が一のことがあったら、お兄ちゃんが薫さんの「お義兄さん」になったり……)

椿

(……って、や、やだなぁ! そんなこと無理に決まってるだろうし!)

椿

(でも、ちょっと私の中だけで想像するくらいならいいかな……)

椿

(…………)

椿

ふ……ふふふ……えへへ……。

椿の父

……大丈夫か!? アレ止めなくていいのか!?

椿の母

大丈夫よ。
取り返しのつかないことじゃなければ、取り上げちゃダメ。

椿の母

それが楽しいことでも、痛いことでも……椿のものなんだからね。

屋外グランド

……そして時間は過ぎ、翌週の金曜。

放課後の部活終わり、私は佐久間先生へ声をかけた。

椿

すみません、先生。明日の練習なんですけど……。

用事があって土曜の午前練習を休みたいと伝えると、先生は何か考えるようにしつつも許可してくれた。

佐久間先生

……ええ、わかったわ。報告ありがとう。

椿

申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

北野町広場

椿

(わっ、ネットに書いてあった通りだ。服とか小物の出店がたくさん……!)

翌日……練習を休んで私がやってきたのは、月イチ開催のフリマだった。

事前情報と違わず、若い女性向けのファッション関係の出店が多く、あちこち目移りしてしまう。

椿

(お洒落は頑張りたいけど、高校生の身分で新品をあれこれ買うほど余裕があるわけもないし……)

椿

(そう思うと、皆がフリマに興味があったのもわかるよね)

椿

(……薫さんと大地くんも来てたりしないかな?)

そう思って買い物の合間に時々辺りを探してみるものの、今回は彼らの姿を見つけることはできなかった。

椿

(……ま、そうそう都合よくはいかないか)

椿

(でも良いものが安く手に入ったから得したよ! さて、帰ろうっと)

北野坂

椿

(……でも、部活休んじゃったな。今頃みんな、練習終わった頃かな?)

フリマはお財布にはすごく助かるのだけど、いいものを手に入れるにはなるべく早め……

つまり開始時間の午前9時や10時くらいには会場にいなくてはならない。

となると、午前練習に出ていては間に合わないわけで……

椿

(そこが悩みどころだよね。後で自主練しておかないと……)

椿

(――んっ、あれ……!?)

勢い余ってよろけそうになりながら立ち止まる。

道の先、曲がり角から見覚えのある姿――

薫さんが、たくさんの荷物を持って歩いてきたのだ。

椿

(すごい偶然……ていうか、運命とか……いやいやそんな!)

椿

(今日は大地くんは一緒じゃないのかな……って……)

あ……!

まだ距離はあったけど、小さな驚きの声が聞こえたような気がした。

薫さんの持っていた紙袋のひとつが重みに耐え兼ねてか破れそうになり、彼はそれを止めようとして、バランスを崩し――

椿

(――危ないっ!)

私は何を考える間もなく、全力で薫さんの方へ駆け出していたのだった。