カフェ・ド・ミュージアム
……ほぉ。こんなところにいたのか。
やっと見つけたぜ、“凜子”。
……貴方は……!?
突然お店にやってきたスーツ姿の男の人は、凜子さんを見て彼女の名前を口にした。
凜子さんもどうやら入ってきた男の人を知っているようだった。
ただ、彼女の表情には再会を喜ぶような笑みはなく、私にはひどく困惑しているように見えた。
久しぶりだっていうのに、つれない顔じゃないか。別にとって食おうってわけでもないのに。
………………。
ま、居場所もわかったし、今日のところは久しぶりの顔合わせということで、また改めて挨拶に来るよ。
そんじゃ。
そういって黒いスーツの男の人は去っていった。
ドア越しに立ったまま短い間だったけれど、それでもお店のお客さんたちやスタッフには十分なインパクトだった。
琉二さんがたまたまトイレに立っていなかったことが、まだ救いだったのかもしれない。
もし琉二さんがいたら、この場がどうなっていたか想像もつかない。
……凜子さん、大丈夫ですか?
……ええ、ごめんなさいね。
こういう商売してると、たまにああいった変なお客さんが来るのよね。
………………。
(変なお客さん? 知り合いじゃないのかな?)
琉二くんがいなくてよかったわ。
いたら面倒なことになってたもの。
だから、このことは彼には内緒にしておいてね。
……あ、はい。
彼、さっきも言ってたけど昔は結構硬派だったから、ああいう人を見ると黙ってられないのよね。
(……んー、わかる気もするけど、なんだろう、この違和感……)
(まあでも、凜子さんがそう言うのだから、話をややこしくすることもないよね)
ですよね。わかりました。
琉二さんには黙っておきますね。
何かに引っかかりつつも、私はさっきの出来事は見なかったことにした。
……なーにが、俺には黙っておくって?
えっ、琉二さん!?
トイレから出てきた琉二さんが、いつの間にか私の背後に立っていた。
えー、琉二くん、女子のお腹に関する恥ずかしい話を聞きたいの?
……あっ、そういう話? 悪い悪い。
そういう話なら進んでノーサンキューということで。
だよね。
琉二くんが変態じゃなくてよかった。
変態じゃないとは言ってませんけどね。
……くぷっ、もうだめ、あははは……。
またもや我慢できずに吹き出してしまった。
(二人の“漫才”は面白いなぁ)
いやだー、大変! 楓ちゃん、逃げてぇーーー!
凜子さんはそう言いながら厨房へ消えていった。
残された私と琉二さんは、その場でポカンと見つめ合いながら、にっこり微笑んでイスに座ったのだった。
ところで楓ちゃん。
さっき俺がトイレに行ってたとき、何か騒がしかったような気がしたんだけど、何かあった?
勘のいい琉二さんは、やっぱり何かを感じていたんだ。
私はさっき凜子さんとした約束を守るためにも、できるだけ冷静に、頭をフル回転させながら答えを探した。
……ええっと、さっき帰ったお客さんが忘れ物をしたと言って戻ってきて、一人で見つけてすぐに出て行ったんですよ。
みんな、「何だ?」って顔して。
(よし、我ながら上手いことごまかした!)
あ、そういうことね。
たまにいるよね、そういうお騒がせ客。
そうなんですよ……。
(……ふぅ、何とか乗り切れた)
この場を上手く乗り切れたことに安心はしたが、その後の打ち合わせ中も、私は黒いスーツで入ってきた男の人のことが頭から離れなかった。
(人前で、しかも大声で凜子さんの名前を呼ぶなんて、普通じゃ考えられない。
それを隠そうとする凜子さんも何か変)
(このまま、何事も起こらなければいいけど……)
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こういう時の私の直感はよく当たる。
そしてその日から数日後、私は再びそのスーツの男性を見ることになる。
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カフェ・ド・ミュージアム
(次のイベントまであと3週間だ。前回の経験を生かして色々と失敗しないようにしなきゃね)
この日私は、ネットに載せる新しいイベントページの内容確認のため、いつもよりも少し早くお店に来ていた。
最近は以前と比べてお客さんが増えたせいで、私も前ほどお気軽にはお店に入れなくなっていた。
時間によっては席が空いてない時もあるのだ。
正確には、“一人で座れる席が空いてない”という意味なのだが。
今日は大丈夫かなぁ……。
窓やドア越しに見える店内の様子を窺いながら、席が空いてそうかどうかを確認しようとしたその時――。
……から……して今になって……。
……だってもっと……かったよ……。
店の外……おそらくお店の裏辺りから男女の話し声が聞こえた。
(……この声は、凜子さん……!? 男の人は誰だろう? 琉二さんやスタッフさんじゃないな……)
そのまま立ち聞きするのも悪いので、聞かなかったことにしてお店に入ろうとドアノブに手を掛けると。
……琉二も……か。
……だとちょうどいい……ただじゃ……ぞ?
(えっ、今琉二さんの名前が聞こえたような……!?)
それは男の人の話し声だった。
琉二さんの名前が聞こえた瞬間、私の手の動きが止まった。
(琉二さんの知り合い? 凜子さんとの共通の知り合いってこと? それとも、弟さん関係なのかな……?)
……まで、…………だな。
……じゃ、また来る。
言い終わると同時にスーツ姿の男の人が裏から現れた。
一瞬しか見なかったが、間違いなく先日いきなりやってきた、例のスーツの男の人だ。
ドアノブに手を掛けたままの私は、何事もなかったかのようにそのまま店に入ろうとしたが、後から続く凜子さんの声に、三度固まってしまった。
……か、楓ちゃん! …………えっと、あの……これは……。
そこには、今まで見た凜子さんの中で、最も狼狽(うろた)えている凜子さんの姿があった。
あ、ああ凜子さん、こんにちは。
……さ、先に入ってますね。
私は眉を八の字にしながら、無理やり笑みを作った。
か、楓ちゃん……違うの、これは……。
一緒にいた男の人は我関せずとばかり、さっさと店の前を通り、外に向かって歩いていった。
私は凜子さんの言葉に頷くと、「何も見てない、何も聞いてない」とアピールするようにニコっと微笑み、そのままドアを開け、お店に入っていった。
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それがかえって白々しかったかな、と後で思い返して気づいたのだが。
カフェ・ド・ミュージアム
私の後に続いて、少し顔色の悪い凜子さんが静かに入ってきた。
上手くできていたかどうかはわからないが、私はできるだけ平静を装い、空いている席に座った。
それを追いかけるように、凜子さんは私のところへやってきて――。
ごめんなさいね、嘘ついちゃって。
こないだ来たさっきの人ね、実は昔の知り合いでね……。
ああ、いいですいいです。
誰にだって知られたくないこととかありますから。
凜子さんが言いたくなかったのなら、きっとそういう関係だと思うんで、そのことを私に言わなくても大丈夫ですよ。
……楓ちゃん。
それよりも、凜子さん顔色があまりよくないみたいですが、大丈夫ですか?
そっちの方が心配です。
もし何か悩み事とかあるのなら、こんな私でよければいつでも相談してくださいね。
……ありがとう。
楓ちゃんはほんと、優しいね。
その言葉が少しくすぐったかった。
何言ってるんですか。
凜子さんにいつも助けてもらってるのを思えば、私なんて何もしてないですよ。
…………。
正直、まったく気にならないと言えば嘘になる。
どう見ても普通の“昔のお友達”という感じじゃなかったし、凜子さんの様子もおかしい。
本心はものすごく心配だし不安だけど、凜子さんはその比じゃないくらい不安なのが見て取れた。
私にできることは、少しでも凜子さんの負担にならないこと。
余計な詮索やお節介はやかないことだと思った。
(私なんかが何かできるわけでもないんだし……)
(……でも、もし琉二さんだったら……あるいは……)
(男の人のことも知ってそうだし、万一凜子さんが何か嫌なことをされているのなら)
(琉二さんなら何とかできるのかもしれない……)
(ただ、凜子さんは男の人のことを琉二さんには黙っておいてくれと言っていた)
(最初は話がややこしくなるからだと思ったけれど、そうじゃなく、きっと琉二さんも関係者だからだ)
(だとすると、うかつに琉二さんには話さない方がいいのかもしれない……)
(おそらく凜子さんは、琉二さんが知るともっと面倒なことになるのがわかっているからそう言ったのだと思うし)
(……私はどうしたらいいんだろう?)
何もしないことがいいのだろうと思いつつも、このままで本当にいいのかという不安が頭をもたげる。
凜子さんは全て自分の中に抱え込んでしまうタイプだけに、何もできない私自身がとても情けなくなった。
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カフェ・ド・ミュージアム
それからしばらくして琉二さんがやってきたが、私と凜子さんはいつもと変わらない雰囲気で打ち合わせを始めた。
ほとんどが確認作業だったこともあり、イベントページの確認作業そのものは30分もかからずに終わった。
普段通りの私ならその後もグダグダとしばらくはお店にいるのだが、さっきのこともあり、あまり気分が落ち着かず、この日は早めにページの修正をしたいのと、琉二さんとこでいつものバラを買いたいのでと言って、早々に店を出た。
カフェ・ド・ミュージアム
バラの買い替えは、本当に予定していた話だ。
じゃ、うちに来るなら一緒に行こうか。
大事なお客さんに逃げられないよう、ちゃんとお連れしないとね。
琉二さんはわざと冗談っぽく言った。
たぶん、私が誤魔化しているつもりでいても、いつもとはどこか違うことに気づいていたのだろう。
あ、はい。うふふふっ……。
そんな、逃げたりなんかしませんよ。
北野坂
私は特に断る理由もなかったので、こくりと頷き、琉二さんの横に並んで歩いた。
どちらかと言えば、一人でモヤモヤした気持ちのままでいるよりも、琉二さんと一緒の方が気が楽だったのもある。
……ならいいけど。
(なんだか、琉二さんには全て見透かされているような気がする……)
途中何度か、凜子さんと例の男の人の話をしようかと思ったが、さっきの堂々巡りが繰り返されるだけだった。
ラインの館
そんなことを考えているうちに、琉二さんのお店に着いた。
実際、近くではあるのだけれど。
ちょっと待っててね。
そう言って琉二さんは、一度お店の奥に入っていった。
しばらくして戻ってきた琉二さんの手には、いつものバラとは別に、プリザードフラワーの小さなバスケットがあった。
あっ、かわいいー!
それは、薄いピンクや淡い黄色などの暖色系でまとめた、本当に可愛いバスケットだった。
前から渡そうとは思ってたんだけど、楓ちゃんいつも頑張ってるから、これは俺からのお礼な。
そんな、私何もしてないですよ!?
そんなことないって。
今回楓ちゃんのお陰でこの店の客もぐっと増えたし、イベントのアイデアで俺を使おうって言ってくれたのも、楓ちゃんでしょ?
……あ、ええ、まあ。(それは実は別の目的があって……)
それだけでも礼をするには十分な理由だって。
完全に“棚から牡丹餅”だったが、気を遣ってくれる琉二さんの気持ちは素直に嬉しかった。
……あ、ありがとうございます! 大事にします!
プリザーブドだから、日光に当てず湿度も抑えていれば、上手くいけば7、8年くらいはもつから。
そんなにもつんですか!? すごいですね。
管理を上手くすればの話な。
水とかもいらないから、さっき言ったことだけ気をつけていればメンテは楽なはず。
はい。直射日光に当てず湿度を抑えるように、ですね。
そ。
よくできました。
さっきまでのモヤモヤとした気分がまるで嘘のように、どこかへいってしまったようだ。
あ、それと……。
と、琉二さんが言いかけた時、お店の前でそれまで花を見ていた少しガラの悪そうな男性客二人が突然声を上げた。
あれぇ~、ひょっとして、『ヘブンズ・ウイドウ』の“リュウジ”とちゃう?
ビンゴやな。こんなとこにおったとは。
しかも可愛いおねえちゃんに花とか渡してるし。
キモ~。
(な……何、この人たち……!?)
…………。