ラインの館
~1話~

楓の部屋

春を感じさせる暖かい風が首筋を通り抜けていく。

どこかで嗅いだことのある花の香りを乗せたまま、その風は部屋をすり抜けていった。

そっか、この町に来てもう3年目の春なんだぁ。

私、住吉 楓(すみよし かえで)は、この異人館のある町『北野町』へやってきてちょうど3年が経とうとしていた。

運よく受かってくれた大学のおかげで親元を離れ、憧れの異人館があるこの町へ引っ越してきたのだった。

今思えば、本当に志望大学への思いが強かったのか、あるいは異人館の近くに住みたくて今の大学を選んだのか、自分でもどっちだったのか自信がない。

ただ一つ言えるのは、憧れの町での新生活は何もかもが新鮮で興味深く、人生の運の半分は使ったであろう大学受験で得たキャンパスライフよりも格段に楽しめているということだ。

昭和の時代には、この辺りもガラの悪い人や変な人も多少はいたと聞くが、今や国内外の観光スポットとしても人気で、本当に綺麗な町並みだと自分で住んでいて思う。

さて、今日も凜子さんのお店に行くかな。

カフェ・ド・ミュージアム

そんな大好きな異人館の町の中でも、私のお気に入りなのが、凜子さんが経営する喫茶店、『カフェ・ド・ミュージアム』だ。

ここは沢村 凜子(さわむら りんこ)さんという美人で若くてお淑やか、女性経営者の鑑のような人が経営するお店で、中でも『自家製ワッフル』は、それはそれは超美味!

ここ北野では知らない人がいないくらい有名なお店なのだ。

エントランスをくぐり、白いドアに吸い込まれるように小さな階段を駆け上がる。

カフェ・ド・ミュージアム

ども、こんにちは~。

店全体が白を基調にした清潔な作りで、テーブルには凜子さんが家で育てたり、お気に入りの店で購入したという可愛い花や、センスの良い小物、雑貨などが品良く飾られている。

壁にはドライフラワーやたくさんの絵画などが掛かっていて、まるで小さな美術館を思わせるようなお店なのだ。

凜子

ああっ楓ちゃん、いらっしゃい。

美人過ぎる凜子さんの笑顔が私を迎えてくれた。

もうそれだけで幸せな気分になる。

店では、彼女を口説いている風の男性も時折見かけるが、毅然とした態度で応対しているところもすごく格好いい。

凜子さんは、ふと壁にある時計を見て言った。

凜子

あら、楓ちゃん、今日は少し早いのね。

そう、私は大学の講義さえなければ、週の半分は午前11時にお店にくるのが習慣となっていた。

そこでメープルワッフルとコーヒーのセットを頼むのが私の“いつもの”だ。

朝の風が気持ち良くて、つい早起きしてしまったので。
あ、凜子さん、“いつもの”ね。

そう言って、私はいつものカウンター前指定席が空いているのを確認して腰を下ろした。

凜子

はーいっ。
でもそれって、何かのお告げなのかもしれないわよ?

お告げって……、凜子さんもそんな昔の人みたいなこと言うんですね?

凜子

うふふふっ。
だってもう“おばさん”だしぃ。

凜子さんはかわいい笑顔で少し眉を上げながら、語尾も上げた。

そ、そんなことないですよ!

私は口に手を当て、慌ててフォローした。

凜子さんが「おばさんだ」なんって言ったら、世の中の大半の女性がお婆さんじゃないですか!!

凜子

そんなぁ、また楓ちゃんは大げさに。

いやいや、本当ですって。
逆に凜子さん、それ他所で言ったら嫌味になっちゃいますよ。

凜子

そ、そうかな……? あっ、楓ちゃんのオーダー通さなきゃだね。

首を傾げながら嬉しそうな顔をして、凜子さんが厨房へ消えていった。

あっ、慌てなくていいですよー。

凜子さんの背中越しに言い放つ。

真昼間からこんな女子話ができるのも、残念ながらお客さんがあまりいないせいでもあった。

休日や連休の時など忙しい時はとても忙しそうなのだけど、平日の特にこの時間帯はほとんどお客はいないのだ。

私も、邪魔にならないようにそこを狙ってきてるわけなんだけれど。

最初はこの北野でどこか落ち着けるいい喫茶店がないかを探していたのだけれど、お店の雰囲気といい、凜子さんといい、ほぼ一目惚れでこのお店に通うようになった。

お店を見つけてから一月も経たないうちに常連客となり、三ヶ月を越えた頃には恋愛相談(主に友達のだが)までするほど仲良くさせてもらっていた。

最近では、進路相談なんかにも乗ってもらっていたりと、もうほとんど私の生活の一部となってたりする。

このままだと、ここに就職してしまうのではないかと思ってしまうくらいだ。

しばらくして、ワッフルが焼けた甘い香りと、メープルシロップが持つ独特の香りが私の鼻孔をくすぐった。

凜子

はい、お待ちどおさま。

カウンターテーブルの前に、できたてのワッフルがこれ以上ないというくらいの甘い香りを放ちながらそっと置かれた。

その横にはワッフルの甘さを巧く抑えるかのように、さっぱりとした苦味が漂うコーヒーが添えられている。

う~ん、毎日嗅いでも飽きない良い匂い~~~。

私は、鼻の奥まで行き渡るように、深く息を吸い込んだ。

顔の中心から幸せになっていくのがわかる。

私は待ちきれずにワッフルにナイフを入れた。

弾力のあるワッフルに切れ込みを入れると、さらに香ばしい香りが周囲に立ち込め、その隙間にとろりとメープルシロップが流れ込む。

私は透かさずそのまま口へと頬張り、至福の時を迎えた。

う~~~ん、美味しい~っ!!

それをいつものことのように、カウンター越しで見ている凜子さん。

ほぼ貸し切り状態なのをいいことに、私も自宅のように寛(くつろ)いでいる。

何でこんなに美味しいのに、みんな食べに来ないんですかね?

凜子

……まあ、平日のお昼前だしね。

それにしたって……。

私は納得いかないという顔をしたままコーヒーを啜り、ワッフルを口へと運んだのだった。

凜子

……でも、確かに最近少し売り上げが落ち込んでいるのよね……。

えっ、そうなんですか?

凜子

まあ、季節とかイベントのタイミングとか、色々理由はあるんだけど。

凜子

できれば、経営者としては毎月安定した売上があると嬉しいんだけどね。

……そうですよね。

言われてみれば、特に平日は以前よりもお客さんが少なくなった気がする。

私に何か手伝えることがあればいいんですけど。

凜子

ありがとう楓ちゃん。
そう言ってもらえるだけで十分よ。

凜子

そのうちお店で何かできることがあればやってみようと思ってるから、その時はよろしくね。

はい、任せてください! 私、趣味でwebデザイン系のサークルにも入ってるんで、何かあれば言ってください!

凜子

それは頼もしいわぁ。
うふふふっ。

右手を軽く口に当て、少女のように笑う凜子さん。

可憐で芯が強くて、おまけに性格もいいときている。

いつもお世話になってるからとかではなく、彼女を見ていると、どんな人でも力になりたいと思うはずなのだ。

(彼氏がいないのが本当に不思議なのよね……)

彼女のプライベートのことをそこまで知っているわけではないが、私が知る限り、凜子さんに特定の彼氏はいない。

そんな素振りすらないのだ。

言い寄る人もいれば、高嶺の花すぎて見ているだけで十分という男の人も結構いる。

凜子さんは時折、見た目とは裏腹にそういった少し人を寄せ付けないオーラを出している時がある。

それは何か他所事を考えているのか、誰かのことを想っているのか、私にはさっぱり見当もつかないが、それも彼女の魅力の一つなのだろう。

そういえば凜子さん、前から思ってたんですけど、お花の趣味いいですよねぇ。

いつもどうされてるんですか?

カウンターに置かれた一輪挿しを見て、いつか聞こうと思っていた質問をした。

お店の飾りつけや小物の趣味ももちろんいいのだけど、こと飾ってある花に関しては特別なこだわりを感じるのだ。

季節ごとに変えているのは当然だが、いつ見ても生き生きとしていて、その華やかな空間を美しく彩っている。

私も殺風景な自分の部屋をこんな風に別空間みたいに綺麗にできればなぁと、ずっと思っていた。

凜子

ああ、うちのお花はいつも、みんな同じ花屋さんが選んで持ってきてもらっているのよ。
綺麗でしょ?

えー、そうなんですか!?

あまりにもお店に合ってるから、てっきり毎日凜子さんが選んでいるのかと思ってました。
びっくりです。

凜子

うふふ、ありがとう。
そっか、楓ちゃんはまだ会ったことなかったんだっけ。

凜子

オープン当時からのもう長い付き合いになる花屋さんよ。
……というか、ちょっとした知り合いなんだけどね。

そうだったんですね。
私も自分の部屋をこんな風に飾れたらいいなぁと思って。

凜子

……それじゃ、よければ紹介する? 彼、朝のオープン前にしか来ないから、直接お店に行ったほうが早いと思うし。

えっ、いいんですか?(“彼”ってことは男の人か……)

凜子

いいも何も当然よ。
……まぁちょっと癖があるというか風変わりな子だけど、仕事はできるし、悪い人じゃないよ。

はい、ありがとうございます! 助かります。

凜子さんの知り合いというだけで悪い人じゃないのはすでに確定済みだ。

(凜子さんがそこまで信頼している『男の人』というのにも、少し興味があるしね)

凜子

あっ、そういえば彼、確かイタリア人と日本人のハーフだったと思うけど、見た目に騙されちゃダメよ。

……そ、それは“イケメン”ということですか!?

凜子

……ん~、私は昔から知ってるから何とも思わないけど、世間ではそうなのかもしれないわね。

そ、そうなんですね……。

言い終わると凜子さんは、近くにあった紙とボールペンを取り、場所と店名の簡単なメモを書いてくれた。

凜子

はい、これ。
場所はここからならすぐよ。

凜子

このメモを琉…店の人に渡して、私に紹介されて来たと言えば、何でも相談に乗ってくれると思うから。頑張って。

はい、ありがとうございます!

私はこの後、凜子さんに教えてもらった花屋さんへ早速行ってみることにした。

カフェ・ド・ミュージアム

凜子さんからもらったメモを見返してみる。

(……この場所『ラインの館』って、異人館じゃない! 中に入ったことはなかったけど、花屋さんだったんだ!)

ラインの館

本当だ。お花屋さんだ……。
前に近くに来た時は、さっと前を通り過ぎただけだったから、わからなかったんだ。

建物は壁に囲まれた奥にあるのだが、入り口となる門の周辺から少し中へ入った広めのスペースを利用していた。

そこはよくある『花屋さん』ではなく、屋外に作った小屋(テント?)に大きな車輪がついたワゴンや珍しい自転車、古いバイクなどを上手く使って花を飾りつけた、ちょっと『お洒落な出店』のようなお店だった。

通り沿いじゃないから気づかなかったけど、なんかいい感じのお店じゃない。
さすが、凜子さんの知り合いだよね。

こりゃもう、お店の雰囲気からして凜子さんの知り合いって人は、“線の細い系イケメン”確定だね。

……実はもう付き合ってたりして。
ふふっ、まあそれならそれで、きっと美男美女のカップルの誕生ってわけか。

そんなことを考えながらお店を見ていると、少し怖そうな花屋には似つかわしくない風体の男の人がいた。

(げっ、なんだかすごく場違いな人がいるなぁ。彼女にあげるお花でも買いに来たのかな?)

それは、“昭和風ヤンキー”というか、昔の不良っぽいというか。

確か“リーゼント”だったか、“ポンパドール”だったか、髪を両サイドから中央に盛り上げ、ワックスとかで固めて前に出したような髪形だ。オールバックじゃないのがまだ救いだった。

よく言えばそういったキャラの芸能人やビジュアル系の人にも見えなくはないのだが……。

(うーん、どうしよう。
変に絡まれてもなんだし、また日を改めようかな……)

と、そう思った時、その人が一人で何か呟いている声が聞こえた。

???

『頑張るんだぞ。今日は遠い所からきて疲れただろうが、この町は良い人が多いからすぐに買ってくれるからなぁ』

(……ひょっとして、花に話しかけている……のかな?)

(……よく見るとエプロンしてるし、まさか、店員さん!?)

植物は話しかけると良く育つと聞いたことがあるけれど、実践してる人は初めて見た。

(これは早いとこ凜子さんの知り合いの人を捜したほうがよさそうだな……。
ええっと……)

ついメモに目をやった瞬間。

店員

どうも、いらっしゃい。

と、その店員らしき人から声を掛けられてしまった。

店員

今日はどんな花をお探しですか?

(え、何? 思ったより普通……!?)

あ、ええっと、自分の部屋にお花を飾りたくて……。

(って、この人じゃなく、凜子さんの知り合いに相談をしに来たのに……)

予想とは違う会話のテンポや口調に、つい目的を忘れて答えてしまった。

店員

部屋に花をか…………。

店員さんはそう言うと、店に置いてあった全ての花をざっと見渡し、そこにあった一輪の花に目を止めた。

店員

彼女の雰囲気からすると……、このバラってところかな。
よしっと。

そう言うと、こんどはその花を持って私の前にすっと立った。

店員

それだったら、このバラとかどう? 彼女ならとてもよく似合うと思うんだけど。

……えっ!?

確かにそのバラは美しく、とても生き生きとして見えた。