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暗闇の中で、がちがちと歯の鳴る音がする。
小太郎が撃たれた瞬間、わたしはとっさに目を閉じてしまっていた。
見たくないけれど、それでも恐る恐るまぶたを持ち上げて――
【==== 山道 ====】
……ふ……ざけるな、要……
……っ……
銃口を空に向けた樹さんの背中と、彼の前に立ちはだかって、真っ青な顔をしている要くんが見えた。
他の人たちもぎょっとした表情で固まっていたし、こっちへ来ようとしていた小太郎も、驚いて途中で身をすくめている。
か……要くん……
……どけ、要。
死なせたくないんだ!
私も同じだ。
歯を食いしばるような震えた声で、樹さんが呟く。
私が、娯楽として動物の命を奪っているわけではないことは、お前なら知ってくれているはずだ。
わかってる。でも……
……っ……。……小太郎に背中を向けるな。
樹さんは要くんの肩を掴んで、小太郎の方へ向き直らせた。
撃ってほしくないというのなら、隙を見せるな。小太郎が人を襲ってしまえば、躊躇はできない。
……樹さん。この子たちを信じてあげてほしい。
小太郎は不安だったり、寂しくて逃げ出してしまっただけなんだ。
逃げる時も、威嚇だけで誰も傷つけなかった。人を襲うために出てきたんじゃない……!
それで小太郎が万一人を傷つけたら、「信じていたのに裏切られた」と言うのか。
小太郎がこの状況で人を襲ってしまったとしても、当然のことだ。動物に勝手な期待をしてはいけない。
「きっと大丈夫」と小太郎を信じて、ひかりや他の人たちが大怪我をしたら、お前に責任が取れるのか?
わかってる。だから、僕が行くよ。
何かが起きた時、小太郎のせいにしたいわけじゃない。ただ、尽くせる手を全て尽くしたいんだ。
……私は、お前なら怪我をしてもいいと言っているわけでは……
多少の危険を承知で仕事をしてるのは、樹さんも同じでしょう。
信じた結果、思い通りにならなかったら、それは僕のせいだよ。
でも、何があっても後悔はしない。待っていて、樹さん。
要――
樹さんが止めるのを聞かず、要くんは小太郎の方へゆっくり歩いていく。
……ゥウ……
大丈夫だよ、小太郎。僕がわかるだろう?
…………。
……いい子だね、
小太郎は彼を見上げて、こわばっていた体からちょっと力を抜いたみたいだった。
(要くん……。小太郎……)
きっと大丈夫――
そう思いかけた途端、少し離れた繁みから、バサッと鳥が飛び立つ。
わ……!?
大きな音に、固唾を飲んで見守っていた周りの人が何人か驚いて反応し、小太郎がその動きに再び警戒の色を深めるのがわかった。
――ッ……
樹さんが反射的に、また小太郎へ銃口を構える。
……もう、我慢していられなかった。
小太郎!
えっ……!?
な――
弾かれたように駆け出して、小太郎のそばまで一気に駆け寄る。
ひかり!
ひかりちゃん……!
大丈夫! 大丈夫……!
……!
小太郎、おいで。
呼びかけると、くりくりした瞳がわたしを捉えた。
…………。
小太郎……。
最初はどこか頼りない足取りで、数歩目からは弾むみたいに、小太郎が走る。
その姿に、怯えや敵意なんて見当たらない。
ほら、おいで……!
ぽろっと涙をこぼしてしまうわたしの気を知ってか知らずか、小太郎は体をすり寄せてきた。
……ばか。みんな心配したんだから! わたしも心配したんだから……!
……グルグルグルグル……
……ばか……
座り込んで丸くなった背を撫でてあげると、安心したように目を伏せる。
…………ひかりちゃん。
…………。
樹さんが、はぁ~と息をついて銃を下ろすのがわかった。
……もう大丈夫だからね、小太郎。
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【==== 山道 ====】
……騒動になってあちこち迷惑をかけてしまったが……人にも小太郎にも、怪我がなくて良かったよ。
別方面を捜索していた先生や他の猟友会の人たちも合流し、暴れることもなく自らケージに入った小太郎は、先に動物園に運ばれていった。
ありがとう、樹さん。
…………。
樹さんはちらっと要くんを見ると、無言のままフラフラその場にしゃがみこんだ。
何がありがとう、だ。もう少しで要を撃つところだった……。
……悪かったよ。
でも、小太郎が逃げた時は空腹でもなかったし、落ち着かせれば人を襲うようなことはないと思って……
それは結果論だ。お前は、もしものことがあっても怪我するのは自分だけだと思っていただろうが、お前ひとりだけで被害が止まるという確証など何もない。
1%でも、0.1%でも、無視していいリスクではないんだ。一歩間違っていたらと思うと……。
…………。
……い、樹さん。あんまり要くんを責めないであげて。
わたしが全部悪いの。勝手にここに来て、小太郎を刺激しちゃったし。
わたしがいたから、要くんもどうしても小太郎を死なせないようにしたんだと思うし……。
……ひかりちゃん。
ごめんなさい、樹さん。他の人たちにも、迷惑かけて……。ごめんなさい……。
他にできることもなくて、ただ深く頭を下げる。
ひかりちゃんが謝ることなんて! 悪いのは、小太郎を逃がしちゃった僕たちで……
…………。
その時、樹さんはくしゃっと髪をかき上げて、初めて笑顔を見せてくれた。
いや……小太郎も、君も、誰も悪くはないんだ。
皆も、小太郎も無事で、本当に良かった。そうだな、要。
え……
…………。
……うん、本当に。
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その後……要くんたちは事態の後処理ですごく忙しそうだった。
わたしも警察の人に色々聞かれて、「家で待っているように」という約束を破ったり、無防備に小太郎のそばへ行ったことは、さんざん叱られてしまったし……。
ニュースで騒ぎを知って帰ってきたお父さんお母さんなんて、わたしのしたことを聞いて失神しそうになっていた。
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小学校教室
塩屋、ニュースになってた子熊の事件、お前も関わってたってホントか?
警察とかハンターとか、たくさん出動したんだってな~。
小さくても熊は熊だもんね。怖くなかった?
……ううん。
小太郎はわたしの友達だから。怖くはなかったよ。
小太郎、動物園に戻ってるから……よかったら今度、遊びにいってあげて。
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【==== 動物園入場口 ====】
小太郎はまだ子どもなこと、それに結果的に誰も傷つけていないことから、これからも動物園にいられるそうで……
というかニュースで話題になったおかげで、むしろ人気者になっているみたいだ。
「子熊を怯えさせたかも」と申し出た男の子も、本当にそれが原因だったかどうかわからないのと、脱走は檻が壊れてしまったことの責任の方がずっと大きいからと、軽い注意程度で済んだらしい。
要くんたち動物園の職員さんも色々大変だったようだけど、一旦は臨時休園していた動物園も、数日経った今は無事に通常通りの営業になっている。
あの時小太郎が撃たれてしまっていたら、わたしはこんな穏やかな気持ちで日常へ戻ることはできなかっただろう。
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ひかりの家リビング
行ってくるね、ロコ。
とある休日。
わたしはソファに座るロコに声をかけて、よく晴れた空の下へ出ていく。
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【==== 動物園園内 ====】
おはよう、チカとハナ。今日も毛並みが綺麗だね~。
ミーコ、クロスケと仲直りできた?
あっ、ポピー、元気になったんだね。よかった!
動物たちに挨拶をしながら園内を巡って、クマ舎の前までやってくる。
……!
わたしの姿を見つけた小太郎は、ガラス越しに立ち上がってはしゃいでいた。
ふふっ。小太郎、すっかりみんなのアイドルだね。
笑みをこぼしながら携帯で写真を何枚か撮るけど――
ふと、小太郎を絵に描きたいなって思う。
……よしっ、今度小太郎のこともモデルにしちゃうから。
(その絵を見たら、要くんは何て言ってくれるかな……?)
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【==== 動物園園内 ====】
そうしてしばらく動物園を満喫していると、太陽は高く昇り、お昼を過ぎる。
(えーと、この時間なら……)
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屋上庭園
いたいた。要くん!
ひかりちゃん?
わたしが向かったのは、以前に来た屋上庭園だった。
涼しい秋風と柔らかい陽の光。
いいお天気の中で、要くんは縁石に腰かけてのんびりお昼を食べていた。
ちょっと残念。要くんがお昼寝してるとこ見られるかと思ったのに。
あはは。僕もいつも寝てばかりいるわけじゃないからね。
要くんは笑って、手にしていた一口サイズのチョコがけラスクをひとつおすそ分けしてくれる。
ありがとう、頂きます。……わ~、美味しい! 要くんも甘いの好きだったの?
いや、コレは僕が買ってきたんじゃなくて……
……ん?
何だ、ひかりも来ていたのか。
樹さん!
ちょうどその時屋上庭園に上がってきたのは、お茶のペットボトルを持った樹さんだ。
こんにちは、樹さん。
ああ、こんにちは。いい天気だな。
ひかりちゃんが来た時はちょうど飲み物を買いに行ってたんだけど。
このラスクは樹さんがくれて、さっきまで一緒につまんでたんだ。
じゃあ樹さんが、甘いの好きなんだね。
……い、いや、まあ、そうだが。だがブラックコーヒーも飲むし、こうしてお茶も飲む。
甘いものだけ食べて生きているわけではない。
うろたえてないで、樹さんもほら、座りなよ。
なぜか動揺している樹さんを促してから、要くんはう~んと伸びをした。
小太郎のことであちこち謝ったり点検し直したり忙しかったけど、やっと少し落ち着いてきたかなぁ。
そういえば小太郎を迎えに行った時はごたごたしてて、ちゃんとした紹介はしてなかったよね。
紹介?
うん、樹さんをひかりちゃんに、ひかりちゃんを樹さんに、ね。
まずはこの人が、前に話してた幼馴染の樹さん。
……私の話をしていたのか?
要くん、樹さんのことかっこいいって言ってたよ!
そ、そうか。
わあ、優しいなあひかりちゃんは。僕が悪口を言ってたのを庇ってごまかしてくれるなんて。
……何!?
目つきが悪いとか非常に甘いものを好む習性があるとか機械音痴とか天然とか……。
天然ではない、断じて。
で、樹さん。こっちがひかりちゃんで……
今の僕の彼女だよ。
――――へっ!!??
……………………………………。
……いや、信じないでね。冗談だから。
(な、なぁんだ……)
心臓に悪い。どう説得しようかと真剣に悩みかけたぞ。
……いや。しかし、要とひかりの歳の差は10かそこらか……。
今すぐにと言いだしたらさすがに通報だが、きちんとひかりが成人してからの付き合いであれば、割とありふれた年齢差だな。
だから、そう真剣に考えなくていいってば……。冗談、冗談。
(…………む。そんなに否定しなくてもいいんじゃないかな~……)
…………。
ひかりちゃんからしたら、僕なんておじさんくらいに見えてるんじゃない? ねー。
そ、そんなことないよ。
……ふむ。
要は、周囲の人や動物の心を読むのには長けているが……
案外、自分に関することはわかっていないようだな。
え?
ひかりも、今ならまだ間に合うから、ちゃんと将来のことを考えた方がいい。
……えっと……
…………?
……ありがとう、樹さん。
でも要くんにも意外と鈍感なところがあるなんて、それはそれで結構カワイイと思うな。
……そういうものなのか。やはり若くてもひかりは女性なのだな……。
鈍感とか、僕初めて言われたんだけど……!
感心した様子の樹さんと、ショックを受けている要くん。
2人を眺めて笑いながら、わたしは樹さんの『将来』という言葉を思い返していた。
(その……そういう意味の『将来』については、まだ、アレだけど!)
(わたしの、『将来』かぁ……)
動物が苦手だったこと。思い出した、コロの記憶。
小太郎に出会って、脱走事件で感じた色々な気持ち……。
要くんと初めて会ってから2ヶ月も経ってないけど、その間、わたしにはたくさんの変化があった。
(わたしの将来……)
(わたしが、将来やりたいことは――)