ひかりの家リビング
それじゃあ、気を付けていってらっしゃいね。暗くなる前に帰るのよ。
うん、行ってきます!
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住宅街
あれから数日が経った土曜日、わたしはまたロコと2人で出かけていた。
今日の行き先は近所の犬猫巡り……ではなく、動物園だ。
わたしの家から動物園までは歩いて15分くらい。
今までは、近くて良かったなって思うことはなかったけど……
(要くんがいつでもおいでって言ってくれたし、絵を褒めてくれたし……)
(要くんが喜んでくれるなら、パンダの絵に挑戦してみようかな)
ちょっと不安なような、でもわくわくするような。
そんな不思議な気持ちで、わたしはスケッチ道具を持って、動物園への道を歩いていった。
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【==== 動物園入場口 ====】
目的地に着いたのは、お昼の午後1時前。
中学生以下は無料だから、早速入ろうかと思ったものの……。
(……う)
入り口の前に置かれているある看板を見て、立ちすくんでしまった。
そこには『ふれあいコーナー《13:10~13:30》もうすぐ開始!』と書いてある。
ふれあいコーナーっていうのはうさぎとかの小動物を抱っこしたり触れるところで、もちろんわたしは参加したことはない。
(偶然ぴったりの時間に来ちゃったな。要くんに会えたら、誘われるかも? でも、断るのも悪いし)
休日のお昼で混雑しているのもあって、元々大きくなかったわくわくがしぼんでいってしまう。
(あんまり騒がしい中で絵を描くの、集中できなくて好きじゃないんだよね)
(……やっぱり、帰ろうかなあ。また今度でも……)
やあ、ひかりちゃん!
わ……!
あ、ごめん。急に声かけて驚かせちゃったかな。
……う、ううん。大丈夫。こんにちは、要くん。
こんにちは。ロコも一緒に来てくれたんだね、嬉しいよ。
家へ引き返そうとした瞬間に入場ゲートの向こうから現れた要くんは、わたしの考えていたことなんて知らず、相変わらずニコニコしてこちらへやってきた。
(さすがに今から、やっぱり帰るっては言えないよね……)
……? どうかした?
何でもない、何でもないから。要くんはお仕事中?
そうなんだけど、ちょうど今から休憩なんだ。よかったら一緒に園内を見て回らない?
うん。……でも、要くんは休憩しなくていいの? お昼ご飯は?
……それは大丈夫。休憩できる場所で、ちょっと見せたいところがあるんだ。
……? うん……。
(休憩できて、見せたくなるような場所……?)
動物園はお弁当なんかを持ち込んでもいいので、園内に座ってゆっくりできる広場やベンチはいくつもある。
でも、そういうとこって別に特別でも珍しい場所でもないし……?
まあまあ、ついてきて。
要くんは悪戯好きな男の子のように笑って、首を傾げるわたしを連れていった。
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【==== 動物園園内 ====】
やあ、今日はみんな調子良さそうだ。
それから要くんは、わたしに速度を合わせて歩きつつ、見る動物たちを紹介してくれた。
あのヒョウ、この前まで少しお腹の調子が悪かったんだよ。もう治ったのかな。
あっちのライオンは、奥にいる子が案外臆病で人見知りしてね……。
担当じゃない動物のことも心配したり詳しくて、まるで友達のことを話す時みたいに楽しげな要くん。
それを聞いていると、写生会で何度も来ている動物園なのに、いつもとは違うように感じた。
普段はおっかない肉食系の動物も、要くんにかかると、怖がりだったり、人懐っこかったり、好き嫌いが多かったり、すぐすねちゃったり……。
ただの「猛獣」じゃなくて、色んな個性のある面白い子たちに見えてくる。
動物たちの『声』を聞くといいよ。
それは鳴き声って意味だけじゃなくて、仕草とか、表情とか、そういうの全部含めてだけど。
言葉が通じなくても、聞こえるものはあるし、伝えることもできるって思うんだ。
要くんが言うことは、わたしにはまだ難しくてよくわからなかったけど、隣を歩く彼を見上げながら、ずっとすごいなぁって思っていた。
次はどこに行こうか。パンダは絵を描くから最後にするとして、
類人猿ゾーンか……ふれあい広場に行ってもいいかな。今、ふれあいコーナーやってる頃だし。
ふれあいコーナー……。
行ってみる?
……行ってみた方がいいのかなぁ。
困ってしまって、ロコをぎゅっと抱きしめた。
まだ、よくわかんないんだ。わたしが動物好きだって……。
嫌いかって言われると、それもよくわかんない。
動物を大事にしてる要くんを見て、すごいなとか羨ましいなって思うんだけど……
でも、動物に触ってる自分を思い浮かべると、やっぱり何だか怖いの。
…………。
……そうなんだね。いいんだよ、無理しなくって。
ひかりちゃんは、きっと動物が好きなんじゃないか……って思うのは変わってないけど、いま動物を苦手なのだって本当のことだろうし、それが悪いわけじゃないんだから。
いつか自然と、「意外と平気だな」「意外と好きかも」ってなってくれたらいいなぁってくらい。
ごめんね、僕の言ったことで気負わせちゃったかな。
ううん、いいの。わたしもいつか動物好きになれたらいいだろうなぁって思うし。
だけど今は、無理しないことにする。
うん。じゃあふれあい広場はちらっと覗くだけにしておこう。
急がずのんびり、園内のあちこちを歩きながら、動物と、動物について弾む声で教えてくれる要くんを眺めて過ごす。
そして……パンダ以外を軽く見て回った後に到着したのは――
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ハンター邸
園の奥にある、綺麗な洋館の前だった。
ここって……確か旧ハンター邸って言うんだっけ。
重要文化財とかになってるって、前にジュゼッペ先生が……
――って、要くん!?
カチャリと音を立てて、玄関の鍵が外れる。
扉を開けて、要くんは悪戯っぽく固めをつぶった。
良ければ中へ、一緒にどうぞ。
えっ、えっ、何で……!?
実はね。この家は今、僕が管理しているようなものなんだ。
要くんが?
そう。厳密に言うと管理者は父さんなんだけど、忙しいし。
明治時代にこの家を買ったのがイギリスの人だったんだけど、僕の親戚にあたるんだ。
そういう事情があって、こうして鍵を預かってるんだよ。
そ、そうなんだ。何だかすご~い……。
……えっと、本当に入っていいの?
もちろんだよ、遠慮しないで。
お……お邪魔します。
要くんに促され、靴を脱いでスリッパに履き替えてお家に上がらせてもらう。
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ハンター邸屋内
すごーい……!
建物の中は外国の雰囲気満点で、まるで別の世界に入り込んだようだった。
お母さんの絵本の中にいるみたい。
お母さんの絵本?
お母さん、絵本作家なの。こんなふうに素敵な洋館が出てくるお話もあったんだよ。
へえっ、それはすごいね! ひかりちゃんが絵を好きなのもお母さんの影響かな?
うん、そうかも。お仕事以外でも、わたしによく絵を描いてくれてたし。
ふふっ、お母さんがここに来たら、「参考になるー!」ってすごく喜ぶだろうなぁ。
そうだ要くん、写真撮ってもいい?
あはは、いいよ。その間僕、さっと昼食食べちゃうから。
普段あんまり使わないけど、緊急の時のためにって、わたしは携帯を持たせてもらっている。
携帯でパシャパシャと撮影するわたしを笑って眺めながら、要くんはソファに座って、手早くサンドイッチでランチを済ませていた。
ねえ要くん。要くんはここに住んでる……ってわけじゃないんだよね?
(人が住むにしては物が少ないし、家具とかが足りないよね)
うん。住んでる家は北野町にあるよ。こっちは管理や掃除のためだったり、今みたいに休憩の時だったり、あと緊急事態で帰れない時、ここに泊まったりもするくらいかな。
電気は来てるから、お湯を沸かすくらいはできるしね。
あ、それとお花見にもいいんだ。春になると桜が綺麗なんだよ。
桜? いいな、見てみたいな~。
じゃあ、その頃になったらまた招待するよ。
本当? やった、絶対だよ!
喜ぶわたしに、要くんは「予行演習しようか」と紅茶を淹れてくれて……
短い間だけど、動物園の中でのティータイムを楽しんだのだった。
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【==== 動物園園内 ====】
わー、近い~。
今日は涼しいから、外でのんびりしてるみたいだね。
その後見にいったパンダは、屋外展示スペースの方でてろーんと伸びていた。
今は運良く空いているから、絵を描いていても邪魔にはならなそうだ。
じゃあ、そろそろ僕は休憩終わりだから。でも、完成した頃に見に来ていい?
うん。……下手でも笑わないでね。
笑わないし、ひかりちゃんの絵は下手なんかじゃないよ。楽しみにしてる。
要くんはそう言って手を振り、お仕事に戻っていった。
(……頑張ろう)
要くんに期待してもらっているのが嬉しくて、
(う~ん、どういう構図にしようかなぁ)
パンダはかわいいけど、体は大きいから、いつもならちょっと怖い感じがしたと思う。
でも今日は色々驚いたりはしゃいだりして興奮していたせいか、不安や怯えは全然感じていなかった。
画材を準備して、すぐそばにいるパンダをそのまま描き出せるように、手を動かしていく。
大まかに形を取ってから、わたしが次に取り出したのは水彩色鉛筆だった。
普通の絵の具で塗る時みたいに多めの水を用意したり水換えをしなくてもいいので、外でスケッチをする時はいつもこれを使っている。
(優しい色になるのも好きなんだよね)
パンダの毛並みや、そこに落ちる木漏れ日のキラキラ。周りの草や木や石……。
色鉛筆で描いて、塗って、水筆で溶かしたり混ぜたり。
そうしてそろそろ完成が見えた頃、足音が近づいてきた。
ひかりちゃん、調子はどう?
あっ、要くん。うん、もうすぐ完成しそうなところ。後は仕上げだけだから。
そうなんだ。見てもいい?
……!! わー……!
わたしの方がびっくりしてしまうくらい、深い感心のこもった声を上げる。
すごくいいよ……! ひかりちゃん、天才じゃない?
え……! そ、そんなことは……。
あるって。……ねえ、よかったらこのスケッチ、完成したら飾ってもいいかな。
ほら、そこに名前や説明を書いたボードがあるでしょう? そこに一緒に掲示させてもらいたいんだ。
あ……あの……。
あ、せっかく描いた絵だもんね。もちろんコピーさせてもらってからだね!
貸しておいてくれたらこっちでコピーして、原本は次会った時に返す感じでどうかな――
い、いいよ! あげる。
……え……
こんな絵で良ければだけど……。
赤くなりながらわたしが言うと、要くんは『ぱあっ』って感じで顔を輝かせた。
本当!? ありがとう、ひかりちゃん。
コピーだとどうしても色味が変わるし、味も薄れちゃうからね。
汚れないようにラミネートして飾るから!
……うん……。
お世辞かなぁ……とも考えるけど、要くんは本当に嬉しそうで、照れくさくなってしまう。
だけどとりあえず仕上げをしなきゃと、わたしは最後にパンダの目や口元へ描き込みを足して、絵を完成させた。
どうぞ、要くん。まだ完全に乾いてないから気を付けてね。
うん、ありがとう……!
……って、もうこんな時間かぁ。帰らないと、お母さんが心配しちゃうな。
要くん、今日はとっても楽しかったよ。ありがとう。
僕もだよ! ひかりちゃん、また遊びに来てね。
その時までには、この絵をパンダ舎に飾っておくから。
うん!
素直な気持ちで返事をしたら、つい声が大きくなってしまった。
そんなわたしに、要くんはくすくすと笑う。
はは……そんなに嬉しそうな顔されると困っちゃうなぁ。
……? どうして?
いやぁ、人でも動物でも、可愛いものは罪……なんてね。
(……! か、可愛いって……)
…………じゃ、じゃあね、要くん。また今度!
うん、またね~。
ぱぱっと道具を片付け、ロコを連れて、そんな必要はないのに駆け出してしまう。
しばらく走って要くんの姿が見えなくなった頃、わたしは立ち止まって息を整えた。
……可愛い、だって。
お母さんやお父さん、それに友達とかにそう言ってもらったことはある。
でも今は、他の誰に言われた時より何だか嬉しくて、不思議な気分だった。
…………また来ようね、ロコ。
気恥ずかしくて、でも心は弾んでいて。
わたしは要くんの『またね』を頭の中で繰り返し思い出しながら、出口へと向かっていったのだった。