【==== 動物園園内 ====】
『またいつでも絵を描きにおいでよ』
『動物たちもきっと待ってるからね!』
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ひかりの部屋
……ん~……。
『フに落ちない』って、こういう時のことを言うのかな。
写生大会が終わって家に帰り、その日の夜……。
わたしはまだ飼育員のお兄さんの言葉が気になっていて、上手く寝付けずにいた。
ベッドの上でごろごろしながら、軽いロコの体を持ち上げて覗き込む。
ねえ、ロコ。何でかなあ。
本物よりかわいくとか、かっこよく描いたとかじゃないよ。見た通り描いただけだもん……。
それなのになんで、あのお兄さんはあんなこと言ったんだろう。
絵が上手いか下手かじゃなくて、『動物が好きなんだね』って。
蛍光灯の明かりで逆行になったロコは、「なんでだろうねぇ」って首を傾げてるみたいに見えた。
……そうだよね。ロコに聞いたってわかんないよね。
よーし……明日、外に出て試してみるから。
わたしが本当に動物を好きなのか、そうじゃないのか……!
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住宅街
それじゃあ、まずは深山さんちの『きなこ』からいくよ、ロコ!
その日の小学校終わり、わたしは一度家に帰って荷物を置いた後、ロコを連れて近所の道を歩いていた。
自分が本当に動物好きなのか、近くで飼われている犬や猫を見て確かめてみようと思ったのだ。
……あ、いたいた。
深山さんちの前まで行くと、玄関のそばにある出窓の向こうにオレンジ色の猫が座っている。
この子が『きなこ』で、こうして窓から外を眺めるのが好きみたい。
お、おーい、きなこ~。
呼びかけてみると声が聞こえたのか、きなこがちらりとこっちを見る。
だけどあまりわたしに興味はないのか、少しするとゴロンと横になって、毛づくろいを始めた。
(こういう姿は、のんきでかわいいかも)
(……あ、あくびした。あくびしてる時はちょっとコワイ……)
キバを出してあくびする顔には腰が引けてしまうけど……
とはいえガラス越しで絶対に噛みつかれたりしない状況だから、まだ余裕はある。
(う~ん、きなこは大人しいし、かわいいって思えるなあ)
(好きかどうかって言われるとよくわからないけど)
(じゃあ、次は……)
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住宅街
次にやってきたのは、原田さんちで飼われているゴールデンレトリバー、ジョンのところだ。
柵になっている門の向こう、玄関のそばに犬小屋がある。
そこで寝ていたジョンはわたしに気づくと、ゆっくり起き上がってこちらを覗き込んだ。
えーと……。ジョン、こんにちは。
…………。
ジョンは鳴き声を上げずに、ぱたぱたと尻尾を振ってわたしの近くに座る。
物静かですごく賢いジョンは近所の人気者だ。
わたしたちみたいな子どもがやってくると、門の下からボールを転がしてきて、敷地内に投げ返してあげたボールをまた取ってくる……みたいな遊びもする。
わたしは、大人しいとはいえ体の大きいジョンに不安があって、やったことはなかったけど。
(でもジョンは、子どもに吠えたり噛み付いたりは絶対しないんだよね)
(勇気を出して、わたしも挑戦してみようかな?)
……ジョン。ボール、ボール。
小屋のそばに転がっていた赤いボールを指差すと、ジョンはすぐにそれを取りにいって、門の下からわたしの方へ送る。
受け取ったボールをぽーんと中へ放ると……
ジョンは走って取りに行って、ボールをくわえて戻り、ご機嫌な顔でおすわりした。
(………………か、かわいい……よね)
つい、唇がふにゃっと緩んでしまう。
(やっぱり、大人しい子だったり、犬や猫くらいの大きさならそんなに嫌な感じはしないな)
(毛づくろいとか、遊んでる時とか、そういう仕草はかわいいって思うし)
(……『動物が好き』かぁ)
(それって、どういう意味でお兄さんは言ったんだろ?)
(こうして、かわいいなぁって思うのが好きってこと?)
わふっ。
……ねージョン、わたしは君のこと好きなのかな?
小さく鳴いたジョンが門の隙間から差し出した前足に、何となく触れてみようとして……
ウゥウゥ……、ワンッ、ワンッ!!
――きゃっ!?
ふいに聞こえた高い吠え声に、わたしはビクッと体を震わせた。
見ると、庭の方から小型犬がこっちへ猛スピードで走ってきて、門にぶつかりそうな勢いでわたしに吠え立てる。
ワン、ワンワン!!
見たことのない犬で、もしかしたら最近新しく原田さんちの家族になった子なのかもしれない。
でもその時はそんなことには頭が回らず、わたしはパニックになっていた。
……っ!
ロコを抱き上げて、一目散に逃げ出してしまう。
でも後ろからは鎖の音と鳴き声がまだ聞こえていて、不安が止めどなく湧き上がってきた。
ワンッ、ワン……!!
(やだ、やだ……!)
息を切らして、よろけながら走る。
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怖くて目をつぶると――いつかのあの日に戻ってしまったみたいに、記憶がよみがえった。
後ろから追いかけてくる足音や、激しい鳴き声。鎖を引きずるカチャカチャって音。
……わたしがもっと幼かった頃、大きな犬に追いかけられた時の嫌な思い出だ。
全力で逃げてるのに、気配はどんどん迫ってきて、背中に前足の感触と、びっくりするくらいの重みがかかって――
――ひかりちゃん!?
(…………!?)
かけられた声に、わたしはハッとして急ブレーキをかけた。
勢い余って転びそうになったのを、誰かの大きな手が支えてくれる。
……ひかりちゃん、どうしたの?
あ……ど、動物園の……。
お兄さんは息を荒くしているわたしを心配してくれたのか、きょろきょろと辺りを見回した。
何か怖いことでもあった? 怪しい人がいたとか……?
……う、ううん、違うの。
カバのことをあんなに楽しそうに教えてくれたお兄さんだし、動物園で飼育員をしているんだから、お兄さんこそ本当に動物が好きなんだろう。
そんな人に『犬が怖くて……』って言うのが何だか悪い気がして、わたしはついごまかしてしまった。
ちょっとお散歩してただけだから。
でも、その……見たいテレビがあったの思い出して、早く帰ろうと思って。
…………そう?
でも、顔色が悪いよ。家まで送ろうか。
えっ。お兄さんが……?
うん。安心して、お兄さんは怪しい人じゃないから。
そ、そういう心配をしてるんじゃないけど……。
メイワクじゃない?
大丈夫、忙しかったわけじゃないから。ひかりちゃん、お家はどっちかな?
……こっち。
わたしはお兄さんについてきてもらいながら、家の方へと歩き出した。
さっき吠えてきた原田さんちの犬は門の向こう側だし、嫌な思い出の犬だって、わたしの頭の中から出られない記憶でしかない。
それでもやっぱり怖い気持ちは消えてくれなくて、ひとりだったら道を戻って家に帰ることも、しばらくできなかったと思う。
そういえば……
こわばっているわたしを和ませようとしたのか、お兄さんは明るい声をますます明るくした。
ひかりちゃんの名前は聞いてたのに、僕の方は自己紹介してなかったね。
あ……そうだね。お兄さんのお名前は?
僕は『要』っていうんだ。必要の要って書いて、かなめ。
ハーフなのは見てわかるかな? 父さんがイギリス人なんだ。要・H・ハズレットだよ。
かなめ……。要……さん。
……要くんって呼んでもいい?
もちろん、どうぞ。
要くんは要『くん』って感じだった。そう呼ぶことを許可されて、少し気楽になる。
要くん、英語もしゃべれるの?
しゃべれるよー。小さい頃はイギリスに住んでたからね。
両親の仕事の都合もあって、ひかりちゃんくらいの歳の時に、日本に越してきたんだ。
それで、今は動物園でお仕事してるんだ?
うーん……アルバイトしてるって意味ではそうなんだけど。
本当の意味で『動物園で働いてる』ってわけじゃないんだ。
実は僕、大阪の大学に通って獣医の勉強をしてるんだよね。
ジュウイ……動物を診るお医者さんだよね。
そう、それ。将来獣医になる勉強も兼ねて、教授の紹介でバイトしてるんだよ。
今はパンダの世話をしてるんだけど……
そうだ、今度うちのパンダを描いてくれたら嬉しいなぁ。
パンダ? パンダかぁ~。
ほがらかな要くんの話を聞いていると、いつの間にか不安や恐怖も薄れていて、家に着くまでの時間もあっという間に感じた。
ここだよ、わたしのマンション。送ってくれてありがとう。
いえいえ、どういたしまして。じゃあ、僕はこれで……
……あら、ひかり?
もう散歩から帰ってきたの。……そちらの方は?
お母さん!
その時ちょうど歩いてきたのは、買い物袋を提げたお母さんだった。
わたしが出かけているうちにと、夕食の買い出しに行っていたみたい。
ひかりちゃんのお母さんですか、初めまして。ええと、僕は……何て言ったらいいかな。
あのね、お母さん。わたし……お散歩してたら、途中で具合が悪くなっちゃって。
そこに偶然要くんが通りかかったから、お家まで送ってもらったの。
要くんはね、この前動物園で写生会した時に初めて会ったんだよ。
大阪の大学に通ってる、要・H・ハズレットと申します。
獣医を目指してて、王子動物園で飼育員のアルバイトをしてるんです。
まあ、そうなんですか。
それに、わざわざひかりを送ってもらったなんて、ありがとうございます。……ひかり、大丈夫?
うん、今は平気。
わたしはすぐにうなずいたけど、お母さんはちょっと難しい顔をした。
……ひょっとして、また犬に吠えられたの?
え……!!
な、何でわか……じゃなくて、その……。
犬……?
実はこの子、小さい頃に犬に追いかけられてから、動物が苦手になっちゃって。
……そ、そうでしたか……。
あっ、もしかしてひかりが怖がったというのは、あなたのお家のワンちゃんでしたか?
あ、いえ、そういうわけではないんです。
要くんはちょっとすまなそうにしながら、ちらっとわたしを見る。
動物園で会った時、ひかりちゃんがとても上手にカバの絵を描いていたので、動物が大好きなんだろうと思って、そう言ったりしたんです。
でも、そういう思い出があって動物が苦手だったのなら、無神経だったかなと……。
そんなことがあったんですか……。でも、気にしないでください。
昔はうちでも犬を飼ってて、ひかりも全然動物が苦手なんてことなかったんですよ。
この子は小さかったので、今はあまり記憶にないみたいなんですが。
うん、あんまり覚えてない……。
……そっか。
要くん、ごめんね。動物苦手なの、黙ってて……。
ううん。僕が色々しゃべってたから、言い出しにくかったんだよね。
でも……昔はひかりちゃんも動物が平気だったんだね。
それならいつか、また動物が好きになれると思うよ。
だって、あんなに動物たちの活き活きとした絵が描けるんだから。
それに、そのロコもクマさんだしね。
……あ……。
さっきのパンダの絵の話、考えておいてね。ほら、パンダもクマさんでしょ? ロコの仲間。
土日はいつもいるし、窓口で僕を呼んでくれたら、いつでも迎えに行くよ。
……うん。
それじゃひかりちゃん、ひかりちゃんのお母さん、僕はこれで失礼します。
要くんはお辞儀をすると、「またね~」と手を振って帰っていった。
その背中を見送っていたわたしを、お母さんがそっと引き寄せる。
優しいお兄さんねぇ。
……うん。
(動物はまだ苦手……だと思うし、いつか好きになれるかどうかも、わからないけど)
(お兄さんがいるなら、また頑張って動物園に行ってみたいな……)