ハンター邸
~7話~

【==== 動物園園内 ====】

飼育員のお姉さん

要くん、輸送車が来たよ。

子熊の体調は大丈夫でしょうか……。

動物園の中には動物病院が建てられていて、子熊はそこに運ばれてくるみたいだった。

病院の中までは入れないけど、特別に搬送を見せてもらえることになって、わたしも要くんのそばで待っている。

敷地に入ってきたトラックが停まると荷台のドアが開いて、要くんや他の職員さんたちが中から頑丈そうな檻を下ろした。

ひかり

(……! 本当に、子熊だ。怯えてるみたい……)

檻の中にいたのは、口輪をはめられた真っ黒な熊。

大きさは中型犬くらいあると思うけど、檻の端に寄って身を縮めている。

ひかり

(……それはそうだよね。お母さんが死んじゃったんだもの……)

普通、熊は警戒心が強くて人間の気配がすれば逃げていくし、絶滅させないために、猟師の人も無闇に熊を撃ったりはしないそうだ。

だけどこの子の母熊は、住宅街の近くに現れたり、山道で登山者を襲いかけたりしたらしい。

人間が捨てた生ゴミや、登山者が捨てて逃げた食べ物を口にした熊は、人間と食べ物の匂いを結びつけてしまって……

町中に近づいたり、人がいても恐れずに近寄っていくようになることもあると、要くんが言っていた。

それで、母熊を放置することもできずやむなく猟師の人が出動して駆除し、遺された子熊は一頭では冬を越せず、それにこの子も人の食べ物の味を覚えているだろうと、山に放すことはせずに動物園で引き取ることになった……という話だった。

獣医

おお、こいつか。気の毒にな。

獣医さんが病院から出てきて、檻を覗き込む。

ひかり

あの……もう少し近づいてみてもいい?

獣医

ん? 嬢ちゃんは確か、ヨーコのお産の時に要くんと話してた……。要くんの妹か何かかい?

いえ、友達なんです。ちょうどついさっきまで一緒に遊んでたところで。

獣医

ふうん。まあちょいと見るくらいなら構わんが、金網の隙間から指を突っ込んだりせんようにな。

獣医

小さくても熊は熊だ。鋭い爪があることを忘れちゃいかんよ。

ひかり

は、はい。

先生にうなずいて、2、3歩だけ近づいてみる。

子熊は「ウウゥ……」と小さくうなって、わたしみたいな子どもにも恐怖の色を浮かべていた。

……自分が小さい時にお父さんやお母さんが急にいなくなって、知らない場所に連れてこられて、知らない人たちに囲まれたらどんなに不安だろう……。

想像すると、胸がぎゅうっと締めつけられて痛む。

ひかり

……大丈夫だよ。怖くないからね。

ひかり

ここの人たちはみんな、大事にしてくれるからね。

……ひかりちゃん……。

獣医

…………健康状態は悪くないようだな。8ヶ月くらいにしちゃ体も大きい。

獣医

嬢ちゃんの言う通り、ここに来た以上は精一杯大事にするからな。

先生が優しく声をかけるのを聞きながら、わたしは檻から離れる。

ひかり

せ、先生。お願いがあるんですけど……。

ひかり

わたし、またこの子を見にきていい?

獣医

うん?

ひかり

様子が気になるの。でも、こんなに怯えてる子をすぐお客さんの前に出したりはしないよね?

ひかり

だから、しばらく病院の中?とかにいるんだろうなと思って……。

獣医

……ん~……。

ひかり

その、窓の外からちらっと見るだけでもいいから……!

……先生、僕からもお願いします。

ひかりちゃんは動物に危害を加えたり、悪戯をするような子じゃありませんから、短い時間の見学だけでも……。

獣医

……ま、構わんが。ただしひかりちゃんがちゃんとご両親に話して、許可を貰えたらな。

ひかり

……!! ほ、本当! わかった、わたし、お母さんたちに話してみる!

獣医

ちょっとの間だけだからな。んじゃ要くんたち、頼むわ。

はい! ……よかったね、ひかりちゃん。

ひかり

うん……!

それから子熊の檻は病院の中へ運ばれていき、わたしは要くんたちにお礼を言って帰ることにした。

ひかりの家リビング

家に帰ってお母さんやお父さんに話すとちょっと心配されたけど、必ず要くんや獣医さんのいる時に、安全な場所から様子を見る程度だと伝えたら、安心してくれたみたい。

動物病院

そして、翌日――

失礼します。

ひかり

先生、こんにちは! 子熊は元気?

獣医

おう、要くんに嬢ちゃん。

獣医

子熊の体調は、悪くはないんだが……

動物病院を訪れたわたしたちに、先生は微妙な顔で部屋の奥へ目を向ける。

そこにいた子熊は昨日と変わらず、檻の中で固まっていた。

わたしがそばへ寄ると、檻の反対側へとさっと逃げてしまう。

暴れたりはしてないけど、明らかにわたしたちを警戒しているようだ。

獣医

捕獲されてから、まだ一度も餌を食べんのでな。元気一杯というわけにはいかん。

ひかり

えっ……だ、大丈夫なの?

獣医

冬眠に備えて餌をたらふく食べとったようだし、数日の断食ならすぐに飢えてどうこうなることはない。

獣医

あまり続くようなら、強制給餌せないかんだろうがな。

ひかり

(……ご飯食べてないんだ。捕まって、あちこち移動させられて、怖くて仕方ないんだろうな……)

…………そうだ、ひかりちゃん。この子熊、まだ名前が無いんだ。

ひかりちゃんが名前をつけてくれないかな?

ひかり

わたしが?

獣医

ああ、若いセンスで頼もうか。

ひかり

そ、そんなこと言われても……う~ん……。

ひかり

……あ、小太郎っていうのはどう?

コタロウ?

ひかり

ほら、熊が出てくる昔話があるでしょう? まさかりかついで金太郎~って。

ひかり

この子は小さいから、小さい金太郎で『小太郎』。

獣医

……金太郎ってのは主人公の男の子の名前であって、熊の名前じゃあねえけどな。

ひかり

あれ? そうだっけ……?

獣医

まぁ、別にその名前がダメだってわけじゃないぞ。

うん、僕もいい名前だと思うよ。

ねえ、小太郎。

子熊はちらっとだけ、わたしたちの方を見てくれた。

ひかり

……小太郎、また明日も来るからね。

……2日目。

動物病院

ひかり

あれ……。

その日の小太郎は、わたしが檻の近くへ寄っても遠ざかろうとしなかった。

獣医

まだ飯は食わんが、多少は警戒を解いてくれたんだろうな。

ひかりちゃんは体も大きくないから、僕たちみたいな大人に比べても威圧感がないだろうしね。

ひかり

……そうなのかな。ちょっとでも慣れてくれたのならよかった!

動物病院

ひかり

あ……! ごはん食べてる!

その日の小太郎は、檻の中でシャリシャリとリンゴをかじっていた。

わたしが入ってきたのを見ても怯える様子もなく、のんびり食事を進めている。

食べるようになって、本当によかったですよね。

獣医

飯食える元気がありゃあ一安心だ。

ひかり

小太郎、美味しい? よかったねぇ。

……そうだ。ひかりちゃん、小太郎の檻が変わってるでしょ?

ひかり

ん? うん、そうだね。金網がなくなって、広くなってる。

先生や僕たちに攻撃したりするようなことがなかったし、前のは手狭だったから、こっちに移したんだ。

それで、怖くないなら、檻の隙間から小太郎に果物をあげてみる?

ひかり

え……。

ひかり

(『怖くないなら』……)

ひかり

(……そういえばわたし、小太郎を怖いって思ったこと、なかったなぁ)

ひかり

……うん! あげてみたい。お願いします。

そっか。じゃあ大丈夫だと思うけど、万が一に備えてこの手袋をつけてからね。

わたしはしっかりした厚い手袋をつけた手で、檻の隙間から指を差し入れて、カットされたリンゴを小太郎の足元に置いた。

小太郎は何度か匂いをかいでから、そのリンゴを口に運ぶ。

ひかり

(食べてくれた……!)

ひかり

先生、もう1個あげていい?

獣医

ん、そこにある分は全部やっていいぞ。

ひかり

やった! 小太郎、ほら、もう1つどうぞ。

ふふ……。

……4日め。

動物病院

その日の小太郎は、動物園の一角にある屋内展示場を歩いていた。

古くなって普段は使われていない場所だということで、広い場所を小太郎が独り占めだ。

ひかり

あははっ、棒に噛みついてる。あれ、遊んでるんだよね?

うん。コロコロ転がって、やんちゃって言葉がぴったりだ。

獣医

昨日までは、ここに連れてきてもあまり動こうとしなかったんだがな。

獣医

元気に遊び回れるようになって何よりだ。

獣医

運動が終わったら、また小太郎におやつでもあげるかい、嬢ちゃん。

ひかり

いいの? うん、あげる……!

そして、5日目。

動物病院

ひかり

小太郎、元気?

わたしはまた病院を訪れ、檻の中に入っている小太郎に挨拶をした。

すると……

小太郎

グルグルグルグル……

ひかり

……え!?

わたしを見た小太郎が、聞いたことのない変な鳴き声を上げて寄ってくる。

ひかり

せ、先生! 小太郎、威嚇してるのかな!? それともどこか痛いとか……。

獣医

ははは。説明してやれ、要くん。

ひかりちゃん。それは『ささ鳴き』っていって、小太郎が甘えてる印だよ。

ひかり

…………あ、甘えてる?

小太郎

グルグルグル……

僕たちにもしないのに。ひかりちゃん、好かれてるみたいだね。

ひかり

……猫がゴロゴロって喉を鳴らすようなものなのかなぁ。

確かに小太郎には、怯えていたり苦しんでいたりするような様子はない。

むしろ後ろ足だけで立ち上がり、前足を柵の隙間から出して、無邪気に「ちょーだい」をしているみたいだ。

ひかり

わたしがよくおやつをあげてたから、果物ちょーだいってこと? ふふ、ゲンキンだなぁ、小太郎は。

ひかり

先生とか、普段お世話してる要くんとかもいるのに。

獣医

俺たち獣医は、注射だったり検査でいじくりまわしたり、嫌われてなんぼだからなぁ。

僕たちもそのお手伝いをするしね。飼育員でも、動物に信頼してもらうのはなかなか難しいことだよ。

でも小太郎がひかりちゃんを好きなのは、嫌がることをしないからとか、おやつをくれたからとか、それだけじゃないと思うよ。

こうやっていつも会いに来てくれて、優しく声をかけてくれて……

その温かい気持ちが、小太郎にもわかってるんだ。

ひかり

……そうだったらいいな。

ひかり

小太郎は、動物に怯えてた昔のわたしみたいだったから……。

ひかり

要くんが教えてくれたみたいに、怖がらなくても大丈夫だよって伝えてあげたかったんだ。

……そうだったんだね。

前に比べれば随分と心を開いてくれた小太郎に、自然と笑みが浮かぶ。

【==== 動物園入場口 ====】

それからもわたしは、休園日や絵画教室などの用事のある日以外、毎日動物園に寄った。

小太郎はわたしに懐いてくれたし、わたしも仲のいい弟のように小太郎を気にかける。

数日すると、要くんや先生の指導の下で、直接触れ合うことも許可されるようになった。

しっかり安全を考えられた状況ではあったけど、小太郎は全然暴れたりすることなく、素直にわたしと遊んでくれた。

それにわたしに対してだけじゃなく、先生や要くんたち飼育員さん、この動物園の環境自体にも小太郎が慣れてきているのを感じて、すごく嬉しい。

そうして、わたしは軽い足取りで日毎動物園への道を歩き――

ひかりの家リビング

ひかりの母

ひ~か~り~。

ひかり

……ごめんなさい……。

10月の半ばに近づいたある日、お母さんの前で、わたしはしゅんと体を小さくする。

お母さんの手にあるのは、65点と赤字で書かれた、算数の小テスト用紙だ。

実は最近動物園に行き過ぎて、算数以外でも成績が落ちてきてしまったのだ。

小太郎に会うだけじゃなくて、他の動物たちも一緒に様子を見に行くから、結構時間がかかって……

その分、勉強する量がぐっと減ってしまっている。

ひかりの母

動物園に行っちゃダメとは言わないけど、お母さんとの約束は守らなくちゃ。

ひかりの母

塾に行かなくて済むようにきちんと予習復習はするって話だったわよね?

ひかり

は、はい……。

ひかりの母

子熊の小太郎くんも動物園に馴染んできたんでしょ?

ひかりの母

なら少し見守るのはお休みにして、本分の学業に専念しなさい。

ひかりの母

ひかりに大好きなものや熱中できることがあるのは素晴らしいことだけど、まずはやることやってから。ね?

ひかり

はい~……。がんばります……。

ひかりの部屋

ひかり

(はぁ……。確かに最近、お勉強さぼっちゃってたよね)

ひかり

(あんまり成績が下がると、絵画教室に行くのもダメって言われちゃうかもしれないし)

ひかり

(よーし。しばらく我慢して、ちゃんと勉強しなくちゃ)

そんなこんなで、わたしは次の小テストが終わるまで動物園に行けないことになった。

とはいえ、その期間は1週間とちょっとくらい。

すごく厳しく叱られたわけでもなく、わたしもサボっている自覚はあって頑張らなきゃと思っていたから、そう気に病んだり重大なことだとは考えていなかった。

【==== 動物園園内 ====】

そっか……ごめんね、僕たちももっと気を遣ってあげるべきだったのに。

ひかり

ううん、わたしが来たくて来てたんだし。

ひかり

でもその間、小太郎のことよろしくね。

うん、任せておいて。

急に行かなくなると要くんも心配するだろうと、一度だけ動物園に寄って報告をする。

その後はお母さんとの約束通り、わたしはしばらく勉強に励んだ。

……その間、小太郎がどんな思いをしていたのか知らずに。