ハンター邸
~1話~

【==== 絵画教室 ====】

ジュゼッペ

今日は天気もいいからね。予定通り、動物園に行って写生をしましょう。

絵画教室の生徒

はーい。

絵画教室の生徒

ねえ、何描く? 私はね……

ひかり

(……うぅ~……)

ジュゼッペ先生の言葉に周りの皆は明るい声を上げて出発の準備を始めるけど、わたしは唇をむーっと曲げて、自分の席にかじりついてしまいたい気分だった。

……ここはイタリア人のジュゼッペ先生が開いた、絵を勉強する教室だ。

生徒は大人の人から、わたしみたいな小学生までいろいろ……。

三咲

……ひかりちゃんは、動物が苦手なんだっけ?

小さく笑いながらわたしを心配してくれる高校生の三咲さんも、生徒のひとりだった。

ひかり

うん……。だからいつも、動物園での写生はユーウツなの。

三咲

ふふっ、難しい言葉知ってるね。

ひかり

もう5年生だもん。……だから、動物は苦手だけど、大丈夫。

ひかり

それに、ロコもいてくれるし。

私は自分の椅子に寄りかかるように座らせていた『ロコ』の手を握った。

ロコは熊のぬいぐるみで……そして私の友達だ。

学校に連れていくと先生に怒られちゃうし、公園で遊んでいる時だってクラスの男の子にからかわれたりする。

でもジュゼッペ先生は、「君の友達なんだね」って、「ロコが一緒にいた方が落ち着いて描けるなら、連れておいで」って言ってくれたんだ。

三咲

そっか……。まぁどうしても怖かったら、いつでも言いなよ。

三咲さんはどっちかっていうと物静かで、周りの人とたくさん話したりする方じゃないけど、とっても絵が上手で、それに優しい人だって知っている。

そんな三咲さんにいいところを見せたくて、「うん、でもきっと大丈夫」って繰り返した。

……だけど、わたしの手はちょっぴり震えてしまっていたかもしれない。

怖がりな顔を隠そうと、両手でロコを抱きしめて顔をくっつける。

ひかり

(なるべく小さくて大人しい動物が相手なら、怖いのも我慢できるよね)

ひかり

(そばにいて励ましててね、ロコ……)

【==== 動物園園内 ====】

ジュゼッペ

それでは、午後3時までにはこの広場に戻ってくるようにね。

バスを使って、20分と少し。動物園へ到着したわたしたちは、道具を持ってそれぞれに散らばった。

絵画教室の生徒

とりあえずぐるっと見て回って、どれ描くか決めようぜ。

絵画教室の生徒

パンダは無理かもな~。この時間人多すぎだよ。

周りはグループで行動する人も多いけど、わたしは同じくらいの年の子が他にいないのもあって、ロコとふたりだけで画題を探しにいく。

ひかり

(う~ん、どれにしよう……)

今日は日曜日でお客さんも多いから、あんまり人気の動物とか、場所が狭くて邪魔になりそうなところは避けなくちゃいけない。

ひかり

(ライオン……トラ……。キリンは前に描いたし……)

ひかり

(動きが早い動物は、急に近づいてきた時が怖いからちょっとやだなぁ……)

しばらくうろうろして考えた結果、わたしはある動物の前へやってきた。

ひかり

(カバなら、他の動物より大人しいかも?)

ガラスの仕切りの向こうで、目のぎりぎりまで水につかって、じーっとしているカバ。

他のお客さんもいるけど、混雑してるってほどじゃないし、はしっこの方にいれば大丈夫だと思う。

ひかり

(よーし、カバにしよう!……ん?)

ふと気づくと、近くのベンチに三咲さんが座って、絵を描く準備をしているのが見えた。

ひかり

(三咲さんもカバを描くことにしたのかな?)

ひかり

(……もしかして、動物が苦手なわたしを心配してくれてたり……?)

そう考えると心強い気分になって、わたしもいそいそと紙と鉛筆を取り出す。

画板に画用紙をセットして、カバがよく見えるように、できるだけ仕切りへ近寄った。

ひかり

(ロコは……絵を描いてる間、ここにいてね)

地面にハンカチを敷いてその上にロコを座らせてから、わたしは両手の親指と人差し指で作った枠を、カバの方に向ける。

ひかり

(まずは構図を決めなくちゃ。え~と……)

カバをどのくらいの大きさで描くか、画面のどの辺りに入れようか。

画面いっぱいにどーんって描いても迫力が出るだろうし、周りの風景を入れて、カバをわざと中央からずらして描くのも、全体の雰囲気が伝わっていいかもしれない。

ジュゼッペ先生に教えられたことを思い出しながら、わたしは頭の中でぼんやり絵の完成図を想像した。

ひかり

(……うん、今日はカバを真ん中にして、大きめに描こうかな)

ひかり

(水面のキラキラがうまく描けるといいんだけど)

画用紙に向き直り、鉛筆で薄くアタリを取って、大まかな形を作っていく。

そうやってしばらくスケッチを進めていると、遠くの水面が動いたかと思うと、小さなカバが岩陰から現れて、こっちへやってきた。

ひかり

あ……。ふふっ……

ひかり

(子どものカバだ。親子で仲良さそう)

まるで絵本に出てくるような光景に、つい口元が緩む。

……すると、その時。急にすーっと大きい方のカバが動いて、わたしの方へ近付く。

ひかり

(わっ……!! な、何!?)

カバは目の前で何やら、のっそりと口を動かして……

カバ

――ヴォォォォッ!

ひかり

きゃああっ!?

頭がびりびりとシビれるような低くて怖い鳴き声に、思わず飛び上がってしまう。

カバ

ヴォ、ヴォ、ヴォッ……!

ひかり

わっ、わっ、わっ……!!

――ドンッ!

ひかり

わぁっ!?

鉛筆を落として後ずさってしまったわたしは、今度は背中に何かがぶつかるのを感じて、体を固くして振り返った。

???

……お嬢さん、大丈夫?

最初に見えたのは、園内でよく見る水色の服と、ズボンのポケットからはみ出た白い手袋。

木とか柱じゃなくて飼育員の人にぶつかったんだと気付いたわたしは、慌てて視線を持ち上げる。

そこにいたのは、背の高いお兄さん。

髪の色が明るいし、顔立ちがどこか外国の人みたいだ。ハーフ、ってやつなのかもしれない。

でもお兄さんをぱっと見た時に一番目立つのは、ニコニコした優しそうな表情だと思う。

やわらかい雰囲気にちょっとだけ安心したけど……口を開くと、わたしの声はまだ震えていた。

ひかり

あ、あのっ、カバ、カバが……

飼育員のお兄さん

ヒポポタマスって言うんだよ。

ひかり

…………えっ。……ひ、ひぽ?

飼育員のお兄さん

英語でカバをそう言うんだ。ほとんどの人は『ヒッポー』って呼ぶけどね。可愛いでしょ?

飼育員のお兄さん

でもそれでいて縄張り意識が強いから、『ここは僕の場所だぞー!』って、結構気性が荒いんだよね。

ひかり

そ、そうなんだ。……あっ!

わたしはハッとして、仕切りの前に座らせたままだったロコを助けにいく。

ついでに落とした鉛筆を拾いつつ、ロコを連れて戻ると、お兄さんはにこりと微笑んだ。

飼育員のお兄さん

その子は君の友達?

ひかり

うん、ロコっていうの。ロコもカバが怖いかもしれないし、カバも、ロコみたいに知らない子が近くにいたら怖くて、あんなに怒っちゃうんだと思うから。

飼育員のお兄さん

……そっか。ロコくん……えっと、ロコちゃん?

ひかり

ロコは女の子だよ。……わたしはひかりって言うの。

飼育員のお兄さん

ひかりちゃんとロコちゃんか。

飼育員のお兄さん

急にカバが怒って、ふたりともびっくりしちゃったよね。

飼育員のお兄さん

実はカバってすごく目が悪いから、縄張りに入ってきた動くものを敵かもって思っちゃうんだ。

飼育員のお兄さん

でもこうやって近づいてきたから、もう2人が可愛い女の子だってわかったんじゃないかな?

飼育員のお兄さん

ね、お前も女の子とちょっと遊んでみたかっただけだよね。

カバ

…………。

仕切りのそばへ行ってお兄さんが話しかけると、カバは何だか冷たい目をして水中に潜り……

くるっと体の向きを変えると尻尾でピシャっと水を飛ばして、子どもと一緒に去っていった。

ほんの少し肩の辺りにかかった水を払いながら、お兄さんが苦笑いする。

飼育員のお兄さん

……うん、多分そうだって。

ひかり

…………ぷっ……

ひかり

あはは……!

お兄さんのビミョーな顔に、わたしは声を上げて笑ってしまう。

すぐに「あっ、シツレイだったかな……」って口を手で塞いだけど、お兄さんはわたしより楽しそうにして白い歯を見せていた。

飼育員のお兄さん

かっこ悪いとこ見せちゃったね。でも、ひかりちゃんやロコちゃんに水がかからなくて良かったよ。

飼育員のお兄さん

そういえばひかりちゃんは、この動物園にはよく来たり――

三咲

ストップ!

飼育員のお兄さん

――えっ?

突然、三咲さんの声が響いてわたしたちはぎょっとする。

ひかり

(そうだ、三咲さんも近くにいたんだよね……。でも、な、何だろう?)

三咲さんは座っていたベンチからこちらへ走ってくると……

わたしの方へ戻ってこようとしていたお兄さんの足元から、1枚の紙を拾い上げた。

ひかり

あっ! それ、わたしの絵……!

三咲

お兄さん、踏みそうになってたから。

飼育員のお兄さん

わっ!? ご、ごめんね!

ひかり

ううん、わたしも自分で全然気付いてなかったから……!

ひかり

画板にクリップで留めてたのに……カバの鳴き声でびっくりした時に落ちちゃったのかなぁ。

ひかり

ありがとう、三咲さん。

三咲

いいって。せっかくの絵が汚れたり破れたりしたらあたしも悲しいもの。

三咲さんは少しだけついていた砂を綺麗に落としてから、画用紙をわたしに返してくれた。

飼育員のお兄さん

ひかりちゃんのお友達ですか?

三咲

そんなとこかな。同じ絵画教室に通ってるんです。今日は写生をしに、皆で来てるんですけど。

飼育員のお兄さん

そうか、それで絵を……

飼育員のお兄さん

……それ、ひかりちゃんが描いたの?

画用紙を画板へセットしなおす時ちらっと絵が見えたのか、お兄さんは感心したように言った。

ひかり

そう。まだ途中だけど。

飼育員のお兄さん

へー! すごく上手だね。

ひかり

……あ、ありがとう。

わたしの絵が別に上手くないってことは自分でわかってるし、大人はこういう時子どもの絵をけなしたりしないものだってこともわかってる。

それでも褒められると嬉しくて、照れくさくなった。

……だけど次のお兄さんの言葉には、わたしは喜ぶというよりも意外で驚いてしまう。

飼育員のお兄さん

きっとひかりちゃんは、動物のことが大好きなんだね。

三咲

…………?

ひかり

ええっ? そ、そんなこと……。

ひかり

動物園の人にこんなこと言うのダメかもしれないけど、わたし、本当は動物はちょっと苦手で……。

飼育員のお兄さん

……え。そ、そうなの? こんなに活き活きした動物たちの表情が描けるのに?

お兄さんは指で、わたしの絵を指し示して見せた。

水につかっている親子のカバ。背景に描き入れた、植物のしげる陸地と、そこに止まっている小鳥。

……何か特別に難しいギホウを取り入れたとか、すごい工夫をこらしたとかもない、普通の絵だ。

そもそも鉛筆で形を取っただけでまだ色も塗ってないし……。

飼育員のお兄さん

……ひかりちゃん、ちょっとこっちに来てみて。

わたしが納得していない面持ちだったせいか、お兄さんは手招きして、さっきまで三咲さんがいたベンチの方へ移動する。

ここはわたしが描いていた場所より少し高くなっていて、見通しも良かった。

さっき去っていったカバはこの辺りで遊んでいたらしく、今は小さいカバが陸地に上がるのを、大きいカバが手助けしてあげてるみたいだ。

飼育員のお兄さん

……カバって怖いところもあるけど、それは危険から自分や仲間を守ろうとする当たり前の習性なんだ。

飼育員のお兄さん

きちんと見守っていれば、ああして僕たちと同じように、優しいところや愛情があるんだってわかる。

飼育員のお兄さん

泳げないシマウマとか鳥が水に落ちた時、カバが助けてあげることもあるんだよ。

ひかり

そうなの? ……へええ~……。

飼育員のお兄さん

ひかりちゃんの絵からは、それが伝わってくるんだ。

ひかり

……えっ……

飼育員のお兄さん

単に見たものをそのまま描くんじゃなくって、ちゃんと生きてる感じがする。

飼育員のお兄さん

力強さとか、温かさとか……そういうのが自然とにじみ出てるっていうか。

飼育員のお兄さん

だから、きっと君は動物たちの本質を見抜く力があるんだよ。

飼育員のお兄さん

そんなの、動物が好きじゃないと無理だと思う。本当にすごいよ。

お兄さんが言うのは、びっくりするようなことばかりだった。

ひかり

(わたしが動物好き……?)

ひかり

そ……そんなことないよー!だって、遠くから見るだけならまだいいけど、近くにいると怖いし。

ひかり

絵画教室に行く時も、おっきくて吠える犬を飼ってる家があるから、わざわざ遠回りして避けてるもん!

飼育員のお兄さん

うーん……

【==== 動物園園内 ====】

三咲

…………。

ジュゼッペ

よくわからない、って顔だね。

三咲

……! 何だ、ジュゼも見てたの?

ジュゼッペ

ああ。ひかりと、それに三咲のことも気になってな。

三咲

……あたしは別に動物苦手じゃないよ。

ジュゼッペ

ひかりだって、本当はどうかわからないだろう?

三咲

だって、あの子が自分でそう言って……

ジュゼッペ

はは、三咲もまだまだだな。

三咲

…………?

【==== 動物園園内 ====】

ひかり

それにね、ユキちゃんちで飼ってる猫も、猫なのにすごーく大きくて、怖くて全然触れないし……!!

飼育員のお兄さん

うぅ~ん……。

三咲さんやジュゼッペ先生が話している内容なんて全然知りもせず、わたしはお兄さんに、自分がどれだけ動物が苦手かを力説していた。

すると――

PRRRRRR……!

ひかり

んっ?

飼育員のお兄さん

……!!

電話みたいな音が鳴ったかと思うと、お兄さんは腰の辺りについていたトランシーバーを外し、焦った様子で通話に出た。

飼育員のお兄さん

はいっ! ……はい、すみません、すぐに行きます!

飼育員のお兄さん

ごめんねひかりちゃん、僕、次の作業があるんだった。もう行かなくちゃ。

ひかり

う、うん。こっちこそお仕事中にごめんなさい。

飼育員のお兄さん

いいんだ。ひかりちゃんの絵が見られて良かった。

飼育員のお兄さん

それじゃ、またいつでも絵を描きにおいでよ。

飼育員のお兄さん

動物たちもきっと待ってるからね!

……お兄さんはそう言うと、あっという間に行ってしまった。

ひかり

…………。

『きっと君は動物たちの本質を見抜く力があるんだよ』

『そんなの、動物が好きじゃないと無理だと思う。本当にすごいよ』

ひかり

……そんなことないよねえ。ねえ、ロコ……。

片腕にロコを抱いて、描きかけの自分の絵を見つめる。

褒められていたのはわかるけど……自分では思ってもみないことばかりで。

その後はずっと、難しい宿題を出された時みたいに、わたしは途方に暮れていたのだった……。