小学校正門
パンダの絵を描いた日から、数日後……。
また明日ね、ひかりちゃん。
うん、また明日!
わたしは友達に手を振って、急ぐ足で家に向かう。
・
・
・
住宅街
パンダの絵がどうなったか気になっていたし、要くんと会いたいなっていうのもあって、わたしは今日も動物園に行ってみようかなと思っていた。
実は学校から動物園も歩いて10分しないくらいでとても近い。
でもランドセルのままで寄り道すると怒られちゃうから、一度家に戻らないと……。
(家に戻って、ランドセル置いて。ロコ連れて、すぐ出発して……)
動物園の最終入園時間は午後4時半までだから、急げば間に合うはずだ。
・
・
・
ひかりの家リビング
ただいまー! ロコは……いた!
お母さん、わたし動物園に行ってくるね!
ひかり、宿題は?
帰ってからやるー! 行ってきます!
はいはい。まったくもう。
・
・
・
【==== 動物園園内 ====】
(ふぅ、間に合った……)
入園ゲートをくぐって、ほっと一安心する。
平日なのとそろそろ閉園だからか、辺りにあまり人気はなかった。
歩きやすくていいや、くらいであまり深く考えず、わたしはパンダ舎を目指して進む。
(……あ……)
(考えてみれば、1人で動物園に来るのって初めてだよね)
小学校の遠足で来たこともあったけど、もちろん友達や先生が一緒だったし。
写生会の時だって絵画教室の皆が近くにいた。
この前も、園に入る前に要くんが声をかけてくれたし……。
――ケケケケケッ!
ひゃあっ!?
突然聞こえた鳴き声にビクッとしてしまったけれど、入り口近くにいるフラミンゴが鳴いただけだったみたい。
でも……何だか今更、自分が動物苦手だってことを、思い出していた。
(要くん、いないかなぁ……)
きょろきょろしながら足を速めてパンダ舎まで向かったけど、その道中にも、パンダ舎にも彼の姿は見えなかった。
パンダも今日は木の陰になっている奥の方にいて、様子がよくわからない。
……ふいに不安が大きくなってしまったわたしは、自分の絵が飾られているのか探しもせず、この前要くんとお茶をした旧ハンター邸へと駆け出した。
キッ、キッ、キッ……!
ギャーッ、ギャーッ……!!
(……!!)
だけど四方から聞こえてくる動物の鳴き声に、途中で足がすくんでしまう。
人が少なく静かな園内で、動物の声はわたしを突き刺すように鋭く響いていた。
(うぅ……やっぱり怖いよ、ロコ……!)
動けなくなってしまったまま、ロコを抱きしめる。
……そんな時、ロコの耳がわたしの頬に触れて、あることを思い出した。
動物たちの『声』を聞くといいよ、って……この前、要くんが言っていた。
(なんだっけ……。一緒に、表情とかも見るんだよって、言ってたのかな)
いつの間にかうつむいていたけれど、おずおずと目を上げ、声のする方へ顔を向ける。
鳴いていたのは近くにあった、類人猿ゾーンの猿だったらしい。
キーキーとかキャーとか言いながら、仲間とじゃれている。
(……じゃれてる……遊んでるのかな?)
意識していなければ『動物の鳴き声』とひとくくりにしてしまっていたものが、こうしてちゃんと観察しながらなら、ひとつひとつ別のものに感じてくる。
お腹が空いてるのかな。友達を呼んでるのかな。楽しいのかな、怒ってるのかな……。
そうやって考えていると、どうしてか、怖いのも薄れていくような気がした。
しばらくすると、こわばっていた足にも力が入るようになって、わたしはどうにか旧ハンター邸の前までやってくる。
・
・
・
ハンター邸
でも明かりが点いている様子もなかったし、中にも周囲にも要くんはいないみたいだった。
(……仕方ないや、今日は帰ろうかな)
そう思って引き返す。でも、その途中――
あ……!
慌てた様子でどこかへ向かおうとしている彼の姿があった。
要くん!
……! ひかりちゃん。今日も来てくれたんだね。
うん……どうかしたの?
要くんは真剣な面持ちで、緊張した感じもあって、明らかにいつもと違う。
実は……妊娠していたシマウマがいたんだけど、急に産気づいてね。
人が手を貸さなくても無事に産まれる方が多いんだけど……今回は難産なんだ。
えっ……! そ、そうなんだ。
ごめんなさい、呼び止めちゃって。邪魔しちゃいけないし、わたし、帰るね。
うん……。……ねえ、ひかりちゃん。
シマウマのお産、一緒に見に行く?
……え!?
今回の子、産室じゃなくて放飼場……屋外展示スペースで産気づいて、そこから動かないんだ。
刺激しないように静かにしてもらう必要はあるけど、他にもお客さんが何人か見守ってるよ。
正直、ためになるとは言わないし、何もできることはないだろうけど、それでも少しは、動物たちのことがわかるかもしれないよ。
要くんは微笑んでいた。
不安な気持ちも大きかったけど、好奇心もあったし……要くんもその場にいるのなら。
わ、わかった。わたし、見せてもらいたい……!
・
・
・
【==== 動物園園内 ====】
(あっ、ここだ……!)
その後、要くんは走って先に行き、場所はわかっていたのでわたしも小走りでシマウマ舎に辿り着いた。
要くんが言っていた通り他にも数人のお客さんがいて、柵の向こうのシマウマを見守っている。
シマウマの周りには要くんを含めた5人くらいの人がいて、飼育員や獣医の人じゃないかと思った。
そして、みんなの視線の中心にいるシマウマは苦しげに鳴いていて……
尻尾の下からは、子どものものらしい脚が見えている。
(……! 本当に、子どもが産まれそうなんだ……)
テレビで見たり、何かの時に話を聞いただけだけど、人間も難産の時に亡くなる人がいるらしい。
人間と動物じゃ違うとは思う。
でも、もしかしたらあのシマウマも、運が悪ければ不幸なことになってしまうのかもしれない……。
飼育員の人たちの緊迫した声にも不安が湧き上がってきて、わたしはすがるようにロコを引き寄せた。
(し……死んじゃったり、しないよね……?)
シマウマの苦しげないななきに、心臓がばくばくうるさくなって、足が震えそうになる。
だけどその時――
わかりました、僕がやります。
大声じゃないけど、よく通る要くんの言葉にはっとした。
彼はシマウマのお尻の方へ行くと、手袋をつけて子馬の足の横からお腹の中へ手を入れる。
聞こえてきた会話は難しい言葉も多かったけど、お母さんのお腹の中で子馬の足や頭がひっかかってしまっているらしい。
そこで手を入れて、中で子馬がどんな姿勢になっているか確かめたり、出産しやすい姿勢に直したりするようだ。
獣医らしい先生は大柄な男の人で腕もがっしりしているから、腕の細い要くんが診た方がやりやすいし、お母さんに負担が少ないと言っていた。
……! 胎児は動いてますね。生きてる……。……ああ、でもやっぱり頭が……
弛緩剤使うか?
そうですね、そっちの方がいいと思います。お願いします。
張り詰めた空気ではあったけど、獣医さんと要くんはてきぱきと、それにしっかりとした口ぶりで話していて、少し勇気づけられるようだった。
他の飼育員の人たちも懸命に作業を手伝ったり、シマウマを撫でて声をかけたりしている。
(……っ、がんばれ……!)
いつの間にかわたしも、ロコを抱く腕の先で祈るように指を組み合わせていた。
頑張れよ、チーコ……!
要くんも声をかけながら、子馬を押して位置を整えたり、ロープをかけて引っ張れるようにしていく。
(がんばって、がんばって……!)
よし、引っ張るぞ!
はいっ!
要くんたちは全力でロープを引っ張り始め、シマウマもつらそうにしながら必死に力んでいるのがわかった。
きっと赤ちゃんも、外に出られなくて苦しいだろう。
もしかしたらお母さんか、子どもか、その両方かが死んでしまうかもしれない……。
そんな目の前の光景を恐ろしくないとは、とても言えなかった。
それでも目を背けて逃げ出したくはない。
何もできなくても、せめてここで見守っていたい……。
(がんばって……!!)
それを何度心の中で繰り返した頃だろう。
あ……!!
ずるっ、と子馬が引き出され、全身が敷かれたワラの上に落ちる。
お母さんはヨロヨロしながらも子馬の方を振り向き、そばに座って体を舐めてあげていた。
(子馬も、ちゃんとお母さんを見て反応してる……)
まだ観察は必要だが、今のところは問題ないようだな。
はい、良かった……!!
要くんたちは安心した笑顔を見せ合い、お客さんたちの間にもほっとした空気が流れる。
小さな拍手が広がって……わたしもじんと胸を熱くしながら産まれたばかりの子馬を見つめていた。
(良かった……。お母さんも子どもも無事みたいで、本当に良かったぁ……)
飼育員さんたちはシマウマの様子を診たり、2頭を屋内に移す準備を始めているみたいだった。
ただ、シマウマが疲れていたり出産直後だから、すぐには動かせないのかもしれない。
そんなに急いではいないみたいで、要くんはわたしに気付いて寄ってきてくれた。
最後まで見守って、応援してくれてたんだね。
うん……! お母さんも子どもも大丈夫みたいで、ほんとに良かったよ……!
そうだね……。
人間に比べて動物は難産の確率は低いけど、それでも稀ってほどじゃないから。
ここで死んでしまう子もいるのは事実だし、僕も怖かったりするよ。
何をしても、運命のいたずらによって生死が別れてしまうこともあって……
だけどそれでも、この子たちは最後まで必死に生きようとするから。
だから僕たちも、最善を尽くしてひとつでも多くの命を救えればって思うんだ。
…………。
……要くんは、目の前で動物が死んじゃったのを見たことある?
どうしてそんなことを聞いたのか、その瞬間のわたしには自分でもわかっていなかった。
あるよ、何回も。すごく悲しかったな……。
でも、要くんが穏やかに答えてくれたのを聞いて――ある記憶がよみがえる。
……わたし……
……? ひかりちゃん……?
わたしも……悲しかった。
(そうだ……)
コロが死んだ時、すごく悲しかったの……。
コロ?
うん……。わたしがもっと小さい時に飼ってた犬。
拾った時にはもうおばあちゃんで、警察に届けても誰も引き取りに来なくて……。
もしかしたら、年を取ったから捨てられたのかもって言ってた。
…………。
なんで忘れてたんだろう、わたし。
コロはすごく優しくて、大きい犬に吠えられた時だって、助けにきてくれて……。
でも、うちに来て1年もしないうちに、病気になって死んじゃったんだ。
お父さんとお母さんが何度もコロを病院に連れていってくれたし、わたしも毎日看病をしてた。
でも……。
……ひかりちゃん……。
これは後で要くんが「こうじゃないだろうか」って話してくれたことなんだけど……。
わたしはコロが死んだことが悲しすぎて、仲良くなってもいつか必ずこんなにつらい別れが来るのなら……と、無意識に動物と触れ合うことを避けてしまっていたみたい。
でも、コロのことは思い出すのも苦しいから、記憶にふたをしてしまって……。
動物を見て不安になるのは「大きな犬に追いかけられて怖かったのが原因だ」って、自分でも気づかないうちにそう思い込んでしまっていたんじゃないかな、と要くんは言っていた。
……コロのことが大好きだった分、すごくつらい思いをしたんだね。
うん……。だけどわたし、そんなコロをいなかったみたいに……。
飼っていた動物を失くしてショックを受けたり、もうつらい思いをしたくないからと動物を避けてしまったりするのは、大人でもよくあることだよ。
それにひかりちゃんは、完全にコロのことを忘れてたわけじゃない。心の底ではちゃんと覚えてたんだ。
コロが亡くなってしまったことを、成長して強くなった今のひかりちゃんなら受け止められるから……
だからこうやって、ちゃんと思い出せたんだよ。
自分を責めないで……いまは、そのことを喜ぼう。
コロもきっと、ひかりちゃんに思い出してもらえて嬉しいよ。
……コロも……。
…………そうだね。わたしも……コロを思い出せて良かった。
――要くん!
獣医さんの声がして、ぱっとそちらに視線が集まる。
どきりと、大きく心臓が震えた。
子どものシマウマが、よろめきながらも立ち上がろうとしている。
僕、行ってくるね!
う、うん……!
子どもは何度か転んだりしながら、お母さんの助けもあって、徐々にしっかり立ち上がり、そして歩けるようになっていく。
その光景を見つめながら、ちょっと視界がうるんでいた。
(……がんばって……)
子どもを産むのは、時には死の危険もあるほど大変で……
新しい命が誕生したとしても、いつかは必ず死んでしまう。
死んでしまうことは悲しくて、寂しくて、怖くて……
だからわたしは立ち止まって、目をつぶって、耳をふさいでた。
コロの記憶をなかったことにして、いずれ死んでしまう命を見たくないから動物を避けていた。
でもこうして、ちゃんと前に進んでみたら……こんなに胸が熱くなるような出来事に会えた。
新しい命に会えたんだ。
(がんばって……。わたしも、がんばるから……!)
お母さんの周りをぴょんぴょんと跳ね始めた子どもシマウマと、愛おしそうに2頭を見つめている要くんを眺めながら……
わたしも涙ぐんだ笑顔を、ずっと浮かべていたのだった。