英国館
~10話~

病院病室

患者の子供

あっ、ダレル先生!

ダレル

やあ、回診に来ましたよ。調子はどうかな。

――季節が巡り、1年半と少しの時間が経っただろうか。
私はその日の午前中も、非常勤医師としての業務に励んでいた。

小児喘息で入院していたケイ君は、上体を起こして身を乗り出す。

患者の子供

うん、今日も全然苦しくないよ。先生、僕、大丈夫だよね?

ダレル

そうだね、検査の結果もすごくいいから、このままなら予定通りに退院できるよ。

ダレル

そうしたら、学校の遠足にも間に合うからね。

患者の子供

うん……!

きらきらした表情に、私の方が元気をもらえるようだ。

生死に関わる職業だから、つらいことも多いけれど……
それでも、あの日諦めずに医師を目指すと決めて、本当に良かったと思う。

英国館バー店内

そして夜になれば、バーの制服に着替えて、カウンターに立つ。

たくさんのお客様をお出迎えし、お見送りし……
最後に残ったのは、私の師匠だ。

オーナー

ふむ……

オーナー

なかなか味が磨かれてきましたね。私の真似でなく、貴方のカクテルになってきている。

ダレル

そうですか? 良かった……

ダレル

師匠に味を見てもらう時は、本当にいつも緊張しますよ。

オーナー

ダレル……貴方はもう少し自信を持ってもいいのですよ。

オーナー

貴方にこの店を譲った私の見る目が、間違っていると言いたいのでなければね。

ダレル

は、ははは……

嬉しいような照れるような心地で、顔をほころばせる。

目の前にいる師匠……前オーナーから譲ってもらったソムリエナイフは、私の宝物だ。

そして師匠が今何をしているかというと。
引退したのもつかの間、趣味でカクテルを研究したり盆栽を楽しんだり釣りを始めたりと、どにもこの人はゆっくりする気がないらしい。

ダレル

(歳で体がつらいから引退……とは何だったのでしょうかね)

前オーナー

ダレル、何か言いたいことでも?

ダレル

い、いいえ。何でもありませんよ。

前オーナー

…………

前オーナー

……病は気からと言うように、健康も気から、なのでしょう。

前オーナー

貴方が立派にこの店を継いでくれたから、私は安心して新しいことを始められるのですよ。

ダレル

……師匠。

私の考えを簡単に見透かす彼には、いつまで経ってもかなわないのだろう。
師匠は老紳士然とした風貌に似合わず少年のような笑みを浮かべると、お代を置いて立ち上がった。

前オーナー

さて、そろそろ閉店でしょうし、私は帰りますね。

前オーナー

今度は友人を連れてきますから、研鑽を怠らないように。

ダレル

はっ……。肝に銘じます。

師匠が去った後の店内は、私以外に無人となる。

ダレル

(よし、それでは看板を……)

ダレル

(……ん?)

ドアベルが鳴り、お客様の来店を知らせた。

近付いてくる控えめな足音――

そしてやってきた彼女は、私とまっすぐに目を合わせる。

人づてに様子は聞いていても、直接会うのは久しぶりで……
凛とした姿に、懐かしさがこみ上げた。

ダレル

遥香さん――

遥香

もう閉店の時間だったかしら。……ごめんなさい、帰るわね。

ダレル

……いえ、大丈夫ですよ。どうぞ、いつものお席へ。

遥香

…………ありがとう。

あの日と同じやり取り。でも違うのは、遥香さんの面持ちに憂いがないことだ。

彼女は明るい返事をして、素直にカウンターへ向かった。
私は一度外に出てCLOSEサインをドアにかけると、店内へ戻ってこう提案する。

ダレル

お待たせいたしました。この後は、遥香さんの貸し切りにしてしまいましょう。

遥香

あら、いいの?

ダレル

ええ。だって今日は……

ダレル

遥香さんが初めてこのバーに来てくださってから、3年めの記念日ですから。

遥香

……2年めはすっぽかしてしまったのに、まだ記念日を覚えててくれたのね。

ダレル

もちろんです。もし遥香さんが目標を達成して、また来てくださることがあるのなら、

ダレル

きっとこの日だろうと思っていました。

『成長した私を見せにくる』……彼女ならその約束を必ず果たすだろうとわかっていた。

私を待ってバーを続けてくれていた師匠も、こんな、わくわくするような気持ちだったのだろうか。

ダレル

……それで、遥香さん。ご注文はお決まりですか?

遥香

そうね……どうしようかしら。前に飲んだものを作ってもらうのもいいけど……

遥香

……今日は、何か明るい気分になれるようなカクテルで、マスターのお勧めをお願いしてもいい?

ダレル

明るい気分になれるもの……ですね。かしこまりました。

「少々お待ちを」と告げながら、私はもう何を作るか決めていた。

テキーラ、ミントリキュール……とそれぞれ銘柄を選び出し、材料をシェーカーへ注いでいく。
シェークしてグラスへ移し、最後にミントを飾って――

そうしてできあがったのは、爽やかな緑色のカクテルだ。

ダレル

どうぞ、『エバー・グリーン』でございます。

遥香

わあ……! とっても綺麗な色ね。

遥香

それに、エバーグリーンって……常緑、不朽、ずっと若々しいとか、そういう意味の言葉よね。

ダレル

ええ。そしてカクテル言葉は、『晴れやかな心で』です。

ダレル

きっと、今の遥香さんのお気持ちにぴったりだと思いまして。

遥香

……ええ。頂くわね。

グラスを傾ける彼女の姿は、前よりもずっと洗練されているようだ。
「美味しい」と目を細める遥香さんに、本音が口をついて出る。

ダレル

遥香さん、ますます美人になられましたね。

遥香

……そう? 女にとっての3年って長いもの。老けた、の間違いじゃないかしら。

ダレル

まさか、そんな。

茶化す彼女に、ぶんぶんと首を振って否定した。

ダレル

いつまでも若くありたい……誰もが思うことですし、私も気持ちはわかりますが、

ダレル

年齢を重ねることは、本当はとても素晴らしいことなのですよ。

ダレル

作りたてのお酒にももちろん新鮮な持ち味がありますが、

ダレル

時間をかけて熟成させたお酒にしか出せない味もあります。

ダレル

人間も同じで、時間を……そして経験を重ねるほどに、

ダレル

その人にしかない美しさがきわ立ち、増していくものです。

遥香

……マスターってば、人を喜ばせるのが上手なんだから。

遥香さんは気恥ずかしそうに少し目許を染めて、ここへ来なかった間のことを語ってくれた。

色々と大変なことはあっても仕事は順調で、借金も無事に……全て返し終わることができたらしい。

遥香

それに、自分のことだけに集中すると、何が未熟だったのかもだんだんわかってきたし……

遥香

それをどうしたら改善できるかっていうのも、見えてきた気がするわ。

遥香

仕事仲間とかクライアントさんと意見がぶつかって、

遥香

『どうしてわかってくれないの!』って思うこともあったけど、そこで終わらないようにしてる。

遥香

なるべく相手と意思疎通をはかって、納得した上で進めれば、結果が同じでも気持ちは全然違うものね。

遥香

慢心は駄目だけど、ちょっとは成長できたかな……なんて、自分では思ってるわ。

遥香

マスターも、お医者さんとしてもバーテンダーとしても、ますます上達したんじゃないかしら?

ダレル

そうですね。私も、手前味噌ですが……

非常勤として医者の仕事も続けていること、この店のオーナーとなり、本当の意味で店を引き継いだことを話すと、彼女は満面の笑みで「おめでとう」を言ってくれた。

遥香

オーナーもマスターの実力を認めてくれたのね……

遥香

そうだ、マスター。マスターのお祝いと再会のお祝いを兼ねて、私から奢らせてくれない?

遥香

2人分、何か作ってほしいんだけど……

ダレル

ありがとうございます、遥香さん。……それでは……

さっきの『エバー・グリーン』とは違って、今度はしばらく考えこむ。
バック・バーを眺めて……まずはこれ、次はこれかなと、頭の中で味を作りながら材料を選んでいった。

ダレル

(そうだ、冷凍庫に桃のコンポートがあったから、それも使いましょう。それで、ブレンダーにかけて――)

そうして仕上げたのは、柔らかなピンク色のフローズンカクテルだ。

ダレル

どうぞ、遥香さん。

遥香

ありがとう。これも、とっても綺麗な色合いね……

遥香

なんていうカクテルなの?

ダレル

実は……このカクテルには名前がないんです。

ダレル

遥香さんをイメージして作った、オリジナルなもので。

遥香

えっ……!

ダレル

よければ、名前とカクテル言葉は、遥香さんがつけてあげてください。

遥香

……マスター……

遥香

ありがとう。何だかちょっと照れるけど、すごく嬉しいわ。

彼女がグラスを手に取ると、シャーベット状のカクテルがゆっくりと波打つ。
ストローで最初の一口を味わい、遥香さんは吐息に笑みを混ぜた。

遥香

美味しい……

遥香

これが私のイメージなんて、おだて過ぎじゃないかって思うくらいよ。

ダレル

ふふ、お世辞なんかじゃありませんよ。

ダレル

三好さんや、遥香さんの同僚さんがお店に来てくださった時に、貴女の頑張りは教えてもらっていますから。

ダレル

遥香さんが一生懸命に自分を磨いていたことを、ちゃんと知っています。

遥香

……ありがとう。そうよね。マスターが私のことを気にしてくれてたこと、私も知ってる。

遥香

見守ってもらえてるんだってわかって、すごく力づけられたわ。

遥香

だから、途中でへこたれずに、またこうしてここへ来ることができた。

嬉しそうにまたストローへ口をつける彼女に、こちらも胸が温まってくる。

時間は深夜。
今日も忙しかったのだろうけど、疲れも彼女の輝きを翳(かげ)らせることはできないみたいだ。

遥香

……決めたわ。

遥香

このカクテル、『ルヴォワール』……再会って名前にしましょう。

遥香

カクテル言葉は――

遥香

『もっとあなたに近付きたい』とかでどうかしら?

どきりとした。
こちらへ向けられた彼女の視線が、微笑が、すごく魅力的に感じて。

そわそわするような、懐かしいような、不思議な感覚――

ダレル

……素敵だと思います。

遥香

ありがとう。ところで……

遥香

マスターは、まだ修行中なの?

遥香

私の方は一旦、一区切りつけようかな、なんて思ってるんだけど。

今度は夜空が覗く窓の方を眺めて、彼女が告げる。
けれど、その横顔もまた、とても綺麗に感じた。

ダレル

……こほん。

ダレル

そう……ですね。もちろん、これからも精進は続けていかなくてはいけませんが……

ダレル

そろそろ一人前として、私も修行はおしまいにしてもいいかもしれません。

言いながら照れくさくなって、私も自分用のカクテル――
彼女に名前をつけてもらった、ルヴォワールを口にする。

シャーベットの涼しげなさっぱりとした味わいと、桃の柔らかな甘さ。

ダレル

……我ながらなかなかの完成度だ、とは思いますが、

ダレル

やっぱり初めて作ったものだから、まだ詰めは甘いですね。

ダレル

遥香さんをもう少し知れば、より明確なイメージを持って味を作れるかもしれませんが。

遥香

……そう。ふふっ……

花が咲いたような彼女を見つめると、ルヴォワールのカクテル言葉が頭をよぎる。

ダレル

(もっと……)

――もっとあなたに近付きたい。

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