英国館
~7話~

英国館バー店内

ダレル

大学病院で出会ったことをきっかけに仲良くなり、いつしか恋人同士となった2人……

ダレル

……しかし、そんな楽しい日々も、そう長くは続かなかったのです。

遥香

…………

遥香

そう……よね。最初に、『相手を思っているのにすれ違ってしまった青年の話』って言ってたものね。

ダレル

……ええ。

ダレル

その原因は、青年の方にありました。

ダレル

3年次まで進級した彼ですが、だんだん勉強についていけなくなり、

ダレル

周囲から遅れていると感じるようになったのです。

遥香

えっ……

ダレル

授業はどれも必修……ひとつでも落とせば留年となる科目ですし、

ダレル

とにかく膨大な知識を暗記する必要があるものです。

ダレル

彼は自分なりに努力していたものの、あまり効率は上がらず、気持ちは焦るばかりだったようで……

ダレル

律さんは恋人として青年を支えようとし、色々励ましてはくれたものの、

ダレル

彼はだんだんと自信を失くし始めてしまいました。

ダレル

立派な医師である父に憧れて医師の道を目指したものの、自分には才能がなかったのではないか。

ダレル

本当に医師になったらもっと大変なことはあるだろうに、この程度でつまづいて落ち込んでいるようでは、

ダレル

学力の話だけでなく、精神的にも未熟すぎるのでは。

ダレル

律さんにもいつも暗い顔を見せてばかりで、たくさんの患者さんどころか、大切な人ひとりも笑顔にできない。

ダレル

自分には、医師になる資格なんてなかったのでは……

遥香

…………

ダレル

そんなふうに思い始めた彼は、いつしか大学を辞める選択肢も考えるようになりました。

ダレル

医師になることだけが、生きる道ではない。諦めて、無難な会社に就職するのも悪くないんじゃないだろうか。

ダレル

そうすれば、勉強が忙しくて律さんに寂しい思いをさせたり、心配をかけたりすることもない。

ダレル

それに、彼女は彼女で、家計のことで苦労しているのだ。

ダレル

自分がしっかりした所に就職して、彼女と一緒になれれば、少しは楽になるだろう。

ダレル

医師になれなかったとしても、彼女を支えながら一緒に生きていくのも、ひとつの道だ……

ダレル

そう思った青年は、婚約をするくらいの意気込みで、律さんに自分の気持ちを打ち明けたのです。

ダレル

ですが――

律の部屋

……ねえ、ちょっと待って。

あなたが、私との将来を真剣に考えてくれてるのは嬉しいけど……

それは、夢を諦める言い訳に、私を使ってるだけなんじゃない?

青年

えっ……

青年

……そんな、ことは……。現実的に考えて出した結論だよ。

青年

確かに努力が足りなくて、周りについていけなかったことは情けないと思ってる。

青年

このまま医師を目指せば、一人前になるまでには10年くらいかかるし、

青年

時間が経てばどんどん新しい技術や治療法も出てくるだろうから、ずっと学び続ける必要があるんだ。

青年

でも……こんなところでつまづいている私に、そんなふうに頑張り続けることができるのかと思うと……

青年

それに、医師は人の命を扱う仕事だ。知識や能力が足りなかった時に、失敗してしまったでは済まない。

青年

無理をして医者になっても、その後実力不足で、患者さんに何かしてしまったら……

青年

そう不安に思う気持ちは、否定できないよ。

青年

でも……夢を諦めたいから、嘘で君と一緒になりたいと言っているわけじゃないんだ。

青年

私は本当に、君を大事に思ってる。

青年

君の家族にも前に合わせてもらったけど、君に似て、とても素敵な人達だった。

青年

早めに堅実な職に就いて、君や、君の家族を支えることができるなら、

青年

私はそれはそれで、自分を誇れると思うんだ。

青年

医師になれなくても、君と一緒に生きる道なら、胸を張って歩けると思う。

…………

……ううん、やっぱり駄目よ。このまま医師を諦めるなんていけないわ。

青年

律……

貴方の気持ちを疑ってるとか、そういうわけじゃないの。

でも、金銭的に苦しんでる私がそばにいると、優しい貴方はどうしても気になっちゃうと思う。

だから……しばらく、距離を置いてみない?

青年

えっ……距離を置くって……

私のことは気にしなくていいから。

貴方の気持ちや、本当にやりたいことが何なのか、ちゃんと見つめ直してみてほしいの……

英国館バー店内

遥香

……律さんは、彼の申し出を断ったのね。

ダレル

ええ……青年は、その結果にかなり落ち込んだようです。

ダレル

逃げに見えてしまうだろうという自覚はあったものの、距離を置くと言われてしまい、

ダレル

『彼女に幻滅されてしまっただろうか』と不安でたまらなかった。

ダレル

それに、彼なりに必死に考えた結果、出した答えでしたからね。

ダレル

もう一度自分の気持ちややりたいことを見つめ直してみてと言われても、

ダレル

どうしていいかわからないとひどく悩んだそうです。

ダレル

それで勉強にもますます身が入らなくなってしまい、一時は本当に進級が危ないくらいだったみたいで……

遥香

……彼は、どうなってしまったの?

X・Y・Zのグラスを干すのも忘れた表情で、遥香さんが身を乗り出した。

もしかしたら――遥香さんは彼女の恋人だった『智也さん』と、話に出てくる『彼』を重ねているのかもしれない。

恋人のために援助をしようとして断られてしまい、そのことで信頼されていないと感じた智也さん。
恋人を支えて生きる道を否定され、悩み、落ち込んでいる青年。

遥香さんは失恋したとはいっても、お互い嫌いあって別れたわけじゃないから、自分の行動で智也さんを深く落ち込ませたのではと、彼のことが気がかりなのだろう。

ダレル

……青年は、自分ひとりでは答えを見つけられず、どうしていいのか迷っていました。

ダレル

そんな時に、彼の救いになったのが……

ダレル

この店と、遥香さんが今飲んでいる、そのカクテルなのです。

遥香

……えっ?

ダレル

実は……彼はある日、ふらりとこの『バー・ハイマート』を訪れたのですよ。

ダレル

どこか、故郷の雰囲気に似ていたから……と、そう言っていましたね。

ダレル

しかし落ち着いてお酒を楽しむ気持ちになれなかったのか、慣れないやけ酒をしようとしたのです。

遥香

……その時このお店にいたのは、マスター……じゃないわよね。

ダレル

ええ。その時のマスターはまだ私ではなく、今のオーナーが務めていましたからね。

ダレル

師匠は私などより、ずっと人の気持ちに鋭く、そして度量の大きい方です。

ダレル

やんわりと青年をたしなめ、さりげなく彼の悩みを聞き出し……

ダレル

そして、話を聞き終わった師匠が青年に奢ってくれたのが、その『X・Y・Z』だったのです。

英国館バー店内

青年

これは……

オーナー

『X・Y・Z』というカクテルですよ。どうぞ、飲んでみてください。

青年

はい……頂きます。

青年

…………!

青年

美味しい……です。レモンの酸味がさっぱりして……でも、味わい深さもあって。

オーナー

ありがとうございます。お口に合って良かった。

オーナー

このカクテル、不思議な名前でしょう。

青年

そうですね。『X・Y・Z』……

オーナー

X・Y・Zは、アルファベットの最後の3文字。つまり、この後には何もありません。

オーナー

そこから、『これ以上はもうない』……『究極の』『最高の』という意味があると言われています。

青年

へえ……! 究極、最高ですか……

オーナー

ええ。ですから、お客様にお出しする時はいつも以上に緊張するカクテルですね。

オーナー

自分でも店を閉めた後に時々、作って飲んでみることがあります。

オーナー

常に自分なりの『最高』を追い求める、その気持ちを忘れないようにするために。

青年

…………

青年

……自分なりの、最高……

オーナー

…………お客様。きっと貴方の恋人は、貴方に幻滅したわけでも、嫌いになったわけでもないと思いますよ。

オーナー

もし好きでなくなったのなら、距離を置くなどと言わずに、すぐ別れたのではないでしょうか。

オーナー

そして、嫌いではないけれど、貴方のことを深くは想っていない……そんな女性だったら、

オーナー

自分の生活が楽になると、貴方の話に一も二もなく飛びついていたでしょう。

オーナー

ですが恋人さんは、自分のことよりも、『貴方が本当はどうしたいのか』を優先して、考える時間をくださった。

オーナー

きっと、今貴方が諦めたら、必ず後悔すると思われたのではありませんか。

青年

……後悔、ですか。

オーナー

ええ。お客様はまだ、実際に落第したわけではありませんね。

オーナー

何かの事情から、どうしても医師になるのを諦めざるを得ない……というわけでもありませんね。

オーナー

お客様にできる『最高』を尽くした上でそれでも医師になれなかったというわけではなく、

オーナー

自分で自分に見切りをつけて、恋人を支える生き方を選ぼうとされている。

オーナー

決して、不幸な選択ではないと思います。お互いを思いやれば、幸せになれるのではないでしょうか。

オーナー

でも……それでも遠いいつか、お客様はこう思うかもしれません。

オーナー

もしあの時、諦めずに全力を尽くしていたらどうなったのだろう。

オーナー

もしかしたら医師になれていたのかもしれない。夢が叶っていたのかもしれない……

オーナー

もし本当に実力が足りずに医師になれなかったとしても、

オーナー

若いうちなら、その失敗は取り返しのつかないものにはならなかったはず。

オーナー

でも歳を取ってからでは、体力が必要な医師への道を再び目指すことは難しい。

オーナー

取れる選択肢は狭まり、今から『最高』を目指すことは難しい……

青年

……う……

オーナー

…………恋人さんは、そんなふうに貴方を後悔させたくなかったのではありませんか。

オーナー

貴方の提案をそのまま受け入れるのは、どんなに楽なことでしょうか。

オーナー

ですが恋人さんは、自分の生活の安定を顧みず、貴方の背を押してくれた。

オーナー

これがどういう意味か……わかりますか。

英国館バー店内

ダレル

……オーナーの質問に、彼は噛みしめるように呟きました。

ダレル

『律は、私を心から応援してくれているんだ』……と。

遥香

…………

バーの灯りが、X・Y・Zの水面でふわりときらめく。
じっと私の言葉の続きを待ってくれている遥香さんに、つい目許が和らいだ。

ダレル

そのことを悟った青年は、数日後、決意を持って律さんを呼び出しました。

ダレル

そして、こう告げたのです。

ダレル

『律。私達……別れよう』と。