英国館
~8話~

英国館バー店内

遥香

えっ……! ど、どうして……?

律さんの真意を悟った『彼』は、彼女に対して自分から、別れを切り出した……

そう告げると、遥香さんは驚きに目を丸くした。

遥香

律さんが彼を想ってくれているってわかっているのに……

ダレル

……わかっていたこそ、ですね。

ダレル

彼は彼女の想いを受けて一念発起し、再び本気で医師を目指そうと決意しました。

ダレル

ただ、人命を扱う大事な仕事だけに、無事に医学部を卒業し、医師免許を取得できたとしても、

ダレル

それではまだ医師として全く不十分で……

ダレル

一般的には、卒業から10年ほどでようやく『一人前』と見られるのです。

ダレル

6年間ある医学部を卒業してから10年も経てば、彼も彼女も30代前半になっている頃……

ダレル

しかもそうして一人前を目指して学んでいる間は、

ダレル

忙しくてとても、恋人としての時間を楽しむ余裕はありません。

遥香

あ……

ダレル

……青年のことを真剣に想い、背中を押してくれた律さん。

ダレル

彼女に心から感謝の気持ちを抱いたからこそ、彼は考えたのです。

ダレル

このまま恋人関係を続けていれば、律さんの20代から30代の貴重な時間を束縛してしまうことになる。

ダレル

もし新たな男性との出会いがあったとしても、彼女の性格からして、決して浮気などはできないでしょう。

ダレル

自分は律さんのために時間を使ってあげられないけれど、

ダレル

律さんには『一人前』になる日まで、自分だけを想い続けてほしい……

ダレル

さすがにそんな都合のいいことは言えない、けじめをつけるべきだ、と青年はそう決めたのです。

ダレル

ただ……彼は思っていることを全て律さんに伝え、彼女もそれを納得した上で受け入れてくれました。

ダレル

別れた、という形ではありましたが、お互いに気まずくなることもなく、

ダレル

その後も律さんは、変わらず青年を応援し続けてくれたのですよ。

遥香

……そうだったのね。

遥香

じゃあ……もしその彼が念願叶って『一人前』になれた時、お互いに恋人がいなかったら……

おずおずといった様子で尋ねる彼女は、返ってくる答えを予想していたのだと思う。
静かに首を振って、私は苦笑した。

ダレル

2人の恋人関係が終わりを告げてから、3年ほどが経った頃のことでした。

ダレル

律さんはご家族の事情で、遠方に住むご親戚の近くへと引っ越すことになったのです。

ダレル

それからも1年ほどは、たまに近況報告をするような関係が続いていたのですが……

ダレル

ある日彼女から、1通の手紙が届きました。

ダレル

そこには……とある男性に求婚され、そのプロポーズを受けた、と書いてあったのです。

遥香

…………プロポーズ……

ダレル

最初はお相手の方から彼女を気に入ったそうですが、

ダレル

真心からのアプローチを受け、優しい人柄を感じるうちに、律さんもだんだん彼に惹かれていったと……

ダレル

それにお相手は律さんのお家の事情も全てわかった上で、結婚を申し込んだのです。

『家族のことも考えて求婚を受けたことは確かだけれど、決して嫌々ではない』
『私は自分の選択を後悔していないから、貴方も後悔しない生き方をしてほしい』……

手紙の最後にはそう綴られていたことを伝えると、遥香さんは切なげに瞼を伏せる。

遥香

彼は……複雑な気持ちだったでしょうね。

ダレル

ええ、きっとそうだったと思います。寂しい気持ちがないとはとてもじゃないけど言えなくて……

ダレル

ですが、恋人でなくても、彼は律さんを1人の人間として尊敬し、素直に幸せになってほしいとも思っていました。

ダレル

だから、結婚おめでとうと祝福の手紙を返し……

ダレル

彼女の言葉の通り、自分も後悔しないように頑張ろうと、ますます医師としての勉強に力を入れました。

ダレル

そして無事、医学部を卒業して医師免許を取得することができたのです。

ダレル

もちろんその後にも、忙しさのあまり燃え尽きてしまう人も多いと言われる臨床研修が待っていましたが、

ダレル

一応ひとつの区切りはついたと、彼はほっと胸を撫で下ろしました。

ダレル

そして、あの時アドバイスをしてくれたオーナーにもお礼と報告をしようと、

ダレル

青年は数年ぶりに再び、この店を訪れたのです。

英国館バー店内

オーナー

医師免許を……! それは、おめでとうございます。

青年

ありがとうございます。ここまで頑張れたのは、オーナーのおかげでもあるんです。

青年

もう何年も前のことですからオーナーは覚えてらっしゃらないかもしれませんが、

青年

ここに来なければ、あのまま医師になることを諦めていたかもしれません。

オーナー

……覚えておりますよ、お客様。将来や、恋人さんとのことで悩まれていたお姿を。

オーナー

ですが私は大したことはしておりませんよ。ただ、お2人の気持ちをわかりやすく整理しただけです。

オーナー

不安や迷いで少しすれ違ってしまってはいたものの、貴方達の心は常にお互いを思いやっていましたし、

オーナー

何よりお客様自身の決意が本物でなければ、今の結果にはならなかったでしょう。

オーナー

お客様ご自身が、たゆまず努力されてきた成果です。本当に、おめでとうございます。

青年

……っ……、ありがとうございます!

オーナー

ふふ……そうだ、私からお祝いに、一杯サービスさせて頂きましょうか。

オーナー

シャンパン・カクテルなら、お祝い事にぴったりでしょう。

青年

えっ……すごくありがたいですけど、シャンパンって高いんじゃ……

オーナー

ああ、元は貰い物ですので、お気になさらないでください。

オーナー

それに先ほどは、『大したことはしていない』と言いましたし、それは本心でもありますが……

オーナー

それでもお客様にそう言ってもらえて、とても嬉しいという気持ちもあるのです。

青年

……マスター。

オーナー

私からのお祝いです。是非、遠慮なく受け取って頂けると嬉しいですね。

青年

ありがとうございます……。じゃあ、お願いします。

青年

それと……シャンパン・カクテルの後に、もう一杯作ってもらってもいいでしょうか。

青年

あの時と同じ、X・Y・Zを……

オーナー

……もちろんです。かしこまりました、お客様。

英国館バー店内

ダレル

そうやって、オーナーは快く青年をお祝いしてくれました。

ダレル

話が聞こえていた常連さん達も、まるで昔からの友人のように、おめでとうと言ってくれて……

ダレル

彼はとてもくつろいだ気分で、バーでの一時を楽しんでいたのです。

ダレル

しかしそんな時、ふとした話の流れから、オーナーがこんな言葉をこぼしたのです……

英国館バー店内

オーナー

しかし、確かこの後も初期研修が2年、後期研修も3年ほどあるのでしょう。

青年

よくご存知ですね。そうなんです、場合によってはもっとかかることもあって……

青年

免許を取ったといっても、まだまだこれからなんですよね。

青年

今まで以上に忙しくなるでしょうけど……少し時間ができたら、また、このお店に来たいな。

青年

専門医の資格が取れたら、今度は自費で、シャンパン・カクテルを作ってもらいますよ。

オーナー

はは……それは、とても光栄なのですが……

オーナー

お客様が一人前になられるまで、この店が続いているかどうかはわかりませんよ。

青年

…………えっ!?

オーナー

私ももう歳が歳ですから。何度か弟子も取ってみたのですが、どうも長続きしませんで……

オーナー

もう数年したら、引退しているかも。

青年

そ、そんな……

英国館バー店内

ダレル

あと数年で引退してしまうかもしれない……

ダレル

オーナーの言葉を聞いた青年は、自分でも驚くほどに動揺していました。

ダレル

律さんのことでアドバイスを貰った日からお店の雰囲気が変わっておらず、

ダレル

何となく、何年経ってもこのバーは変わらずここにあるだろう……という印象があったというのもあるでしょう。

ダレル

ですが一番大きな理由は……彼が無意識のうちに、そのバーに深い愛着を抱いていたからだと思います。

ダレル

たった2度しか訪れていないお店ですが、

ダレル

その優しい雰囲気や、お客さん達の穏やかな笑顔は、とても大切で守るべきものだと、彼は感じていました。

ダレル

つらい時、誰かに話を聞いてほしい時、温かく迎えてくれる場所。

ダレル

こういう場所をなくしてほしくないと思った青年は、気付けばオーナーへこう言っていたのです――

英国館バー店内

青年

待ってください、マスター。それは……弟子がいれば、バーを続けるということですか?

オーナー

え……?

オーナー

え、ええ。店を継いでくれる人がいるのなら、その人にバーを任せられるようになるまでは続けると思います。

オーナー

ですが、今さらそういう人が見つかるとは……

青年

私ではいけませんか。

オーナー

…………はい?

青年

もちろん、今すぐは無理ですが……

青年

後期研修を終え、私が無事に専門医となれたら、私を弟子にしてほしいんです。

青年

だから、それまでどうか、バーを続けていてくれませんか……!

オーナー

………………

オーナー

……………………はい?

英国館バー店内

ダレル

……まあ、オーナーがぽかんとしてしまったのも無理はありませんね。

ダレル

まだ医者としても駆け出しで、これから多忙な研修生活に入ろうという彼がそんなことを言い出したのですから。

ダレル

しかし青年としても、全くの考えなしだというわけではありませんでした。

ダレル

確かに一般的な医師のイメージはフルタイムの勤務でしょうが、

ダレル

午前中だけ、というような非常勤の勤務形態もあります。

ダレル

非常勤であれば、安定や保障の面では常勤に比べ劣りますが、時間はずっと自由に使えるようになるのです。

ダレル

そう説明すると、オーナーは『そうか、なら喜んで弟子にしてやる』と――

遥香

……言うわけがないわよね?

ダレル

あはは。鋭いですね、遥香さん。

遥香

あのオーナーが、そういう安請け合いはしそうにないもの。

ダレル

ええ……。青年は勢いだけで言ってしまっているのかもしれませんし、

ダレル

たとえ本気だったとしても、実力が足りず、医師と他の職の兼業などとても無理だとわかるかもしれません。

ダレル

だからオーナーは、今はそれより医師としての修行に励んだ方がいいと、青年の申し出を断ったのです。

ダレル

……ですが、彼は諦めませんでした。

ダレル

後悔しない生き方をする。自分なりの最高を目指す……

ダレル

胸に刻んだ言葉の通り、まずはがむしゃらに全力を尽くすことにしたのです。

ダレル

それから、月日はあっという間に過ぎて……

ダレル

彼が3度目にこのバーを訪れたのは、30歳になった年でした。

英国館バー店内

青年

……良かった……

青年

良かった、まだこのお店があって、マスターがいらして……

青年

時々お店の近くを通る時は、潰れてやしないかとドキドキしていたんです。

オーナー

全く、久しぶりのご来店だというのにあまりなお言葉ですね。これでも案外繁盛しているのですが。

青年

す、すみません。嬉しさのあまり口が滑りました。

青年

……私を待っていてくれたんですよね?

オーナー

とりあえず続けられるだけはやってみようと思ったまでです。

オーナー

予想より老舗になってしまって、早めに隠居して盆栽をいじるという人生設計が狂ったのは困りものですが……

オーナー

……さて、お客様。

オーナー

カクテルか料理を注文なさいますか?

オーナー

それとも……ロクな給料もなく、私に叱られながら、グラス磨きから始めますか?

英国館バー店内

ダレル

オーナーの問いに、彼は迷いなく弟子入りの道を選び……

ダレル

そうしてどうにかこうにか、医師とバーテンダーを兼業するようになったというわけです。

おかしそうに肩を揺らし、片目を閉じて笑う。

遥香

なるほどね……聞かせてくれてありがとう。

遥香

そんなふうに頑張って、その彼は……

遥香

マスターは、ここのお店を継いだのね。