英国館
~6話~

英国館バー店内

ダレル

私からもひとつ、長話をさせて頂いてもよろしいでしょうか。

ダレル

遥香さんと同じように、相手を思っているのにすれ違ってしまった……

ダレル

昔のことですが、そんな青年の話を知っているんです。

遥香

……へえ?

私の言葉に遥香さんは微笑んで、アイスブレーカーの入ったグラスを傾ける。

遥香

聞いてみたいわ。マスターの話はいつも面白いもの。

ダレル

ありがとうございます。では……

私も自分のアイスブレーカーで唇を湿らせ、懐かしい頃を思い出しながら、話を始めた。

ダレル

ある所に、1人の男性医師がいました。

ダレル

彼はいつでも真摯に治療を行い、その誠実さから、患者さん達からも好かれていたのです。

ダレル

ですから……彼の一人息子もいつしか自然と、こう思うようになりました。

ダレル

自分も父のように、苦しんでいる人の痛みを和らげ、笑顔にしたい……

ダレル

自分も将来、医者になりたい、と。

遥香

……素敵な理由ね。本当にそう思うわ。

からん、とグラスの中で氷が音を立てる。
綺麗な双眸(そうぼう)を細めた彼女に、私も笑って頷いてみせた。

ダレル

彼が父の背中に憧れ、医者を志したのはまだ子供の頃でしたが、

ダレル

だからこそ、『人のために何かしたい』という気持ちは強く……純粋だったのかもしれませんね。

ダレル

そして彼は必死に勉強に打ち込み、青年となった頃、無事に大学の医学部へ入学することができました。

ダレル

念願の医学部生活は、何もかも新鮮で……

ダレル

もちろん勉強は大変でしたが、友人もでき、とても充実していたそうです。

遥香

だったら、彼女とかもすぐにできちゃったり?

ダレル

……だと良かったのですがね。

ダレル

それまでは勉強一辺倒だったこともあって、あまり女性と接する機会がなく、

ダレル

彼は恋愛事に関して、少し尻込みしてしまっていたのですよ。

ダレル

それまでも、全く女性とのお付き合いがなかったわけではないのですが……

ダレル

せっかく仲良くなっても、勉強で忙しくろくにデートもできないのでは、相手の女性も愛想をつかしてしまいまして。

遥香

それで、振られてばっかり……っていう感じかしら。

ダレル

可哀想なことに、そうだったのですよねえ……

ダレル

ただ、そうは言ってもまだ大学に入学したてで若さが有り余っているわけです。

ダレル

青年は特に焦ることもなく、友人達と『まあこれから色々チャンスはあるよ』と、笑って話していました。

ダレル

実は私も、その友人達のひとりでして。彼に出会いがあるといいなと思っていたのですが……

ダレル

入学から1年ほどが経つある日に、その『出会い』はやってきたのです。

ダレル

それは、附属の大学病院で病棟実習をしている時のことでした――

病院廊下

青年

ん……? あれは……

友人

おっ、どうした?

青年

あそこでしゃがんでる女の人、顔色がかなり悪い。ちょっと声かけてくるよ。

青年

悪いけど、先行って先生に、少し遅れるかもって伝えといてくれるか?

友人

ああ、わかった。

青年

あの……すみません。具合が悪いようですが、大丈夫ですか?

???

……っあ……

???

ご、ごめんなさい、ご心配をかけてしまって。

???

もう大丈――……っ…

青年

おっと、無理してはだめですよ!目眩があるなら、急に動かない方がいい。

青年

こちらに来院されるのは始めてですか?それとも、お見舞いの方……?

???

い、いえ、私、患者さんとかじゃないんです。

???

私、野崎 律って言います。ここで事務のアルバイトをしてて……

青年

えっ……この病院で?

はい。内科の先生に書類を届けるように言われてたので、行かないと。

青年

ちょ、ちょっと待ってください。ここで働いてる人でも何でも、具合を悪くしてたら放っておけませんよ。

青年

その書類は、急ぎで今すぐ届けなくてはいけないものですか?

いえ、そういうわけでは……

青年

なら、しばらく休んでいてください。見たところ貧血のようですし……そこのベンチを借りましょう。

……はい……

英国館バー店内

ダレル

そうして彼は、その律さんを安静にさせ、

ダレル

簡単に容態を確認したり、温かい飲み物を渡したりしました。

ダレル

彼女自身、疲れや寝不足気味で貧血になっているという自覚はありましたから、大騒ぎはしませんでしたがね。

ダレル

それに律さんの戻りが遅いのを気にした他の事務員さんが来てくれたので、

ダレル

青年は事務員さんに律さんを任せ、実習へと戻っていきました。

遥香

……でも、もちろんそれでおしまい……じゃないのよね?

ダレル

ええ。次に彼らが再会したのは、数日後のことでした。

ダレル

病院内で会った時に、彼は名札をつけていましたからね。実習生だということもわかっていましたし、

ダレル

彼とどうすれば会えるか、人に聞けばすぐにわかったようです。

ダレル

それで……律さんはこの前のお礼だと、青年を喫茶店に誘ってくれたのです。

カフェ

この間はありがとうございました。おかげで助かりました。

青年

い、いえ……そんな、大したことは。

青年

あっ、でも、あの後はちゃんとした医者に診てもらいましたか?

ダレル

他の病気が原因となって貧血症状が出ていた、という可能性もありますからね。

それは大丈夫です。前にお医者さんに診てもらったけど、特に悪い病気ではないみたいでしたから。

この前のことも、単に疲れが重なってたのと、立ちっぱなしだったのが悪かったんだと思います。

青年

…………

青年

その……会ったばかりの私が差し出がましいとは思うんですが、やっぱり心配ですよ。

え……?

青年

今日も顔色があまり良くないですし……それに、何だか疲れから来る体調不良なんて慣れっこ、という感じで。

青年

もうしょうがないんだって、諦めてるような気がして……

……それは……

青年

……! いえ……本当に、事情も知らないのに勝手なことを言ってすみません。

青年

ただ『このくらい平気だ、我慢できる』と体の悲鳴を軽視していると、重篤な結果を招くことが……

青年

…………

……? あの……?

青年

……うぅん、これじゃ脅しているみたいですね。怒りたいわけでも、怯えさせたいわけでもないんですが。

…………

青年

えーと……私はまだ医師免許も持っていない身ですから、偉そうには言えないのですが……

青年

父が医者で、病院にも出入りしていたので、患者さん達を近くで見る機会はたくさんありました。

青年

病状の軽い方もいれば、治る見込みがなく、ご自分の余命をわかっている方もいて……

青年

でも……どんな方でも、『今日はいつもより調子がいい』なんて時の笑顔は、同じなんです。

青年

私はそんな、一生懸命生きている人々の明るい笑顔を見るのが、とても好きでした。

青年

私達は神様じゃありませんから、いつか必ず死がやってくるし、力及ばず病気を治せないこともある。

青年

でも、それでも、できることはあるんだと。

青年

少しでも苦しみや痛みを和らげ、頑張っている人々を笑顔にするお手伝いができるのだと……

青年

そう思えたんです。

青年

だから野崎さんも、症状が重くないからとか、慣れているからとかで、不調を見過ごさないでください。

青年

月並みな言葉ですが、自分を大事にしてほしいんです。

青年

もし私にアドバイスできることがあれば、いつでも相談に乗りますから。

………………

青年

…………はっ……!

青年

あ……す、すみません!何だか勝手にべらべらと、馴れ馴れしいことを……

……いえ……

青年

私が相手なら無料だというだけで、そのかかりつけのお医者さんに相談できるならそれが一番ですし。

青年

別に、お近づきになりたいとかいう下心ではないんですよ。

青年

……あ、野崎さんとお近づきになりたくないとかいう意味ではなくてですね……!

……ふふっ……

わかってますよ。……ありがとうございます。

心配してもらえて……嬉しいです。

英国館バー店内

ダレル

……と、そんなやり取りをきっかけに、彼と彼女は親しくなっていったのです。

ダレル

これはしばらく経ってから彼女が話してくれたそうなのですが……

ダレル

律さんは早くにお父様を亡くし、お母様も病気がちだったようなのです。

ダレル

そのため家計が苦しく、それを補うために、

ダレル

大学病院での事務も含め、アルバイトを掛け持ちしていたみたいですね。

遥香

ああ……それで、体調が悪くなるほど忙しくなってしまったのね。

ダレル

ええ。それに律さんには弟さんがいらして、彼のためにもお金を用意する必要があったそうです。

ダレル

弟さんはとても頭が良く、弁護士を目指していたそうですが、

ダレル

家庭の状況を省みて、大学進学は諦める、と言い出したんです。

ダレル

ですが彼女は自分が弟さんの分まで働くから夢を諦めるなと、それを止めた、と……

遥香

……すごく立派な人だったのね。

ダレル

ええ、とても……

ゆっくりと話している間に、私のグラスも遥香さんのグラスも、空になりかけていた。
最後の1口分を飲み干して、彼女がそっと息をつく。

遥香

それで、いつしか2人は付き合うようになった……ってことかしら。

遥香

『彼』も『律さん』もしっかりした目標を持って、頑張っている2人みたいだから、

遥香

それでお互いに惹かれ合うのは、当然って気がするわ。

ダレル

はは……ですが、彼の方はやはり奥手だったものでして。

ダレル

私達友人も、もっと積極的にいけ、デートに誘ってみろ、なんて背を押したりしましたよ。

遥香

……ふぅん……

ちらりと好奇心を瞳に覗かせ、彼女が首を傾げた。

遥香

それで、2人はどうなったの?

ダレル

そうですね……

ダレル

話の続きをする前に、『アイスブレーカー』も飲み終えたことですし、

ダレル

サービスでもう一杯いかがでしょうか。

遥香

いいの? なら、ありがたく頂こうかしら。

ダレル

かしこまりました。少々お待ちくださいね。

私は一礼すると、手早く1杯分のカクテルを作り上げた。

ダレル

……どうぞ。『X・Y・Z』でございます。

遥香

ありがとう。柔らかな白がとっても綺麗なカクテルね。

遥香

……! 美味しい……

思わず、といった様子でこぼれた遥香さんの声からは、その言葉がお世辞ではないことが伝わってくる。
ほっとして、私は頬を緩めた。

ダレル

……それでは、先ほどの続きをお話しさせて頂きましょう。

ダレル

大学病院で出会ったことをきっかけに仲良くなり、いつしか恋人同士となった2人……

ダレル

……しかし、そんな楽しい日々も、そう長くは続かなかったのです。