英国館
~9話~

英国館バー店内

遥香

なるほどね……聞かせてくれてありがとう。

遥香

そんなふうに頑張って、その彼は……マスターは、ここのお店を継いだのね。

ダレル

おや……

ダレル

私自身の話だと、バレてしまいましたか。

とぼけた私に頬を緩めて、彼女はX・Y・Zの残りをくいっと飲み干した。

遥香

そりゃあわかるわよ。お医者さんとバーのマスターを兼業してる人なんて、そうそういないでしょうし。

遥香

……失恋した私を励まそうとして、自分の失恋話を教えてくれたのね。

遥香

言いづらいこともあったと思うのに、色々話してくれて……ありがとう。

ダレル

いえいえ、本当に不器用で、どうすることが自分や相手のためになるのかもわかっていなくて……

ダレル

情けない、若造の失敗談です。ほんの暇つぶしにでもなっていれば幸いですよ。

遥香

失敗談……だったかしら。

ダレル

……少なくとも、律さんのことに関しては、私が悪かったんです。

ダレル

私が律さんの気持ちも知らずに、医師を諦めることがお互いにとって一番だなどと考えなければ、

ダレル

きっと、距離を置くようなことにはならなかったでしょう。

ダレル

それに、医師を目指すと改めて決意した後も、

ダレル

『何がなんでも幸せにするから、一人前になるまで待っていてくれ』と言えていれば……

ダレル

もしかしたら、律さんは頷いてくれたかもしれません。

ダレル

ですが、私には自信がなかったのです。自分こそが彼女を世界一幸せにできるという自信が。

ダレル

待たせるのは彼女に失礼だ、迷惑だと、その気持ちばかりが強かった。

遥香

…………

ダレル

……それでも私は、その選択が間違いだったとは思いません。

ダレル

律さんは優しい伴侶を得て、家族と一緒に幸せに暮らしている。

ダレル

私も紆余曲折はあれど、今の生き方をとても気に入っていますから。

遥香

……ええ。マスター、とっても充実してるように見えるわ。

ふと遥香さんが、からかうような笑みを口許へ浮かべる。

遥香

マスター。もしかして、今でも律さんのことが好きだったりするの?

ダレル

いいえ。

滑り出た声は、自分でも穏やかだな、と思うものだった。

彼女と別れた過去の上にある、今の自分を否定しない。
後悔はなかった。

ダレル

人間としては、もちろん今でも尊敬しています。ですが、未練はありませんよ。

遥香

……そう……

遥香

でもマスター、もう『一人前』のお医者さんになってからも、結構経つのよね。

遥香

新しい恋を探したりはしないの?

遥香さんの視線は、興味本位というには何だか真面目なものを感じる。
少し不思議な感覚を抱きつつも、ゆっくり首を横に振った。

ダレル

確かに医師として、私はある程度の経験を積んできました。

ダレル

ですが今でも、まだまだだな……と気付かされることは多いのですよ。

ダレル

医師はただ病気を治せる技術や知識があればいいというものではなく、

ダレル

いかに患者さん達の気持ちを汲み取り、信頼関係を築くか……そこも大事です。

ダレル

そういう部分では、バーテンダーも同じですね。

遥香

……ただ美味しいお酒が作れればいい、ってだけじゃなくて……

ダレル

そう、お客様との触れ合いも、大事なお仕事のひとつです。

ダレル

特にバーテンダーとして働いていると、近くにオーナーという『理想』がいることで、

ダレル

自分の足りない点がよくわかってきた気がします。

ダレル

何かの相談を受けて、私が良かれと思って提案したことが、お客様にとってはすごく的外れだったり。

ダレル

こうするのが一番だ! と思い込んでいたことが、逆に相手を傷付けて、気持ちが伝わっていなかったり……

遥香

…………

ダレル

ふふ……元から、単純で、要領が悪い質なんでしょうね。我ながら不器用だと思います。

ダレル

だから自分でも『二足のわらじ』とは言っていますが、全く別の仕事を器用に両立しているわけではないんです。

ダレル

目指すことは、どちらも同じ。どうすれば、少しでも笑顔を増やせるか……。

ダレル

その目標を掲げて、私は今もまだ、医者としてもバーテンダーとしても修行の身というわけです。

ダレル

胸を張って再び恋に落ちることができるのは、いつになることやら、ですね。

冗談めかした私に、遥香さんは笑わなかった。
どこか真面目な面持ちになって、ぽつりと呟く。

遥香

ねえ、マスター。私ね……

遥香

話を聞きながら最初、私と律さんは似てるかもって思ってたの。

ダレル

……それはどういう部分で、ですか?

遥香

経済的に苦しくて、でも恋人からの援助を断ったり……とか。

遥香

そういう重なる部分があるから、この話をしてくれたのかなって。

遥香

でも、最後まで聞いたら、だんだんこう思うようになったわ。

遥香

本当は私、マスターに似てるんじゃないかしら、って。

そこで彼女は、悪戯っぽい笑みをちょっとだけ滲ませた。
空になったグラスを顔の前に掲げて、きらめくガラス越しに、私を見つめる。

遥香

律さんと私はきっと違うわ。確かに状況は似ていても……律さんの方が、ずっと立派。

遥香

私が智也さんからの援助を断ったのは、それは甘えで、絶対相手の迷惑になるって思い込んでいたからだし、

遥香

私のためにできた借金なんだから、人の手を借りたくないって、意固地になってた部分もあるのかも。

遥香

でも律さんは、そういう自分だけの都合とか意地じゃなくて、本当に、マスターのことを想っていたのよね。

遥香

目先のことだけじゃなくて、何年も先になってから、この選択を後悔しないかどうかと考えて……

遥香

私はそんなふうに意識したことはなかったわ。

遥香

智也さんは優しい人だから、援助すると言ってくれるんだろう。でも必要ないから大丈夫。

遥香

そんなふうに軽く断って、彼がどんな気持ちでいるのか、深く考えもしなかった。

遥香

彼を恨んだりする気持ちは元から全然なかったけど、

遥香

でも、これが私の生き方なのにわかってもらえなかった、理解してくれる人はいないのかな……って感じたわ。

遥香

だけど、私からももっと歩み寄るべきだったかもしれない。

遥香

今すぐに、どうすべきだったなんて答えは出ないけど……

遥香

でも、自分だけが正しい、わかってもらえなくても仕方ないなんて思ってたら、いけないわよね。

ダレル

(遥香さん……)

変に慰める必要はないかな、と思った。
彼女は強い人だ。悲しんだり落ち込んだりすることはあっても、それをちゃんと糧にできる。

ダレル

じゃあ……

ダレル

遥香さんもまだ修行中で、これからもっと素敵な女性になっていくということかもしれませんね。

遥香

……ふふ、修行中か。

遥香

そうね。だったら、私も――

――それから、数カ月後。

オフィス

チーフ

遥香くん、ちょっといいかなぁ。

遥香

……チーフがそういう声を出す時は、悪いニュースですよね。何ですか?

私は相変わらず、会社でいつものように仕事をしていた。
キーボードを叩く手を止めて見上げると、チーフは困ったように頬をかく。

チーフ

へへへ。いやー実は先方から、ノベルティの件でまた仕様変更の依頼があってさ。

チーフ

データ作り直しとまではいかないんだけど、ちょこちょこ色味とかいじってもらう必要があるんだよ。

チーフ

もちろんペナルティで追加料金は貰うし、納期も都合つけてもらうから。

遥香

ふー……わかりました。この後詳細を確認させてもらいますね。

チーフ

ごほごほ……いつもすまないねえ。

遥香

それは言わない約束でしょ、おとっつあん。

同僚

おっ、また何かクライアントさんから無茶振りされたんすか。

遥香

う~ん……まあ、向こうもなるべくいいものにしたいって熱意を持ってはいるんだけどね。

遥香

お金や期間も融通利かせてもらえるみたいだし、とりあえず頑張ってみましょうか。

遥香

(……そう。マスターと約束したもの)

遥香

(私も自分なりの最高を目指して、全力を尽くさないとね)

英国館バー店内

遥香

……ふふ、修行中か。

遥香

そうね。だったら、私も――まだ未熟者だから。

遥香

マスターと同じように、修行と思って、しばらく新しい恋を探すのはやめておくわ。

遥香

無理をする気はないけど、まずは仕事に打ち込んで、ちゃんと借金を返して……

遥香

そうやっていくうちに、私も自分を見つめ直して、何が悪かったか気付けるような気がするの。

遥香

そうなったら、改めて、成長した私を見せにくるわね。

ダレル

……ええ、頑張ってください、遥香さん。

ダレル

私はいつでも、遥香さんを応援していますから。またお会いできるのを楽しみにしていますよ。

オフィス

……そうマスターに告げたあの日から、私は仕事に集中するため、英国館を訪れていなかった。

だけど仕事仲間に『バー・ハイマート』をお勧めすることはよくあったし、彼らから、マスターの様子が聞こえてくることはしょっちゅうだ。

三好

遥香さん。この前バーに行ってきたんですけど、先生、遥香さんのこと気にしてましたよ。

病院で会った時の印象が強いのか、今でも彼を『先生』と呼びながら、三好さんはにこにこしている。

三好

元気に仕事をバリバリこなしてますよって言ったら、そっかーって嬉しそうで。

三好

そしたら近くの常連さんが『マスター、遥香ちゃんの話ちょくちょくしてるよね』なんてからかったんです。

三好

先生、ちょっと照れて、慌てたりしちゃってましたよ。

遥香

ふふっ……そうなんだ。

遥香

(……本当に、応援してくれてるのね)

北野坂

遥香

それじゃ行きましょうか、三好さん。

三好

はい! 打ち合わせは3時からですし、急がなくても間に合いそうですね。

遥香

そうね。

歩き出そうとして、ふと私は近くのお店に目を留めた。
見ていたのはそこの商品じゃなくて……ショーウィンドウに映る、自分自身。

遥香

(……うん。ちゃんと、明るい顔ができてる)

失恋の傷を引きずることなく前に進むことができていると、そう思う。

遥香

(智也さんのことだって……今冷静に考えれば、気持ちがわかるわ)

遥香

(そばにいる人に頼ってもらえないって、寂しいことよね……)

たとえば、三好さん。
彼女は私の後輩だから、私が何かを教えたりフォローすることもあるけれど、それを『迷惑をかけられている』と思うことはない。

むしろ、相談してもらえなかったり1人だけで完璧にやろうとされたら、『何のために私がいるの!』なんて感じるんじゃないだろうか。

遥香

(でも私は、自分の問題だからって、智也さんに愚痴を言うこともしなかった)

遥香

(それは彼に寄りかかって、迷惑をかけることだって思ってた)

遥香

(もし彼に何か困ったことがあったら、私は迷惑だなんて言わずに、助けてあげたいと考えたはずなのにね)

遥香

(そのことに気付かないで……私は差し伸べられた手を、何度も振り払ってたんだわ)

援助してもらうかどうかは別にしても、彼の気持ちを真剣に受け止めていれば、あんな別れはなかったかもしれない。

遥香

(……後悔はあるけど、未練はないわ)

遥香

(智也さんに教えてもらったことを心に刻んで……次は後悔しない選択ができるようにしないと)

三好

……先輩?

遥香

あっ……ごめんなさい、立ち止まってぼーっとしちゃってたわね。駅に向かいましょうか。

三好

はい!

遥香

……三好さん。

三好

……? 何ですか?

遥香

三好さんは、すごく頑張ってくれてる。めきめき力をつけてきてるわね。

三好

えっ……ど、どうしたんですか、急に。

遥香

うーん……ちゃんと伝えておきたいなって思って。

遥香

これから、私の方が助けられることもあると思うし……

遥香

今まで通りに、三好さんに頼ってもらうこともあると思うの。

遥香

そうやって、一緒に頑張っていきたいなって、ふっと思ったのよ。

三好

そ、そうなんですか?

三好

……えへへ、ありがとうございます。遥香さんは入社以来、ずっと私の憧れでしたから。

三好

そう言ってもらえて、すごく嬉しいな……。

――そんな私達を、向かい側の道から見つめる温かい眼差しがあったことには気付かずに。

ダレル

良かった……遥香さんは有言実行の人ですね。

ダレル

さて……彼女がまた店を訪ねてきてくれた時に恥ずかしくないよう、

ダレル

私も腕を磨かないとですね……!