英国館
~5話~

英国館バー店内

遥香

そんなに大げさな話じゃないのよ。

遥香

ただ……私が、智也さんにフラれてしまっただけだから。

ダレル

…………

マスターは大げさに同情するでもなく、無理に先を促すでもなく、私が先を続けるのを、静かに待っていてくれた。

遥香

……どこから話したらいいか、ちょっと悩んでしまうわね。

ダレル

時間は気にしないで構いませんよ。朝までだって、お付き合いしますから。

遥香

ふふ……ありがとう。じゃあ、最初から話すわ。

遥香

実はね。私、今はこうして元気にしてるけど……

遥香

生まれつき、先天性の心疾患があったそうなの。

遥香

しかも、異状が一箇所だけじゃなくて……ひとつひとつはそこまで重大なものじゃなかったみたいだけど、

遥香

疾患が組み合わさってるせいで治療が難しかったり、何回も手術をしなくちゃいけなかったんだって。

ダレル

……それは、本当に大変だったでしょうね。遥香さんはもちろん、ご家族の方々も。

遥香

ええ……。何度も入院しなきゃいけなかったし、小学校では休みがちで、体育の授業もほとんど見学だった。

遥香

そういう学校行事になかなか参加できなかったから、絵が好きだったのもあって、

遥香

運動会のポスターとか、修学旅行のしおりの表紙とか……色々描かせてもらってたわ。

遥香

デザインの道に進んだのは、そんな経験のおかげでもあるかもね。

遥香

それで、両親は……

遥香

……私の母はね、私が小学校に上がる前に亡くなってしまったの。

ダレル

…………

遥香

そもそも、母は心臓が弱い家系だったのよ。

遥香

出産の後から、日常生活には支障がない程度だった心疾患が、悪化してしまったんだって。

遥香

その後父は、男手ひとつで私を育ててくれたわ。

遥香

私の世話もしなきゃいけないし、治療費を稼ぐために仕事もしなきゃいけないし……

遥香

死に物狂いだったと思う。特に裕福じゃない、ごく普通の一般家庭だったもの。

遥香

でも、父は祖父母や親戚にあちこち頭を下げて、借金までして、私に先進医療を受けさせてくれたのよ。

遥香

それで、無事に手術も成功して、高校卒業頃には、もう完治と思っていいってお医者さんに言われて……

遥香

それを見届けて安心したみたいに、父まで、亡くなってしまったわ。

ダレル

…………

マスターは少し驚いた表情で、唇を結んでいる。
私は大丈夫、と言うように、ちょっと微笑んでみせた。

遥香

治療費を稼いでいた頃の無理がたたって、体調を崩しがちだったんだけど……

遥香

会社で倒れて、そのまま……だったから、やっぱり突然に感じてしまったわね。

遥香

兄妹もいなかったから、急にひとりぼっちになったみたいで。

遥香

私が生まれたから、母も父も死んでしまったんだって……そう落ち込んだこともあったわ。

遥香

でもね……祖父母や親戚が、アルバムを見せたりして教えてくれたの。

遥香

お前の父さんと母さんは、お前が生まれて本当に幸せだと、いつも言ってたって。

遥香

ほら、母さんは赤ちゃんのお前を抱いて、こんなに幸せそうに笑ってる。

遥香

こっちの写真では、高校の制服を着たお前を見て、父さんが嬉しくて男泣きしてる。

遥香

大事に育てた娘が、『私のせいで両親が死んだ』と自分を責めて、母さんと父さんが喜ぶと思うか、って。

遥香

『私のせいで両親が』じゃなく、『両親のおかげで自分が』って考えて感謝しなさい、って言われたの。

ダレル

……遥香さんは、周囲に恵まれていたのですね。

遥香

ええ、本当にそう思うわ。

遥香

父が亡くなった時、私は大学に入ったばかりだったんだけど、

遥香

みんなは学費も気にしなくていい、治療費を借金した分も、返さなくて構わないとまで言ってくれたわ。

遥香

でも、周りが優しかったからこそ、私もきちんと立ち直れたし、

遥香

いつまでも悲しみを引きずってちゃいけない、頑張らなくちゃって思ったのよ。

遥香

大学の方は奨学金もあったし、アルバイトでも必要なお金は賄えたわ。

遥香

だから……借金も、ちゃんと返すって皆には言ったの。

遥香

だって、父はそのお金を借りる時に、『絶対に返す』って約束したんだから。

遥香

父は本当に誠実で、まっすぐな人だったわ。

遥香

私の病状が重かった小学生の時にも、『父さんが絶対に遥香を助けるからな』って約束してくれて……

遥香

命をかけて、それを守ってくれた。

ダレル

…………

遥香

だから、そんな父がした約束を、私が守りたいの。

遥香

それにね、父だってコツコツ返してたんだから、法外な額ってわけじゃないのよ。

遥香

無利子だし、無期限だし……これで甘えて『じゃあ返しません』なんて言ったら、罰が当たるわ。

遥香

実際、しっかり節約して生活していれば、後1年くらいで返せる予定なのよ。

遥香

だから、『借金』っていうとすごく重いイメージがあるかもしれないけど、

遥香

私自身は、重荷に感じてたわけじゃないの。

遥香

むしろ、両親や私のために手を差し伸べてくれた人達への感謝の気持ちしかなかったわ。

遥香

でも……

遥香

彼……智也さんは、私がひとりで大変な思いをしてるって感じたみたいで……

少しぬるくなったホットグラス。
それでもその温かさへ縋るように、両手できゅっと包み込んだ。

遥香

何度も言ってくれてたの。遊びも切り詰めて毎日遅くまで仕事をして、お金を返すのは大変だろう、

遥香

僕にも援助させてほしいって。

遥香

でも、私はその度にこう返したわ。

遥香

仕事も返済も嫌々やってるわけじゃないし、息抜きも体調管理もちゃんとしてるから大丈夫。

遥香

それに、智也さんの厚意に甘えたり、迷惑をかけたりしたくないの……って。

遥香

…………智也さんは穏やかで優しい人だから、断ったからって怒ったりしなかったわ。

遥香

だから私も、たまに心配はされても、わかってもらえてると思ったの。

遥香

……でも、彼にとっては、『必要とされていない』、『頼りにされていない』って感じたみたいで。

遥香

『僕が君のそばにいる意味はあるのか』って……別れを切りだされてしまったのよ。

ダレル

……………………

遥香

だけど私、ちゃんと働いてるし、病気だって治ってるわ。

遥香

お金を稼げない状態とか、精一杯やったけど足りなかったとかならともかく、

遥香

自分で返せる宛てがあるのに人を頼るっていう気持ちにはなれなくて……

遥香

たとえお金を返し終わってたって、私はちゃんと働いて自立していたいの。

遥香

こういう性格だから、可愛くないって思われてしまったのかもしれないけど……

遥香

私、智也さんが頼りないから援助を断ったとか、

遥香

智也さんを必要としていなかったとか……決して、そういうつもりじゃなかったのよ。

ダレル

……ええ、わかります。

柔らかな声に、自然と視線が上がった。

ホット・バタード・ラムにもう一度口を付けて、頬を緩める。
ふうっとこぼれたため息は、暗いものではなかった。

遥香

……ごめんなさい、長々と愚痴なんて聞かせてしまって。

遥香

でも、包み隠さずに話したから、少しすっきりした気がするわ。ありがとう、マスター。

ダレル

いえいえ……。でも、吐き出すだけでも、楽になることはありますからね。お役に立てたなら良かった。

遥香

うん、マスターがいてくれて助かったわ。こんな時間に家族や友達に電話するのも何だしね。

ダレル

その点、私は夜の男ですから。徹夜も夜更かしもどんとこいです。

遥香

ふふ……

両親が亡くなったこと、小さい頃の病気のこと、借金のこと。

別に秘密にしているわけじゃないけど、相手に気を遣わせてしまうから、よほど親しい人にじゃないと打ち明けたことのない話だった。

でも、マスターはいつも通りに接してくれて、気が楽になる。

遥香

……本当にありがとう、マスター。

遥香

そうだ。貸し切りにしてくれたお礼に、良かったら私のおごりで、マスターも何か飲んで。

ダレル

おや、いいのですか?

遥香

ええ。私の借金が増えるほどの値段じゃなければ、何でもいいわ。

ダレル

はは……では、お言葉に甘えて私も飲ませていただきましょうか。

ダレル

いえ、お代は結構ですよ。遥香さんにもサービスで同じものをお出しします。

ダレル

少々お待ちくださいね。う~ん……

彼は短い間バックバーを眺めて、何を作ろうか考えているようだった。

ダレル

……よし。あれにしましょう。

ダレル

エラドゥーラと、コアントローと……

一通り材料を取り出すと、マスターは早速カクテルを作り始めた。

遥香

(あ……これはシェークで作るのね)

シェーク――というのは『バーテンダー』と聞いた時によくイメージされる、シェーカーという銀色の容器へ材料を入れ、それを振ってカクテルを作る方法のことだ。

ただ、1年通っているとさすがに基礎的な知識くらいはついたものの、彼が何というカクテルを作ろうとしているのかまでは、さっぱりわからない。

遥香

(……でも、こうやって何ができるのかなって待ってるのも、楽しいのよね)

遥香

(…………あ……)

遥香

(シェーカーの振り方も、前と……オーナーと、違うような……)

オーナーもそうだけど、彼らはあまり大きな音をさせず、しなやかにシェークする。

その印象は今も変わっていないけれど、以前に比べると少し、動作が大きめになっているような気がした。

私がじっと観察してしまっているのに気付いてちょっとはにかみつつ、マスターが手を止め、2つ並べたオールドファッショングラスへ、シェーカーから淡いピンク色のカクテルを注いだ。

ダレル

どうぞ、『アイスブレーカー』です。

遥香

ありがとう! 綺麗な色ね。それに、フルーティでいい香り。

ダレル

元の配合から、グレープフルーツジュースをかなり増やしてありますから。

ダレル

度数は下げているので、安心してお飲みください。

遥香

……あはは。悪かったわ。最初に強いお酒、なんて言って。

ダレル

本当ですよ。完治したとはいえ心疾患をお持ちだった方に、強いお酒などを出せません。

遥香

ごめんなさい、軽率だったわ。

遥香

……でも、今考えると、マスターなら止めてくれると思ったから、あんなふうに言ったのかも。

遥香

フラレて傷付いてた割に、冷静だったのかしら、私。

遥香

そう思うと、私ってやっぱり可愛げがないし、冷たいわよね……

ダレル

……あまり自分を卑下する必要はありませんよ、遥香さん。

ダレル

前にも言ったではありませんか。遥香さんは素敵な女性ですよ、と。私は嘘をつきませんよ。

遥香

……そう?

ダレル

そうなのです。ほら、暗い顔をしていないで、乾杯しましょう。

遥香

あっ……そうね。せっかく作ってもらったカクテルが温まっちゃうわ。

軽くグラス同士を触れ合わせてから、ピンク色のお酒に口をつける。

遥香

……美味しい! 好みの味だわ。

ダレル

ありがとうございます。その笑顔が一番の報酬ですね。

そう言って彼も、グラスを傾ける。

考えてみればマスターはいつも忙しそうで、のんびりお酒を飲んでいる姿なんて見た事がなかったから、何となく不思議な感じだ。

ダレル

……このカクテルの名前、『アイスブレーカー』というのはですね、

ダレル

砕氷船……つまり、水面の氷を砕きながら進む船のことなんです。

ダレル

氷を砕く、というところから転じて、『緊張を砕く』、『打ち解ける』という意味もありますね。

遥香

花言葉ならぬ、カクテル言葉、ってやつね。

ダレル

ええ。……このお酒を作ったのは、前フリでもありまして。

ダレル

ご自分の事情を話してくださった遥香さんと、私ももっと打ち解けられれば……と思います。

遥香

……というと?

首を傾げた私に、マスターはグラスの氷を揺らして目を細めた。

ダレル

私からもひとつ、長話をさせて頂いてもよろしいでしょうか。

ダレル

遥香さんと同じように、相手を思っているのにすれ違ってしまった……

ダレル

昔のことですが、そんな青年の話を知っているんです。