英国館
~3話~

英国館バー店内

???

……? お客さま、どうなさいました?

ぽかんとしている私を不審に思ったのか、老紳士のマスターは目を瞬かせる。

遥香

え、ええっと……

遥香

(……あの日のことは実は夢だったのかしら?)

遥香

(偶然後輩を見てくれたお医者さんと、翌日バーのマスターとして再会するなんて、)

遥香

(今考えれば何だか出来すぎっていう感じもするし……)

と、間の抜けたことを考えていた時だった。

ダレル

やあ、遥香さんじゃないですか。いらっしゃいませ。

遥香

ひゃっ……!?

後ろから『英城先生の方』のマスターに話しかけられ、私は肩を跳ねさせてしまった。

ダレル

ああ、そんなに驚かせるとは……私はどうも、タイミングが悪いようですね。

遥香

い……いえ、マスターが悪いんじゃないのよ。

遥香

でも……あの、『マスター』でいいのかしら?

遥香

この前、他のお客さんもあなたを『マスター』って呼んでたと思うけど……

老紳士のマスターと彼を見比べつつ聞いてみると、『英城先生の方』は合点がいったという様子で頷く。

ダレル

なるほど。遥香さんは、あの老紳士が私を追い出して、このバーを乗っ取ったのかと思ったのですね。

遥香

いえ、そこまでは思ってないけど……

???

いらない軽口を叩いてないで、早く食材をこっちに持ってきなさい、ダレル。

ダレル

はっ……

老紳士が呆れた声で呼ぶと、マスターは急いでカウンターの方へ走っていった。

いま気付いたのだけれど、彼は両手に買い物袋を提げていて、中からは食材らしきものが覗いている。

???

お客様も、こちらへどうぞ。

遥香

……! はい、じゃあ……失礼します。

老紳士に優しく促され、私もこの前と同じ席に座った。

ダレル

いやあ、混乱させてしまってすみません。2人並ぶと、明らかにあちらの方が『マスター』ですよね。

ダレル

ですが今は正真正銘、私がこのバーのマスターを勤めております。

ダレル

師匠は前マスターであり、現オーナーというわけでして……

オーナー

ダレルはいわば、実地修行中の『雇われマスター』といったところですな。

オーナー

私もこの歳で、体にガタがきはじめておりますし……

オーナー

たまにこうしてバーカウンターに立つこともありますが、普段はもっぱら、裏の厨房で調理を担当してるんですよ。

遥香

あっ、じゃあ、この前私が頂いた豚肉とトマトのパスタも……

オーナー

ああ、きっと私が調理したものでしょう。

オーナー

厨房では座って作業できますからな。軽食の注文がなければサボっていてもいい。客前ではできないことです。

オーナーは茶目っ気のある仕草で、片目を閉じてみせる。

人好きのする表情を見ていると、どんな言葉より、彼がマスターの『師匠』であることが納得できた。

遥香

へえ、そうだったんですね……。じゃあ今は、マスターが買い物に行っている間の変わりをされていたんですか?

オーナー

ええ。お恥ずかしいことに、不肖の弟子が、軽食の材料を切らせてしまいまして。

オーナー

ついでに、別に今すぐ必要でないものも色々買ってこさせたというわけです。

ダレル

わざと重いものばかりメモに書き連ねるんだもんなあ……

オーナー

いいから、必要なものだけ置いて残りは厨房に持っていくように。

ダレル

はっ……

遥香

(……ふふっ……)

厳しいようでいてどこか和気藹々とした雰囲気に、口許が緩んでしまう。

笑って裏手へ向かうマスターを見送っていると、オーナーもふっと目許を和ませているのがわかった。

オーナー

おっと……遅くなってしまいましたが、お客様、ご注文をお伺いしましょう。

遥香

あ……そうですね。この前はお任せで頼んだから、今日はメニューからにしようかしら。

遥香

じゃあ……

遥香

(あ……これ、名前は何かで聞いたことあるけど、頼んだことはなかったのよね)

遥香

この『ロングアイランドアイスティー』っていうの、お願いしてもいいですか?

オーナー

……ええ、もちろんですよ。

オーナーは何故か一瞬だけ言葉を止めたものの、すぐに頷いてくれる。

――と、その時。

眼鏡の女性

こんばんは。

茶髪の男性

こんばんは~。あっ、オーナーがいるじゃないですか。

小柄な女性

あっ、本当だ!

友人同士なのか、若いお客さんが3人ほどやってきた。
オーナーは彼女達にも席を勧めると、にこやかに全体へ語りかける。

オーナー

今、ロングアイランドアイスティーのオーダーが入ったのですよ。皆さんもいかがですか。

茶髪の男性

お、本当っすか。じゃあ俺も頼んじゃおうかな。

小柄な女性

私も!

眼鏡の女性

私もお願いします。好きなんだけど、ちょっと遠慮しちゃって頼みづらいのよね。

遥香

(……遠慮? 頼みづらい?)

どういう意味だろうと一瞬思ったものの、その理由はすぐに察することができた。
オーナーが何本ものボトルや、生のレモンなどを準備し始めたからだ。

遥香

(なるほど……材料をたくさん使ったりレモンを絞ったりするから、作るのが大変なのね、きっと)

遥香

(紅茶を使ったカクテルなのかな程度のイメージしかなかったから、知らなかったわ)

オーナー

……さて。このカクテルは一般的なレシピで作るとかなり度数が高くなるのですが、

オーナー

当店オリジナルの、度数低めのレシピでもお作りできます。どちらになさいますか?

眼鏡の女性

私は、普通ので。

茶髪の男性

俺も普通の奴でお願いしま~す。

小柄な女性

私は度数低めの方がいいかなぁ。

遥香

じゃあ私も、度数低めのオリジナルで。

オーナー

かしこまりました。

品良く頷くと、並べた4つのグラスでカクテルを作り始めた。

その光景は、てきぱきと……というよりは、流れるように、と言った方がしっくりくると思う。
まるで手品を演じるみたいな動作に、私はいつの間にかぼうっと見惚れてしまっていた。

オーナー

……どうぞ。ロングアイランドアイスティーでございます。

そうしているうちにカクテルはできあがり、オーナーは私や他のお客さん達にグラスを運んでくれた。

遥香

ありがとうございます。頂きますね。

茶髪の男性

俺も早速もらっちゃお。んー……

小柄な女性

……うん、美味しい!

眼鏡の女性

相変わらず、奥深くていい味ね、オーナー。

オーナー

ありがとうございます。

遥香

(本当、何だか複雑な味わいがあって……)

遥香

オーナー、すごく美味しいです。これ、紅茶のリキュールを使ってるんですか?

オーナー

それはですね……

オーナーが口を開いたその時、ちょうどマスターが店内へと戻ってくる。

ダレル

おや……皆様にロングアイランドアイスティーを出されていたんですか。

オーナー

ええ。それで、ダレル……

オーナー

レシピについてこちらのお客様からご質問がありましたから、貴方から説明して差し上げなさい。

遥香

とても美味しかったから、どんなお酒を使ってるのか気になって。

遥香

それが紅茶のリキュールかしら?

まだ棚に戻されていなかった材料はカウンターの上に並んでいたので、その中で唯一琥珀色をしたボトルを示してみせる。

……するとマスターは、にこりと笑って首を振った。

ダレル

遥香さん。このカクテルには、本物の紅茶や、紅茶のリキュールは一切使っていないんですよ。

遥香

……えっ?

ダレル

つまりこれは、紅茶を使わずに、紅茶の風味を出しているカクテルなんです。

遥香

……???

遥香

で、でも、見た目も味も、紅茶……だったわよね。

改めてストローに口をつけてみても、さっぱりとしたアイスティーの味が感じられた。

ダレル

この琥珀色のお酒も、オレンジキュラソーと言って、

ダレル

名前の通り、オレンジの風味づけのされたリキュールなのです。

ダレル

他の材料にも紅茶の香りがするものは含まれていませんし……

遥香

……本当だわ。

遥香

作っているところを見てたけど、ここにあるもの以外の材料は使っていなかったものね……。

遥香

へえ……カクテルって、そんな不思議なこともできるのね。

私は感心して、ついしげしげとグラスを眺めてしまう。

ダレル

そうなんです。それに、紅茶をそのまま使うよりも複雑で面白い味わいになっていたりするので、

ダレル

かなり人気の高いカクテルなのですよ。

ダレル

あと、バーテンダーの腕を見るのにも使えたり……ね。

遥香

腕を見る?

きょとんとして聞き返すと、今度はさっきのお客さん達が、横から補足してくれた。

眼鏡の女性

お姉さん。このお酒って、未熟なバーテンダーが作ると、紅茶の味が出ないそうなんですよ。

眼鏡の女性

最後にコーラが使われてるんですけど、その味しかしなくなっちゃったりね。

遥香

へええ……

小柄な女性

だから通ぶった人が、初めて行くバーで『バーテンダーの腕試し』みたいに頼むこともあるんだって。ねー。

茶髪の男性

お、俺は別に腕試しのつもりじゃないからな。好きだから、どこの店でも頼んでるだけで……

遥香

腕試し……

遥香

あら……私、知らなかったとはいえ、オーナーを試すような、失礼なことをしちゃったかしら?

オーナー

いいえ。メニューに載せているのですから、遠慮なくご注文頂いて全く問題ございませんよ。

ダレル

そうです、気になさらないでください。

ダレル

ただ確かに、このご注文がくると、『おっ、腕を見られているかな』と身が引き締まりますね。

ダレル

もちろん、どんなご注文でもいつも全力でお作りするという前提ではありますが。

オーナー

そうですね。……ところで、ダレル。

ダレル

……はい。

オーナー

私からのオーダーです。

オーナー

ロングアイランドアイスティーを皆様にサービスで。味見程度の量で構いませんから。

遥香

(……ん?)

茶髪の男性

えっ、いいんすか?

オーナー

はい、お代は頂きませんので、ご安心を。

小柄な女性

やったぁ、ラッキー♪

ダレル

……実はそう来るんじゃないかと思っていたんですよね。

ダレル

師匠の後に作るのは気が重いと言いますか……いえ、頑張りますけども。

オーナー

どこまで成長したか、久しぶりに見せてもらいましょうかね。

オーナー

あちらのおふたりには通常のものを、こちらのおふたりには度数低めのオリジナルでお願いしますよ。

ダレル

はぃ……

緊張しつつも準備を始めるマスターの様子は、学校の先生に「前に出て問題を解くように」と指示された子供のようだった。

緊張した面持ちながらも準備を始める彼の姿に、つい笑みをこぼしてしまう。

ダレル

……よし。できあがりました。皆様、どうぞ。

マスターは小さなグラスにカクテルを作り、配ってくれた。
それを味わい……私達は口々に、賛辞の声を上げる。

眼鏡の女性

美味しいわ、マスター。

遥香

うん、とっても。

小柄な女性

オーナーのとほとんど同じ味なのがすごいよね。

茶髪の男性

だよな。一緒に出されたらどっちがどっちかわかんないと思う。

オーナー

……なるほど。

オーナー

良かったですね、ダレル。

オーナーは穏やかに呟く……けれど、マスターは何故か居心地悪そうに体を縮めた。

ダレル

…………騙されちゃいけませんよ。オーナー、この笑顔で怒ってますから。

遥香

え……ええっ?

遥香

怒ってるって……どうして?

オーナー

語弊がありますよ、ダレル。別に怒ってはいません。まだまだ未熟だなと思っているだけで。

遥香

未熟……

オーナー

どのカクテルでもそうですが……バーテンダーによって、独自の解釈というものがございます。

オーナー

例えば同じオレンジキュラソーでも、どの銘柄を使うか。他のお酒との配分をどうするか。

オーナー

氷にも種類がありますから、どれを使うか。どのグラスを使うか、どんな温度で出すか……

オーナー

これはほんの一例ですが、こだわろうと思えばどこまでもこだわりが出せるのです。

オーナー

ロングアイランドアイスティーは特に、バーテンダーによって違う味になりやすいものですしね。

オーナー

……それなのに。

ダレル

う……

オーナー

ダレルはまだ、私の真似、コピーでしかありません。

オーナー

私と全く同じものを作るより、貴方は貴方のカクテルを目指すべきなのですよ。

オーナー

ああもちろん、質は保ったままで、です。変に奇をてらったレシピにして味を損ねては本末転倒ですからね。

ダレル

ほら、こうやって無理難題を言うんですから。

ダレル

そもそも、師匠の作るカクテルが私の理想なので、似てしまうのは仕方ないというか必然というか……

オーナー

そんな言い訳をしているようでは、いつまで経ってもマスター(仮)のままですよ。

ダレル

……精進いたします。

遥香

(……あはは……)

厳しくも愛情のある感じのオーナーと、ちょっとしょんぼりしているマスター。
可愛い師弟関係が面白くて、また笑ってしまった。

遥香

(何だか私……)

遥香

(ますます、このお店が気に入っちゃいそうね)