英国館バー店内
……? お客さま、どうなさいました?
ぽかんとしている私を不審に思ったのか、老紳士のマスターは目を瞬かせる。
え、ええっと……
(……あの日のことは実は夢だったのかしら?)
(偶然後輩を見てくれたお医者さんと、翌日バーのマスターとして再会するなんて、)
(今考えれば何だか出来すぎっていう感じもするし……)
と、間の抜けたことを考えていた時だった。
やあ、遥香さんじゃないですか。いらっしゃいませ。
ひゃっ……!?
後ろから『英城先生の方』のマスターに話しかけられ、私は肩を跳ねさせてしまった。
ああ、そんなに驚かせるとは……私はどうも、タイミングが悪いようですね。
い……いえ、マスターが悪いんじゃないのよ。
でも……あの、『マスター』でいいのかしら?
この前、他のお客さんもあなたを『マスター』って呼んでたと思うけど……
老紳士のマスターと彼を見比べつつ聞いてみると、『英城先生の方』は合点がいったという様子で頷く。
なるほど。遥香さんは、あの老紳士が私を追い出して、このバーを乗っ取ったのかと思ったのですね。
いえ、そこまでは思ってないけど……
いらない軽口を叩いてないで、早く食材をこっちに持ってきなさい、ダレル。
はっ……
老紳士が呆れた声で呼ぶと、マスターは急いでカウンターの方へ走っていった。
いま気付いたのだけれど、彼は両手に買い物袋を提げていて、中からは食材らしきものが覗いている。
お客様も、こちらへどうぞ。
……! はい、じゃあ……失礼します。
老紳士に優しく促され、私もこの前と同じ席に座った。
いやあ、混乱させてしまってすみません。2人並ぶと、明らかにあちらの方が『マスター』ですよね。
ですが今は正真正銘、私がこのバーのマスターを勤めております。
師匠は前マスターであり、現オーナーというわけでして……
ダレルはいわば、実地修行中の『雇われマスター』といったところですな。
私もこの歳で、体にガタがきはじめておりますし……
たまにこうしてバーカウンターに立つこともありますが、普段はもっぱら、裏の厨房で調理を担当してるんですよ。
あっ、じゃあ、この前私が頂いた豚肉とトマトのパスタも……
ああ、きっと私が調理したものでしょう。
厨房では座って作業できますからな。軽食の注文がなければサボっていてもいい。客前ではできないことです。
オーナーは茶目っ気のある仕草で、片目を閉じてみせる。
人好きのする表情を見ていると、どんな言葉より、彼がマスターの『師匠』であることが納得できた。
へえ、そうだったんですね……。じゃあ今は、マスターが買い物に行っている間の変わりをされていたんですか?
ええ。お恥ずかしいことに、不肖の弟子が、軽食の材料を切らせてしまいまして。
ついでに、別に今すぐ必要でないものも色々買ってこさせたというわけです。
わざと重いものばかりメモに書き連ねるんだもんなあ……
いいから、必要なものだけ置いて残りは厨房に持っていくように。
はっ……
(……ふふっ……)
厳しいようでいてどこか和気藹々とした雰囲気に、口許が緩んでしまう。
笑って裏手へ向かうマスターを見送っていると、オーナーもふっと目許を和ませているのがわかった。
おっと……遅くなってしまいましたが、お客様、ご注文をお伺いしましょう。
あ……そうですね。この前はお任せで頼んだから、今日はメニューからにしようかしら。
じゃあ……
(あ……これ、名前は何かで聞いたことあるけど、頼んだことはなかったのよね)
この『ロングアイランドアイスティー』っていうの、お願いしてもいいですか?
……ええ、もちろんですよ。
オーナーは何故か一瞬だけ言葉を止めたものの、すぐに頷いてくれる。
――と、その時。
こんばんは。
こんばんは~。あっ、オーナーがいるじゃないですか。
あっ、本当だ!
友人同士なのか、若いお客さんが3人ほどやってきた。
オーナーは彼女達にも席を勧めると、にこやかに全体へ語りかける。
今、ロングアイランドアイスティーのオーダーが入ったのですよ。皆さんもいかがですか。
お、本当っすか。じゃあ俺も頼んじゃおうかな。
私も!
私もお願いします。好きなんだけど、ちょっと遠慮しちゃって頼みづらいのよね。
(……遠慮? 頼みづらい?)
どういう意味だろうと一瞬思ったものの、その理由はすぐに察することができた。
オーナーが何本ものボトルや、生のレモンなどを準備し始めたからだ。
(なるほど……材料をたくさん使ったりレモンを絞ったりするから、作るのが大変なのね、きっと)
(紅茶を使ったカクテルなのかな程度のイメージしかなかったから、知らなかったわ)
……さて。このカクテルは一般的なレシピで作るとかなり度数が高くなるのですが、
当店オリジナルの、度数低めのレシピでもお作りできます。どちらになさいますか?
私は、普通ので。
俺も普通の奴でお願いしま~す。
私は度数低めの方がいいかなぁ。
じゃあ私も、度数低めのオリジナルで。
かしこまりました。
品良く頷くと、並べた4つのグラスでカクテルを作り始めた。
その光景は、てきぱきと……というよりは、流れるように、と言った方がしっくりくると思う。
まるで手品を演じるみたいな動作に、私はいつの間にかぼうっと見惚れてしまっていた。
……どうぞ。ロングアイランドアイスティーでございます。
そうしているうちにカクテルはできあがり、オーナーは私や他のお客さん達にグラスを運んでくれた。
ありがとうございます。頂きますね。
俺も早速もらっちゃお。んー……
……うん、美味しい!
相変わらず、奥深くていい味ね、オーナー。
ありがとうございます。
(本当、何だか複雑な味わいがあって……)
オーナー、すごく美味しいです。これ、紅茶のリキュールを使ってるんですか?
それはですね……
オーナーが口を開いたその時、ちょうどマスターが店内へと戻ってくる。
おや……皆様にロングアイランドアイスティーを出されていたんですか。
ええ。それで、ダレル……
レシピについてこちらのお客様からご質問がありましたから、貴方から説明して差し上げなさい。
とても美味しかったから、どんなお酒を使ってるのか気になって。
それが紅茶のリキュールかしら?
まだ棚に戻されていなかった材料はカウンターの上に並んでいたので、その中で唯一琥珀色をしたボトルを示してみせる。
……するとマスターは、にこりと笑って首を振った。
遥香さん。このカクテルには、本物の紅茶や、紅茶のリキュールは一切使っていないんですよ。
……えっ?
つまりこれは、紅茶を使わずに、紅茶の風味を出しているカクテルなんです。
……???
で、でも、見た目も味も、紅茶……だったわよね。
改めてストローに口をつけてみても、さっぱりとしたアイスティーの味が感じられた。
この琥珀色のお酒も、オレンジキュラソーと言って、
名前の通り、オレンジの風味づけのされたリキュールなのです。
他の材料にも紅茶の香りがするものは含まれていませんし……
……本当だわ。
作っているところを見てたけど、ここにあるもの以外の材料は使っていなかったものね……。
へえ……カクテルって、そんな不思議なこともできるのね。
私は感心して、ついしげしげとグラスを眺めてしまう。
そうなんです。それに、紅茶をそのまま使うよりも複雑で面白い味わいになっていたりするので、
かなり人気の高いカクテルなのですよ。
あと、バーテンダーの腕を見るのにも使えたり……ね。
腕を見る?
きょとんとして聞き返すと、今度はさっきのお客さん達が、横から補足してくれた。
お姉さん。このお酒って、未熟なバーテンダーが作ると、紅茶の味が出ないそうなんですよ。
最後にコーラが使われてるんですけど、その味しかしなくなっちゃったりね。
へええ……
だから通ぶった人が、初めて行くバーで『バーテンダーの腕試し』みたいに頼むこともあるんだって。ねー。
お、俺は別に腕試しのつもりじゃないからな。好きだから、どこの店でも頼んでるだけで……
腕試し……
あら……私、知らなかったとはいえ、オーナーを試すような、失礼なことをしちゃったかしら?
いいえ。メニューに載せているのですから、遠慮なくご注文頂いて全く問題ございませんよ。
そうです、気になさらないでください。
ただ確かに、このご注文がくると、『おっ、腕を見られているかな』と身が引き締まりますね。
もちろん、どんなご注文でもいつも全力でお作りするという前提ではありますが。
そうですね。……ところで、ダレル。
……はい。
私からのオーダーです。
ロングアイランドアイスティーを皆様にサービスで。味見程度の量で構いませんから。
(……ん?)
えっ、いいんすか?
はい、お代は頂きませんので、ご安心を。
やったぁ、ラッキー♪
……実はそう来るんじゃないかと思っていたんですよね。
師匠の後に作るのは気が重いと言いますか……いえ、頑張りますけども。
どこまで成長したか、久しぶりに見せてもらいましょうかね。
あちらのおふたりには通常のものを、こちらのおふたりには度数低めのオリジナルでお願いしますよ。
はぃ……
緊張しつつも準備を始めるマスターの様子は、学校の先生に「前に出て問題を解くように」と指示された子供のようだった。
緊張した面持ちながらも準備を始める彼の姿に、つい笑みをこぼしてしまう。
……よし。できあがりました。皆様、どうぞ。
マスターは小さなグラスにカクテルを作り、配ってくれた。
それを味わい……私達は口々に、賛辞の声を上げる。
美味しいわ、マスター。
うん、とっても。
オーナーのとほとんど同じ味なのがすごいよね。
だよな。一緒に出されたらどっちがどっちかわかんないと思う。
……なるほど。
良かったですね、ダレル。
オーナーは穏やかに呟く……けれど、マスターは何故か居心地悪そうに体を縮めた。
…………騙されちゃいけませんよ。オーナー、この笑顔で怒ってますから。
え……ええっ?
怒ってるって……どうして?
語弊がありますよ、ダレル。別に怒ってはいません。まだまだ未熟だなと思っているだけで。
未熟……
どのカクテルでもそうですが……バーテンダーによって、独自の解釈というものがございます。
例えば同じオレンジキュラソーでも、どの銘柄を使うか。他のお酒との配分をどうするか。
氷にも種類がありますから、どれを使うか。どのグラスを使うか、どんな温度で出すか……
これはほんの一例ですが、こだわろうと思えばどこまでもこだわりが出せるのです。
ロングアイランドアイスティーは特に、バーテンダーによって違う味になりやすいものですしね。
……それなのに。
う……
ダレルはまだ、私の真似、コピーでしかありません。
私と全く同じものを作るより、貴方は貴方のカクテルを目指すべきなのですよ。
ああもちろん、質は保ったままで、です。変に奇をてらったレシピにして味を損ねては本末転倒ですからね。
ほら、こうやって無理難題を言うんですから。
そもそも、師匠の作るカクテルが私の理想なので、似てしまうのは仕方ないというか必然というか……
そんな言い訳をしているようでは、いつまで経ってもマスター(仮)のままですよ。
……精進いたします。
(……あはは……)
厳しくも愛情のある感じのオーナーと、ちょっとしょんぼりしているマスター。
可愛い師弟関係が面白くて、また笑ってしまった。
(何だか私……)
(ますます、このお店が気に入っちゃいそうね)