英国館
ますますこのお店が気に入ってしまいそう……
そう思った通りに、私はそれから月に数回ほど、『バー・ハイマート』へ通うようになった。
たまには同僚や、三好さんと一緒にお店を訪れたこともある。
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英国館バー店内
三好さん、お久しぶりです。お体の具合はどうですか?
はい、もうすっかり良くなりました。先生、あの時はありがとうございました!
それにしても……わ~、本当にバーテンダーさんをされてるんですね。
先輩から話は聞いてましたけど、改めて見るとびっくり……
はは、皆さんそうおっしゃいます。
おっ、マスター。また美人のお客さんが増えたねえ。
……えっ、美人? ……って、先輩のことですよね?
2人ともだって。ねえ、マスター。
ええ、遥香さんも三好さんも、綺麗ですし頑張り屋さんですし、
見た目も中身も、とても素敵な女性だと思いますよ。
ええっ……!
マスターってば、口が上手いんだから。
そうそう、マスターは女の子に人気だからな~。
そういう甘い言葉ばっかりかけてると、ファンクラブとかできちゃうよ?
いやいや、そんな……
他のお客さんも混じえてそんな冗談めかした会話をしていると、近くの席にいた品のいいご婦人がくすっと笑う。
でもマスターは、私みたいなおばあちゃんにもお世辞ばっかり言うのよ。
貴女達みたいに若くて美人さんだったら、本気で口説かれちゃうかも。
ふふっ、私は恋人がいますから。
私ももっと、塩っぽい、薄っすらした顔の人じゃないと……
……告白してもいないのにフラれた気分です。
私達の言葉に、マスターは大げさにしょげてみせた。
すると……今日もカウンターに立っていたオーナーも、ぽつりと話に参加してくる。
……ダレルが女性に人気がある、ですか。
…………!!
しかし彼は今でこそこんな感じですが、ここに初めて来た時は……
い……いやいやいや、その話はいいじゃないですか。
(……???)
それよりほら、今日はお客さんも多くないですし、こっちは私ひとりで大丈夫です。
師匠は厨房の方でゆっくりなさっていてください。ねっ、ねっ。
はいはい。
(オーナーは何を言いかけたのかしら……?)
時々気になることはあったりするものの、どのお客さんも、マスターから事情を無理に聞き出そうとしたりはしなかった。
もちろんお客さん同士でも大人の配慮があって、悪酔いする人やしつこくナンパするような人は滅多に見なかったし、いたとしてもマスターや、他のお客さんも協力して穏便に助け舟を出してくれた。
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そんなお勧めの店よ、と、智也さんを連れていったことももちろんある。
英国館バー店内
いらっしゃいませ。お2人様ですね。こちらのお席へどうぞ。
失礼します。……いい店だね、遥香。すごく雰囲気があって、でも明るくて。
でしょ?
マスターの話も、遥香から聞いてますよ。面白い人だって。
面白い……
い、いい意味で、いい意味でよ。
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オフィス
仕事も順調で、疲れた時はバーで息抜きができる。
お酒を飲みながら、普段関わりのない業界で働いている他のお客さんと話をしたりするのも、刺激があってとても楽しかった。
そうしているうちに、初めてバー・ハイマートを訪れてから1年が過ぎたけれど、相変わらず充実した日々が続いていた。
……私は、そう思っていた。
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北野坂
それは、とある夜のことだった。
~♪♪♪~
(あ……智也さんからだわ)
帰り道でかかってきた恋人からの電話に、私はいそいそと返事をする。
……はい、遥香です。お疲れ様、智也さん。
うん、今仕事帰りなの。今日はそのまま家に戻るつもりよ。
ん……? ううん、迎えは大丈夫だから。気にしないで。
いつも言ってるじゃない。智也さんだって忙しいんだから、そんなことで迷惑かけられないわよ。
…………
『――――、――――』
…………え……?
携帯から聞こえてくる智也さんの言葉を、私はすぐに理解することはできなかった。
い……今……
何て言ったの? 智也さん……
聞き返すと、彼は疲れた声でもう一度呟く。
『……だからさ。僕達――』
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英国館バー店内
今日も美味しかったわ、マスター。また来るわね。
ありがとうございます、お待ちしております。
……さて、そろそろ看板をしまいましょうか……
――私がバーの扉を開けたのは、その時だった。
こちらへ向かおうとしていたマスターと、視線がぶつかる。
遥香さん……
……あ……
(お客さんが誰もいない……と、いうことは……)
もう閉店の時間だったかしら。……ごめんなさい、帰るわね。
そう言って、引き返そうとした。
でも、マスターの柔らかい声が私を引き止める。
いえ、大丈夫ですよ。
……でも……
どうぞ、いつものお席へ。
………………ありがとう。
カウンター席に座って待っていると、マスターは一度店の外へ出て、看板をお店の中へと運んだ。
それからカウンターの中へ戻って、にこやかに人差し指を立てる。
ドアにCLOSEのサインを出してきました。この後は、遥香さんの貸し切りにしてしまいましょう。
え……いいの?
ええ。だって……覚えていますか?
今日は遥香さんが初めてこの店に来てくださってから、ちょうど1年なのですよ。
…………そ、そうだったかしら。
(確かに、このくらいの季節だったとは思うけど……日付までははっきり覚えてないわね)
私は戸惑っていたけれど、彼は自信満々に頷いてみせた。
そうだったのですよ。だからその記念に、貸し切りでちょっとしたお祝いでもしましょう。
……本当に、ちょうど1年だった?
もちろんですよ。
…………ふふ、マスターには敵わないわね。
私の様子が普段と違うとすぐに気付いて、マスターは気遣ってくれたのかもしれない。
敢えて本当のことを確かめたりはせずに、そっと瞼を伏せる。
……でも、今はそれが限界だった。
いつものように、こちらから適当な世間話を振ったりもできない。
……ご注文はどうなさいますか?
そうね……
何か、強いお酒をくれる?
…………かしこまりました。
マスターは首肯すると、すぐに材料を選び出し、オーナーに見劣りしない、流れるような手際でカクテルを作りあげる。
どうぞ、遥香さん。
え……?
でも、差し出されたそのお酒に、私は眉根をひそめてしまった。
目の前にあるのは、初めてここに来た時に出された、ホット・バタード・ラム……
そう度数は強くないし、ホットだからゆっくり飲むしかないカクテルだったのだ。
マスター。私が注文したのは……
遥香さん。
酔いたいだけでしたら、コンビニで適当なお酒を買って帰った方が、安上がりで済みますよね。
こうやって、バーテンダーに余計なお節介をされる心配もありませんし。
…………
ですが、貴女はこうしてバーへ来てくださいました。
そのお気持ちに応えるのも、バーテンダーの仕事なのですよ。
……マスター……
何か考えがあってバーに来たわけではない。
というか、何かを考える余裕もなく……気付けば、足がここへ向かっていただけだった。
(でも……マスターの言う通りなのかもしれない)
(ヤケ酒がしたかったんじゃなくて……誰かに、話を聞いてほしかったんだわ、私)
…………
そっと、ホット・バタード・ラムに口をつける。
美味しい……
1年前と同じ、温かくて優しい味。
でも、ゆっくり味わうと、完全に同じではないような気がした。
(勘違いかもしれないけど……前よりまろやかな気がする)
(…………)
(……ううん、きっと気のせいじゃないわね。1年経ってるんだもの)
以前オーナーに、『私の真似ではなく、貴方は貴方のカクテルを作りなさい』と言われていたマスター。
デザインの世界でもそうだけど……元となるものの完成度が高ければ高いほど、そこに手を加えるのには細心の注意を必要とする。
それぞれの要素は計算しつくされた上で配置され、互いに深く関わりあっているから、どれかひとつが少し変わるだけでも、簡単にバランスが崩れてしまうのだ。
だから元のイメージを壊さないままアレンジしたければ、変更していない他の部分も、変更した部分に合わせて細かく調整するしかない。
それが成功して、変更部分が全体にしっくりと馴染めば……
違和感のなさゆえに、完成品だけを見た人は、そういう努力があったことに気付かないこともあった。
(……でも、それでいいのよね)
(完成品を受け取った人が、笑顔になってくれればそれでいい……)
そんな気持ちで、マスターも研鑽を重ねてきたんじゃないだろうか。
この1年の間、地道に……
(……そうだわ。1年経ったんだもの)
(みんな、色々考えて、色々なものを積み重ねて、変わっていって……)
(ずっとこのままでいられるなんてのんきにしてたのは、私だけだったんだわ)
……ねえ、マスター。
情けない話なんだけど……聞いてもらってもいいかしら。
もちろんですよ。何でもお話しください。
決してここでのお話を口外したりすることはありませんから。
どんな話でも、ご遠慮なく。
ふふっ、ありがとう。でもね、そんなに大げさな話じゃないのよ。
ただ……
私が、智也さんにフラれてしまっただけだから。