英国館
~2話~

英国館バー店内

ダレル

バー・ハイマートへ、ようこそいらっしゃいませ……

ダレル

……おや?

遥香

えっ……?

バーカウンターの中からこちらを振り向いたのは、三好さんを診てくれていたあのお医者さんだった。
向こうも私を覚えていたのか、軽く目を見張る。

ダレル

貴女は、確か……

中年の男性客

ん? マスター、知り合い?

私達が顔を見合わせていると、カウンターの奥に座っていた男性が不思議そうに声を上げた。

遥香

ええっと……昨日、病院でお会いしたんです。

中年の男性客

あー、あー。

中年の男性客

お医者さんバージョンのマスターと先に会ってたんだ。そりゃびっくりするよねえ。

ダレル

お医者さんバージョンですか……。はは、まあ、とりあえず、こちらの席へどうぞ。

遥香

え、ええ。

戸惑いつつもカウンターに寄って、入口側の椅子に腰を下ろす。

お医者さん……マスターは白衣を着ていた時と同じ優しい笑顔で、私に微笑みかけた。

ダレル

さて、ご注文は何になさいますか?

ダレル

メニューはこちらにございますが、お勧めやお任せも承っておりますよ。

遥香

そうね……じゃあ、何か軽めのカクテルと、パスタをお願いしたいわ。

遥香

お酒は甘くなくても大丈夫だけど、あまり強すぎるのは苦手なの。おすすめはあるかしら。

ダレル

なるほど……

ダレル

では、まず食前酒としてキールはいかがでしょう。

ダレル

白ワインとカシスリキュールのさっぱりした口当たりのカクテルです。

ダレル

カシスは少し減らし気味で、甘さを抑えておきますね。

ダレル

パスタは……フレッシュトマトと豚肉のパスタではどうでしょう。

マスターは言葉に詰まる様子もなく、すらすらと、でもわかりやすく説明してくれる。

何となく『お医者さんをしている時もこうなんだろうな』と想像がついて、つい唇がほころんだ。

遥香

じゃあ、それでお願いします。

ダレル

かしこまりました。少々お待ちくださいね。

彼は一礼すると、壁の方にあるアンティーク調の電話を手に取った。
どうも、パスタの注文をどこかに通しているようだ。

遥香

(そういえば、コンロとかは見当たらないわね。ここで調理するわけじゃないのかしら?)

私の疑問に気付いたのだろう、電話を終えたマスターが、今度はカクテルの準備をしながら教えてくれた。

ダレル

歴史のある建物ですからね。安全と保存のために、料理は別棟で作っているんですよ。

遥香

へえ、そうだったのね……

ボトルにカシスの絵が描かれたリキュールと、白ワインをワイングラスへ注いでいた。
2色がワイングラスの中で混じり合い、澄んだ、透明な紅色を作り出す。

それをバースプーンでくるくるとかき混ぜてから、マスターは私の方へそっと差し出した。

ダレル

お待たせいたしました。まずはキールをどうぞ。

遥香

ありがとう。いただきます……

遥香

ん、美味しい……! 甘酸っぱくて、香りもいいわ。

ダレル

それは良かった。パスタもすぐできますから、待っていてくださいね。

彼は丁寧にボトルや道具を片付けながら、本当に嬉しそうににこにこしている。

……他のお客さんから注文がある様子もないので、私は改めて聞いてみることにした。

遥香

それで……

ダレル

はい?

遥香

結局、マスターはあのお医者さんと同一人物なの?

ダレル

…………

ダレル

……実は双子なんですよ、と言ったら信じます?

遥香

そういう冗談好きなところを見ると、やっぱり同一人物なのね。

私が肩をすくめてみせると、マスターは悪戯がばれた男の子のように片目を閉じた。

ダレル

午前中は非常勤医師として働いて、夕方からはバーテンダーなんですよ。

遥香

へえ……悪い意味じゃないんだけど、変わってるというか……

ダレル

私もそう思います。二足の草鞋を履くことになるとは自身でも思っていませんでした。

ダレル

二兎を追うもの一兎も得ず……となっていなければ良いのですが。

遥香

ふふっ。三好さん、『英城先生はとても丁寧に応対してくれた』って、メールで言ってたわよ。

何気なくそう言うと、マスターは一瞬手を止めて、私の方を窺う。

ダレル

……そうですか。その後のご様子は……?

遥香

家でゆっくり休んだら、もうかなり回復したみたい。ありがとう、『先生』。

ダレル

いえいえ。……ああ、それは良かった。

……呟く彼の様子は、本当にしみじみ、といった感じだった。

遥香

(……ん?)

遥香

(もしかして、マスター……ずっと三好さんのことを気にしてくれていたのかしら)

遥香

(でも、お医者さんは守秘義務があるだろうし、)

遥香

(他のお客さんがいる前で、自分からはあんまりあれこれ話したり聞けなかった……とか?)

ダレル

……っと。

私が何か言う前に、壁の電話がマスターを呼んだ。
受話器を取って一言二言話してから、彼は一旦裏手の方へ出ていく。

……そしてすぐに、湯気の上がるパスタを持って戻ってきた。

ダレル

お待たせいたしました、フレッシュトマトと豚肉のパスタです。

遥香

わ……これも美味しそうね!頂きます。

さっきの疑問は気になったものの、冷めないうちにと、私はパスタを口に運ぶ。

遥香

(ああ、見た目通り美味しい……!)

遥香

(それに何だか、優しい味……)

若い女性客

マスター、ラムジンジャーをお願いします。

ダレル

はい、かしこまりました。

壮年の男性客

……むう、いい香りだな。私もパスタを頼もうか。

ダレル

トマトと豚肉のパスタでよろしいですか? 少々お待ちくださいね。

カクテルとパスタを楽しみながら、私は不躾にならない程度に、再び店内へ目を向けた。

お客さん同士で話したり、マスターに声をかけたり、お酒を片手に本を読んでいたり。
気を置かずに済む家族のようでいて、でも決して自分勝手に騒いだり、はめを外す人はいない。

そんな人々を見守るようにしながら、マスターは丁寧な仕事ぶりで作業を進めている。

遥香

(……うん、やっぱり、いい雰囲気ね)

ダレル

西宮さん。

遥香

んっ……!

ダレル

お、おっと、すみません。お食事中に話しかけてしまって。

遥香

あ……いえ、違うのよ。名前覚えてもらってたんだって、びっくりして。

私が慌てて説明すると、マスターは安心した表情を浮かべた。

ダレル

商売柄、物覚えだけはいいのですよ。病院に来られた時、面会者用の名札をつけていらしたから。

遥香

でも、ちらっと見ただけなのにすごいわ……

遥香

あ、それと、『遥香』でいいわよ。

遥香

うちの会社に『西宮』が2人いてね。下の名前で呼ばれるのに慣れてるの。

ダレル

わかりました。……遥香さん。

彼はかしこまってそう告げると、新しいグラスをひとつ、私のそばに置いた。

ダレル

こちら、初来店のサービスです。

遥香

え……

遥香

い、いいの?

ダレル

ご遠慮なくどうぞ。

ダレル

ホット・バタード・ラムと言いまして、寒い日や疲れた時にぴったりな、温かいカクテルです。

それは取手のついたグラスに入った、琥珀色の飲み物だった。
ラム酒の甘い香りと、シナモンと、バターの香りが漂ってくる。

遥香

……ありがとう。頂きます。

ちょうどパスタも食べ終わる頃だったので、お皿を空にしてから、食後の一杯、という感じで新しいお酒に手を伸ばす。

遥香

(あ……)

温かいカクテルがゆっくり喉を通って、体を癒やしていってくれるみたいような感覚だった。
少し蜂蜜が入っているのか、柔らかな甘みが舌に広がる。

遥香

(寒い日や……『疲れた時』にぴったりなカクテル……)

遥香

(…………)

このバーに来てからのことをしばらく思い出し……それから私は、マスターを見つめた。

遥香

…………マスター。もしかして、私が疲れてる様子だから、

遥香

このパスタとか、カクテルを勧めてくれたの?

ダレル

ん……

私の問いに、彼はちょっとびっくりした面持ちになって、そしてはにかんだ。

ダレル

おっと……お節介に気付かれてしまいましたか。

遥香

……やっぱり。私も一人暮らしだから色々食事には気を遣ったりするけど、

遥香

豚肉とかトマトとか、疲労回復にいいって聞いたことあるもの。

遥香

そこまであからさまに疲れた~って顔はしてなかったと思うけど……お医者さんの目は誤魔化せないものね。

ダレル

あはは……職業病という奴でしょうか。どうしてもそういうことを考えずにはいられない質でして。

ダレル

遥香さんも無理なさらず……と言いたいところですが、無理せざるを得ない時はやってくるものですからね。

ダレル

ですから、せめてそんなお客様がいらした時は、精一杯のおもてなしで寛いで頂きたいのです。

遥香

……いい人ね、マスターは。

本心からそう言ったのだけれど、彼はおどけて、むうと唸ってみせる。

ダレル

恋愛対象として見てもらえない男がよく言われる評価ですね、それは。

遥香

もう。お世辞じゃないわよ。

私は頬を緩めて、また一口、温かなカクテルで喉を潤す。

その後も、バーでの時間はとても心地いいもので……

遥香

(こんなに居心地のいいバーだったのね。もっと早く来てみていればよかった)

遥香

(また時間ができたら、通ってみようかしら)

そんなことを思いながら、私はお会計を済ませて家路につき、寛いだ気持ちでゆっくりと眠ったのだった。

それから、また数日後の休日。

公園

遥香

ふー……

遥香

(一難去ってまた一難、という感じだったわね……)

待ち合わせ場所の広場で携帯の時計を眺め、私は小さく息をついていた。

三好さんの体調は無事に回復し、仕事にも戻ってもらえたものの、また別の案件でトラブルが起き……なかなか心休まる暇がなかったのだ。

遥香

(でも、今回も諸々何とかなって良かったわ。それに今日は、仕事のことより……)

???

遥香。

――ちょうど思い浮かべた姿がこちらへ駆けてきて、口角が上がるのを自覚する。

遥香

あっ……智也さん!

智也

ごめんごめん、待たせたかな。

遥香

ううん、今来たところ。

いかにも恋人、といった会話が自分でおかしくて、私は笑みを深めた。

けれど……智也さんは私を見つめて、心配そうに眉を下げる。

智也

遥香……疲れてないかい?大丈夫?

遥香

えっ……

遥香

……もしかして目の下にクマができたりしてるかしら?

思わず焦ってしまうと、彼はぱたぱたと手を振って否定した。

智也

ああ、いや。そういう意味じゃないんだ。気を悪くさせたらごめん。

智也

見た目がどうこうっていうわけじゃなくて……

智也

ほら、この前も後輩の女の子が倒れるくらい、忙しい時期があったんだろう。

智也

それから今日までの間も、色々忙しかったみたいだし……

遥香

そっか、心配かけちゃったのね……ごめんなさい。でも、平気よ。

智也

…………

強がったつもりはなかった。でも、智也さんはますます心配そうに顔を曇らせる。

智也

……遥香。やっぱり、仕事のことはちゃんと考えた方がいいよ。

智也

『あのこと』があるから、頑張ってるんだろうけど……

智也

本当に僕は、君が体を壊さないかって心配なんだ。

遥香

……智也さん……

智也

デザイン業界は安定が難しいと聞くし……今大丈夫でも、今後どうなるかわからないだろう。

智也

遥香は頑張ってると思うし、それを否定したいわけじゃないんだ。

智也

でも、遥香がいつも言う『約束』を守るためには、普通の人以上に頑張り続けなきゃいけない。

智也

ただでさえ大変な業界で、さらに重い荷物を抱えていたら、

智也

いくら頑張り屋だって……いや、頑張り屋だからこそ、耐え切れなくなってしまうよ。

遥香

…………

智也

……僕は、君との将来を真面目に考えてるんだ。君はひとりじゃない。

智也

つらくなった時は、いつでも僕がいるから。心配しなくていいんだよ。

遥香

…………ありがとう、智也さん。これは心からの気持ちよ。

遥香

でも、私……『あのこと』を、重荷だって思ったことはないの。

遥香

むしろ、誇りと言ってもいいわ。

智也

……遥香。

遥香

だから、なるべくなら自分の力で頑張りたいの。

遥香

でもね、智也さんの言うこともよくわかってるわ。

遥香

時代や流行の移り変わりについていけないと厳しいのは、どこも同じだし……

遥香

私も将来のこと、きちんと考えてみるわ。

智也

…………ああ。

遥香

ごめんね、いつも心配かけてばかりで。

智也

いや……いいんだ。僕も何度も同じ話をしてすまないね。

智也

そうそう、久しぶりのデートなんだ。今日は楽しまなくちゃ。遥香も、思いっきり息抜きしてよ。

遥香

うん! この映画、楽しみにしてたの。

私は空気を明るくしようと、声を弾ませて歩き出した。

……智也さんの中に積み重なっていくものには、気付かずに。

……また、数日後。

英国館バー店内

遥香

こんばんは~。

大きな仕事が片付き、少し余裕ができた私は、再び英国館のバーを訪れていた。

開店直後だったせいか、私が一番乗りなようで、他にお客さんの姿はない。
そんな静かな店内で、カウンターの向こうにいた男性が振り向く。

……しかし……

???

おや……

???

お客さま、いらっしゃいませ。ようこそ、バー・ハイマートへ。

遥香

…………

遥香

あ……あら?

そこにいたのは、あの冗談好きの『英城先生』ではなく、いかにもベテランバーテンダーといった風貌の、老紳士だったのだ……。