英国館
~1話~

病院廊下

すれ違う看護師さんに会釈をしながら、清潔な廊下を歩いていく。

そして目的の病室を見つけ……私はノックをして、その部屋に入っていった。

病院病室

遥香

失礼します。……どう、三好さん。体調は大丈夫?

三好

あっ、先輩……!

私の姿を見つけると、会社の後輩である三好さんは、慌ててベッドから体を起こす。

遥香

いいの、無理しないで。……えっと、そちらの方が診てくださった先生かしら?

私は彼女に軽く手を振って制し、ベッド脇にいた白衣の男性に声をかけた。

???

ええ、三好さんの会社の方ですね。

???

私は医師のハナシロ、と申します。

彼は穏やかな笑みを浮かべると、自分の名札を軽く持ち上げてみせる。

遥香

『ダレル・C・英城』……あら、先生は……

ダレル

お気づきの通り、ハーフです。大丈夫ですよ、外国人顔ですが日本語は喋れますから。

先生は気さくに肩をすくめ、そう冗談めかした。
彼の様子から、三好さんの具合も悪くなさそうだと感じて、緊張が解れていく。

ダレル

それで、三好さんですが……過労と貧血のようです。

ダレル

倒れた時に頭を打ったりしなくて幸いでした。

ダレル

どこにも怪我はないようですし、鉄剤を点滴して、一晩休めば大丈夫でしょう。

遥香

そうなんですか。良かった……先生、ありがとうございます。

ダレル

いえ。それではお大事になさってください。……また後ほど、様子を見にきますね。

最後は三好さんの方へ微笑みかけて、先生は病室を出ていった。

そしてふたりきりになると――ぎゅっと眉根を寄せ、彼女が涙ぐんでしまう。

三好

先輩……ごめんなさい。こんな時に倒れてしまって……

……彼女と私は、北野町にある小さなデザイン会社に勤務していた。

私達はしばらく前から、とある商品パンフレットの制作を請け負い、三好さんがメインでデザインを行っていたのだけれど……

納期を目前に控えたつい先日、クライアントから大きな修正依頼が入ってしまったのだ。

先方の話によると電話による打ち合わせの途中で、『写真ではなく、手描きのイラストを使ったらどうか』という話が出たらしい。

けれど、打ち合わせが長時間になって他の用件も混ざってしまったせいで認識の違いが起き……

クライアントは『デザイン変更を決定事項として指示した』つもりだったのに、三好さんは『変更は結局なしになった』と思い込んでしまった。

運の悪いことに、その打ち合わせをした担当の方が他案件にかかりきりになって一時的に担当が変わり、途中確認でも問題が発覚することなく、納期直前まで『初期の、写真を使ったデザイン』で進んでしまう。

そしてクライアント側の別案件が完了し、戻ってきた最初の担当さんがデザインを見て、
やっと『あれっ!?』と、すれ違いが起きていることがわかったのだ。

遥香

(先方は、『曖昧な言い方をしたこちらにも非があるし、今のままでも……』とは言ってくれたけど、)

遥香

(打ち合わせと違うものができてしまったのは確かだから、作り直すことになったのよね)

そして強く責任を感じた三好さんは、必死でクオリティを落とさないようにしながらイラストを作成し、どうにか納期に間に合わせようと連日頑張ってくれていたものの……

無理がたたって、会社で倒れてしまうことになったのだった。

三好

本当に、すみません……。先輩達にまで手伝って頂いて、迷惑をかけて……

三好

私がちゃんと、打ち合わせ結果をメールで確認していれば、簡単に防げたことだったのに……

遥香

いいのよ。私達も三好さんに任せてばかりで、二重三重のチェックを怠ってしまったもの。

遥香

それに頑張ってくれたおかげで、イラストはもう全部完成してるじゃない。

遥香

残ってるのは細かい部分だけよ。後は私ひとりでも、明日朝一の納期には十分間に合うわ。

三好

でも、先輩は他の案件もあるのに……

遥香

その辺りをどうにかするのが先輩のお仕事なのよ。

遥香

私達も同じような確認不足をしないように今後気を付けるし、

遥香

三好さんも同じミスをしないように気を付けてくれれば、それでいいの。

三好

先輩……

遥香

そりゃあ私だってね、『ミスしましたけど何か?』みたいな態度の子だったらがつんと叱るわよ。

遥香

でも三好さんは、自分の何が悪かったかちゃんとわかってるし、

遥香

ミスを取り戻そうと、必死で頑張ってくれたじゃない。

遥香

クライアントさんも、全体的なデザインはすごくイメージに合ってて気に入ったって言ってくれたしね。

遥香

あなたは、よくやってくれてるわよ。

遥香

倒れるまで働かせてしまって、ごめんね。後のことは心配しないで、ゆっくり休んで。

三好

……っ……

三好

先輩、ごめんなさい……ありがとうございます……!

遥香

ほらほら、もう泣かないの。

彼女の肩をポンポンと叩いて、私はどうにか元気づけようと言葉を探す。

遥香

あんまり気に病んでちゃ、眠れなくなっちゃうわよ。こういう時は楽しいことでも考えなさい。

三好

ひっく……た、楽しいことですか?

遥香

うん、そうね……。

遥香

あっ、ほら、あなた、彼氏いないって言ってたでしょう?

遥香

さっきのお医者さんなんかどうかしら。格好良いし、優しくて素敵な感じだったわ。

遥香

これを機会にお近付きになったりとかできちゃうかもよ?

三好

……確かに、すごくカッコイイ人でしたよね。

三好

でも、先輩……

遥香

ん?

三好

私実は、すっごく薄い顔の男性がタイプなんです……!

遥香

……あ、あら。それじゃあかなりストライクゾーン外ね。

他愛ない話をして、顔を見合わせて頬を緩める。
三好さんも空元気ではあっただろうけど、涙を拭いながら笑ってくれていた。

遥香

(……うん、きっと三好さんは大丈夫ね)

遥香

(それじゃあ私も先輩の面目を保つために、会社に帰ってから頑張らなくちゃ……!)

……そして、翌日の夜。

北野坂

遥香

ふうっ、やっと一段落ね……!

ふらつきながらも会社から出た私は、小さく伸びをする。

昨日は病院から戻った後、徹夜で例のパンフレットを修正し、何とか期限内に納品できていた。

他案件の作業もあったので、それが終わったからすぐに帰宅とはいかなかったけれど、周りが気を遣ってくれたのもあって、今はいつも帰るより、少し早めの時間だった。

遥香

(う~ん……疲れたから、早く帰りたいとも思うけど……)

遥香

(でも、せっかく早めの時間なのにこのまま家に直行っていうのも、つまらないわね)

遥香

(どうしようかしら……)

遥香

(……っと、そうだ。三好さんのことも心配よね)

遥香

(お昼には、退院して自宅に戻ってるってメールがあったけど……)

道の端に寄って携帯を確認してみる。
するとつい1時間ほど前に、彼女から新しくメールが来ていたようだ。

遥香

(……よかった。ゆっくり眠ってかなり回復したみたいね。明日から出てこれるみたい)

遥香

(『今日も無理しないで、しっかり休んでね。明日から一緒に頑張りましょう』……と)

遥香

(うん、これでよし。後は……)

遥香

(智也さんにも、仕事が終わったって連絡しておこうかな)

智也さん――三谷智也さんは、1歳上の私の恋人だ。

最近私が忙しいのを気にしてくれていたから、今日は早く帰れたことを伝えようと、簡単なメールを送る。

遥香

(……あらっ、すぐ返信がきたわね)

遥香

(『迎えに行こうか?』だって……ふふ、優しいな、いつも)

遥香

(でも、智也さんの方も最近忙しかったみたいだしね。迷惑はかけられないわ)

『ありがとう、大丈夫よ』と返信して、私は携帯をバッグにしまい込み、家ではなく中心街の方へ歩き出した。

遥香

(……さてと。結局、どうしようかしら)

遥香

(お腹も減ったし、どこかで何か……)

遥香

(……あっ)

通りかかったある建物の前で、私はつい足を止めてしまう。

それはお洒落な西洋建築の――英国館と呼ばれている場所だった。

英国館

遥香

(……たまに前を通るけど、夜はダイニングバーをやってるみたいなのよね)

遥香

(バーに苦手意識があって、ここにはまだ入ってみたことはないけど……)

実は1年ほど前、智也さんと一緒に初めてバーに行ったものの、マスターと常連らしきお客さんとの話し声が騒がしく、あまり楽しめなかったという思い出がある。

そもそも、私も智也さんも特別にお酒が好きというわけではなく、『一度バーに行ってみたいな』程度の気持ちでの初体験で、それが微妙な結果に終わったため……

それからはデート場所にバーを選ぶことはなくなってしまっていたのだ。

遥香

(でも……ここはオープンな感じで、前のところよりは初心者歓迎かも)

遥香

(あ、それに、お酒以外の料理も結構あるのね)

門のそばに置いてあるメニューを見ながら、私は少し考え込む。

……でも、心はもう決まっていたのかもしれない。

そう長い時間は悩まずに顔を上げ、私はオレンジ色の優しい光が漏れる玄関へと歩いていった。

英国館バー店内

遥香

(わあ……)

お店の中に入ると、まずはその内装に目を奪われる。
ヴィクトリアン調の、美しく重厚な調度。

ひと目で歴史のある価値の高いものだとわかるけれど、落ち着かなくなるような派手さ、過度な豪華さはなく、深い色合いからは優しい温かみを感じた。

そしてカウンターやテーブル席では、年齢も性別も幅広いお客さん達が、のんびりと寛いだ表情で食事やお酒を楽しんでいる。
雑談のざわめきもどこか柔らかくて、何だかすごく居心地のいい雰囲気だった。

遥香

(……はっ、ついこの空気に浸っちゃってたわね……)

マスターに声をかけるのも忘れていた自分に気付き、苦笑しながら口を開く。

遥香

あの……

???

ん?

???

おっと……! 申し訳ありません、気付くのが遅れてしまって。

何かちょっとした作業をしていたのか、カウンターの奥にいた男性がすぐにこちらへやってきてくれた。

そして、彼と目を合わせ――

ダレル

バー・ハイマートへ、ようこそいらっしゃいませ……

ダレル

……おや?

遥香

えっ……?

遥香

(こ、この人は、昨日のハーフのお医者さん……)

遥香

(……が、どうしてここに!?)

私達は同時に、目を丸くしたのだった。