北野神社
ゆっくり沈んでいく赤い夕日を、私達はしばらくの間見つめていた。
……こうしていると、故郷の夕焼けを少し思い出すな。
ふいにアラディンが静かな声で呟く。
アラディン達の故郷?
ああ。
オレ達の国の夕焼けも、ここと同じくらい素晴らしくて民達に愛されている。
オレンジ色の光を瞳に宿らせて、わずかな風に黒髪を揺らしながらアラディンは少しだけ遠い目をした。
歴史ある立派な建物や豊かな自然、礼拝堂の白い塔が一斉に夕日に照らされる。
まだ青い色が残っている空と、暖かい色合いに染まった街並は、誰の目にも感動的に映るはずだ。
…………。
アラディンの横顔の向こうに、私は異国の夕べを想像した。
きっとすごく素敵なんでしょうね……。
ああ……君も必ず気に入るだろう。
故郷を語るアラディンの声は、穏やかさに満ちたものだった。
(それにさっきから表情が優しい)
(きっと本当にエルサニアを愛してるんだろうなぁ……)
私は思わずアラディンを見つめていた。
夕日を映す瞳は本当に綺麗で……段々と胸が熱く、切なくなってくる。
……紗奈?
……っ。
優しい眼差しがふいにこちらに向けられ……その瞬間、心臓がどきりと跳ね上がった。
な、何でもないです……!
どきどきと鼓動がうるさくて、慌てて熱っぽい頬をうつむかせる。
どうしてこんなに胸が騒ぐのか、自分でも不思議なくらいだった。
まるで酷い風邪でも引いた時のように頭がぼうっとする。けれど、それでもアラディンを見つめていたいと感じる。
…………これは……。
…………。
ううん、紗奈、ダメですよ。
えっ? 何がですか、ナーゼル?
ナーゼルは困ったように首を振ると、ぽんと私の肩に手を置いて力説した。
今、紗奈はと~っても! 魅力的で可愛い表情をしていました。
瞳がきらきら輝いて、まつげが震えて……あんまり美しいので、私、そんな紗奈をアラディンに見せたくないです!
……!?
は……お、王子、何を?
アラディン、王子命令です。こんな綺麗で可愛い紗奈を貴方は絶対に見ないでください。
王子……命令?
なっ……! そういうのは職権乱用というのでは!?
あれっ? 王子の命令に逆らっちゃうんですか? そうまでして綺麗な紗奈をアラディンも見たいんですか?
そっ……。
ア、アラディン……?
どきどきしながら見つめると、アラディンはふいっとそっぽを向く。
そういう……わけでは……。
なら良かった! 私が紗奈を誘っても何も問題もありませんね?
ということで……紗奈!
わっ……!
笑顔で話しかけるナーゼルが思ったより近くて、私は思わずたじろいでしまった。
さっき、アラディンの話を熱心に聞いてましたね。紗奈はもしかしてエルサニアに興味がありますか?
え……? は、はい。そうですね。
そうですか! それなら王子として母国を紹介しないわけにはいきません。是非私達の国の事を知ってください!
例えば……女性のファッション。私達の国の女性はストールのような布を頭に被る習慣がありますが、紗奈にはきっと真っ白なそれが似合うと思います。
お二人の故郷の衣装が、私に……?
はい。確か白色は日本では花嫁の衣装にも使われる色ですよね?
そんな汚れの無い純白の……繊細な刺繍がついたベールをまとった紗奈はとても綺麗だろうと思います。
や、やだな……そんなふうに言われたら恥ずかしいじゃないですか……。
…………。
ああ、紗奈、照れてるんですか? ふふふっ、照れる紗奈はとてもチャーミングなんですね?
も、もう……からかわないでください!
……………………。
おやっ? アラディン、どうしました?
…………何がです?
何か言いたげな顔をしていますが……。
気のせいでは? 別にオレからは何も言う事はありません。
そうですか? 本当に?
本当に。
では紗奈、お話の続きをしましょう!
(わっ……! また顔が近い!?)
そうだ、紗奈はジャーナリストを目指しているんでしたね。
という事は、将来は日本国外での活動も視野に入れているという事ですね?
そうですね。きっとそうなると思います。
(私が目指しているのは国際ジャーナリストだし……)
なら、その時は一番最初に私の国に来てください!
紗奈には今もまさにお世話になっていますし、お礼もしたいです。
あ、ありがとうございます、ナーゼル。お気持ちは十分伝わってきました。
んん……? いえ、まだきちんと伝わってないようです。
紗奈、私の言葉は“シャコウジレイ”とは違いますよ?
……!
それまで明るかったナーゼルの笑顔が、突然妖しさをまとった大人の微笑みに変わっていた。
不意打ちの変化に、私の心臓はどきりと大きく跳ね上がってしまう。
冗談じゃなく、紗奈にエルサニアに来て欲しいです。ビジネスでもプライベートでも構いません。
ナ、ナーゼル?
さっきから距離が近いとは感じていたけれど、気付けばあとちょっとで体がくっついてしまう程近くにいる。
でもその時は……私への連絡を絶対に忘れないでくださいね?
紗奈をお姫様にする準備をして待っていますから。
(…………!? お、お姫様って、それ……っ)
その時は、朝も昼も、夜までずっと歓待して……。
囁きながら、ナーゼルの手が私の腰を抱こうとする。……けれど。
ナーゼル王子、そこまでです。
私に触れる前に、ナーゼルの腕は動きを止めていた。
まるで境界線を引くように、私とナーゼルの間にアラディンの腕がいつの間にか差し出されていたのだ。
そういうのは、国に戻ってちゃんと話し合ってから決めるべきではないですか?
大体そんないきなりでは紗奈にも失礼でしょう?
そう? アラディンは相変わらず堅いなぁ。
王子が緩いんです! 頼みますから国の代表と言う意識をお持ちください。
ふふっ、わかったわかった。
確かに性急な男は嫌われてしまうかもしれないしね。今日はこの辺で止めておこう。
是非そうしてください。
ため息をつくアラディンを私は思わず見つめてしまっていた。
(今のは……私を助けてくれたの? それともやっぱり王家の品位に関わるからとか……?)
…………。
私の視線に気付いたらしいアラディンと一瞬目が合うけど、それはすぐにそらされてしまった。
このままだと微妙な空気になりそうで、私は改めて笑顔を作って話し始める。
あの、今ナーゼルに誘ってもらいましたけど、私は元々、いつかエルサニアには行こうと思ってたんです。
……そうなのか?
はい。私はジャーナリスト志望ですから。
エルサニアのニュースは私もよく見ている。きっと現地の人達には伝えたい、訴えたい思いがたくさんあるだろう。
その時には、この夕日とエルサニアの夕日、どっちが綺麗か私の目で見比べてみようと思います!
…………。
そう……。わかりました、紗奈! その時は国を挙げて貴女を歓迎します。
ふふ、本当ですか?
もちろんですよ。ねえ、アラディン?
ああ……。
……そのためにも早くオレ達の国を平和にしないとな……。
…………。
エルサニアを母国に持つ、アラディンの気持ちは一体どんなものなんだろう。
ナーゼルだって笑顔を見せているけれど、内戦の絶えない現状に何も思ってないわけがない。
今だって王子という立場から何者かに追われている。
…………。
それじゃあ二人とも、約束しましょう!
私は二人の目をそれぞれ見つめて、右手の小指を差し出した。
……? 約束……というのはわかるが、その手は……?
これは日本の風習の一つで、「指きり」っていうんです。
誰でも知ってる風習で……約束をかわす相手と小指を絡めて、約束が守られるようにって願うんです。
なるほど。東洋のおまじないか。
何だか可愛らしいですね。
(まぁ、指きりの時に口ずさむ歌は結構物騒な内容なんだけど……)
……私、いつか必ずエルサニアに行きますから。
(その時には……今よりエルサニアが平和になっているといいな)
…………。
……ああ。わかった、紗奈。
私がしているように、アラディンが右手の小指を差し出してくれる。
約束だ。
そのアラディンの姿を見た瞬間、どきりと少しだけ胸が跳ねた。
では私はこっちの手でお願いします。
何だか無性に嬉しくなってきて……私は笑顔で二人と指を絡めあった。
約束、絶対ですよ?
ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます……ゆびきった!
指を離す瞬間、私達はお互いの顔を見てくすくすと笑い合った。
私達には、きっとそれぞれ夢がある。
アラディンにはアラディンの、ナーゼルにはナーゼルの。そして私は……。
(うん……いつか本当にエルサニアに行こう)
(今より平和になったエルサニアに、その時は、私も真実を伝える立派なジャーナリストとして……)
(この約束は……絶対叶えてみせるんだ……)
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北野神社
……やがて太陽は完全に沈み、辺りは静かな夜の帳(とばり)に包まれた。
途中でまた軽く食べる物を買って準備を整えた私達は、神社のすみに集まって今後の作戦を練る。
眠りの館での事がニュースか何かになってないかと思ったんですけど、スマホで調べる限り、特にそういう情報は流れてないみたいでした。
……元々眠りの館は、リラックスしすぎてお客さんが眠ってしまうという事もあって話題だったので……。
誰も今事件が起こっているなんて思っていないのかもしれないな。
幸いなのは、亜美が無事に家に戻っている事ですね。
機種変した方のスマホには、亜美からの『置いて帰るなんて薄情者~!!』という怒りのメールが届いていた。
今はその文句のメールがものすごく嬉しい。
さすがに本当の事は言えなかったので、「あの後はナーゼルたちに道案内を頼まれただけだから」と、もらったメールに返信する形でごまかした事情を伝えておいた。
それにしても、一国の王子がこんな神社に潜んでいるっていうのに、
王子が行方不明だ~!って騒ぎになってないのは、ちょっと変ですね。
ああ、私達がこの異人館周辺にお忍びで来ている事は、今回来日している関係者もほとんど知らないんです。
えっ!? そうなんですか?
今ホテルにいるのは日本で言う影武者だ。
……結構変な言葉を知ってますね、アラディン。
アラディンはピンポイントな日本マニアなんです。ニンジャとかブショーとか好きですもんね。
へえ……。
おい、そんな目で見るな。ナーゼル王子も余計な事は言わないでください。
まぁそういう訳で、エルサニアの王子は今、公式にはホテルで美味しい料理を食べていることになっています。
事情はわかりました……。けど、それじゃああまりにもナーゼルが危険すぎませんか?
万が一、ここにいるナーゼルに何かあった時に、日本の警察や公的機関がすぐに動いてくれるかどうか……。
うん、紗奈はとても優しいですね。
でも大丈夫です! 私にはアラディンという超優秀なSPがいますから!
ナーゼルはどこか自慢げにアラディンの肩を叩いた。
……過信は禁物ですよ。ほんの少しの隙が命取りになるかもしれないんです。
そんなふうにアラディンは言うけど、二人が並んでいる姿は私の目にはとても頼もしく映った。
(単なる主従じゃなくて信頼を感じる……このチームワークがあれば何でも乗り切れちゃいそう)
それで、あの、この後お二人は一体どうするんですか?
暗闇に紛れてホテルに戻るという手もあるだろうけど、逆に何かあった時にその暗闇がネックになるかもしれない。
…………。
…………。
……ん?
(な、何、その沈黙……というか、嫌な予感しかしないんだけど……)
紗奈、ちょっと耳を。
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え、えええぇっ……!!?