北野坂
怪しい奴がいる。
アラドのその言葉に、私の体からはさっと血の気が引いていった。
確かにあれは……。
少し様子を窺おう。
移動を止めて、一旦人通りのない小道に入っていくアラドとナーゼル。
心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら私も慌てて二人について行った。
二人が小道からある方向を窺うので、アラドの背に隠れつつ、私もこっそり様子を見てみる。
(……ん?)
しかし視線の先にあったのは……。
んんん……?
おい! 変な声を出すな、気付かれる。
アラドは咎めるように言ったけれど、私はがくっと脱力した。
あの……あれは怪しい人じゃなくてですね……。
あの女性が着ているのはオレ達の故郷の民族衣装に似ている……もしかしたら追手の一人かも……。
だ、大丈夫です! あれはただの占い師ですから!
……そう。そこにいたのは、アラビアンな衣装を着た女性の占い師だったのだ。
神秘性を出すためにそういう格好をしているんだろうし、日本では珍しくもない光景なんだけど。
……占い師?
はい。そもそもあの人は日本人ですし、あの格好は客寄せというか……演出でしているだけなんです。
いや、もしかしたら日本人の協力者がいる可能性が……。
ほ、本当に大丈夫ですよ! 何なら私、占ってもらってきましょうか?
うーん……確かに私達の国の衣装とは厳密には違うようですが……。
それに、さっきから若い女性が楽しそうなやり取りをしてお金を払っていますし……本当に占い師なのでしょうか?
…………。
たぶん安心して大丈夫ですよ。
二人はまだ少し心配そうにしていたけれど、ひとまずは納得してくれたようだった。
それより、逃げるなら今がチャンスじゃないですか? 幸い周りに怪しい人はいませんし……。
安全のために、一旦この周辺……北野から離れたほうがいいと思うんです。
……いや、今はかえってその方がまずい。
えっ?
近くにいた方が相手の目をごまかせる。奴らはオレ達が慌てて逃げていると思っているだろうからな。
あ……なるほど。“灯台下暗し”ってわけですね。
……もとくらし? どういう意味だ?
ええと、日本のことわざ……言い伝えのようなものです。
灯台は遠いところを照らすけれどそのすぐ下は真っ暗で、
身近なものほどかえって見落としやすいっていう事の例えなんです。
日本にはそんな言葉があるのか。面白いな。
気に入ってもらえました? ……それなら、私にも一つ教えてもらえませんか?
ん?
今、一体何が起こっているのかを。
私は一度言葉を切ると、じっとアラドとナーゼルを見つめた。
…………。
さっきも少し話したが、企業間の争いだ。産業スパイが……。
さすがにもう、それじゃごまかせないですよ。
平和な日本でこんなことが起こるのはおかしい。民間人を巻き込んで眠らせるなんて……。何か隠してるんでしょう?
例えば……二人は来日中のエルサニアの──。
……さすが、お嬢さんは察しがいいですね。
それまで黙ってやり取りを聞いていたナーゼルは、ふいに笑顔を浮かべると肩をすくめてみせた。
これ以上はだませそうにありませんね。
そう。貴女の言う通り私達はエルサニア王国から来ました。
“社長”! それ以上は……
アラド、もう隠しても無駄でしょう。こうなったら紗奈にも協力してもらう方がいい。
…………。
お察しの通り……私は電機メーカーの社長ではなく、エルサニアの第6王子、ナーゼルです。
……やっぱり……。
ナーゼルの告白を聞いて、私はずっと胸に引っかかっていたものがようやくすっきりした。
今朝、王子の来日に関するニュースを見ましたから、そうじゃないかとずっと思っていたんです。
ジャーナリストにはそういった勘も重要だと思いますよ。
……で、彼は私の護衛の『アラディン』です。
…………。
ナーゼルに声をかけられて、アラドはその場にひざまずいた。
物語に出てくる、主人に忠誠を誓った従者のような姿。
カジュアルな服に着替えたはずなのにここだけ急に異国になったようだ。
彼の性格なのか、その短いやり取りにも無駄な動きは無いように見えた。
アラディン……あ、だから“アラド”さんだったんですね。
偽名かと思ったけど、どうやら愛称のようなものだったらしい。
今まで隠していて申し訳ありません。悪意はなかったのですが……。
いえ、今の中東の問題を思えば仕方ないことだと思います。
お忍びで来ている理由も、エルサニアの王室関係者だというのなら納得だ。
ナーゼルは目を細めて、華やかな笑顔を浮かべた。
そう言ってもらえると助かります! 貴女が聡明な人でよかった。
ええ……でもまだ全てが信じられるわけじゃないんですが……。
ここで完全に安心して、二人の言葉をまるっと鵜呑みにするのはやっぱりちょっとできない。
すると立ち上がったアラド……ではなくアラディンがにこりともせずに呟いた。
それはお互い様だがな。
(むっ……!)
彼の仕事を考えればその発言も理解できなくはないけど、カチンとくるものはくる。
私をここまで連れて来たのはアラディン達なんですが……。
う……それは……。
大体、私は最初から嘘なんか一つもついてませんからね! 身元だって明らかだし、学生証だってあるし!
……学生証を捏造(ねつぞう)するのは難しくないと思う。
なっ……!
(私が一般人を事件に巻き込むような危ない奴らの仲間だっていうの!?)
今もまだ眠りの館にいる亜美の事を思い出して、私は怒りが沸いてきてしまった。
まぁまぁ、二人とも。今は仲違いをするのは止めましょう。ねっ?
協力し合って安全を確保するのが今の私達の共通の目的ですし……。
……わ、わかりました。
(確かに今は安全な場所に移動する方が先決だし……)
それじゃあ、ひとまず人の多い異人館に行きましょうか? 観光客に紛れた方がいいでしょうし。
・
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英国館
……それから私達は眠りの館からそこまで離れていない異人館へと移動した。
観光客を装うため、合間に適当なショップを覗いたりもする。
(追手の目を欺くためには仕方ないもんね)
う~ん、それにしても今日はいい天気ですね。
……近くには美術館もあるのか。ふうん……。
(…………)
(追手の目を欺くためのはずなんだけど……普通に遊んでいる感じがするのは気のせいかな?)
紗奈、ここは何と言う館だ?
あ、はい。ここは英国館ですね。外観の様式に当時の英国らしさがあって人気で……。
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・
北野坂
一箇所にずっと居続けるのもよくないかと思ったのと、周辺の地理を覚えたいという二人の要望もあって、
私達は北野の街を適当に移動して回った。
…………。
ん……? アラディン、どうかしました?
途中、アラディンが急に足を止めたので小声で尋ねる。
いや……何だか変わった匂いが……。
変わった匂い?
……胃を刺激されるような……。
刺激……!? 異臭!?
あ、たぶん違います、紗奈。アラドは食欲が沸くいい匂いがすると言っているんだと思います。
へ……?
…………。
そういえばと辺りを見回せば、近くにはたこ焼き屋さんがある。
なるほど。確かにたこ焼きの匂いは二人には馴染みがないでしょうね。
タコヤキ?
子供にも大人にも人気のおやつみたいなものです。小麦粉とたこで出来ていて、熱々を食べるのがまたおいしくて。
…………。
…………。
アラディン、もしかしてたこ焼きが食べたいんですか?
い、いや……。
はい! 私は食べたいです!
……ナーゼル。
いいじゃないですか。まともに食事したのは大分前ですし、お腹が空きました。
(お忍びだから食事一つとっても色々不便なのかな……?)
それじゃあ私、たこ焼きを買ってきますね。
ナーゼルもああ言ってるし、アラディンも何だかんだで興味があるっぽいので私は急いでたこ焼きを購入して来た。
お待たせしました。熱いので気をつけて食べてくださいね。
容器の蓋を開けると、湯気と共にソースのいい匂いがふわっと漂う。
……………………!!
しかし、たこ焼きを見たアラディンは私の予想を遥かに超える行動に出た。
ほかほかのたこ焼きを見た瞬間、私の手から強引にパックを奪い取ったかと思うと……、なんとそれを遠くに投げ捨ててしまったのだ。
えええっ!!? ちょっと何してるの!?
あれは小型の爆弾だ!
はいっ!? 爆弾!?
しかし当然爆弾でも何でもないので、投げ捨てられたたこ焼きのパックは無残に地面に落下しただけだった。
……不発だったか?
そもそも爆弾じゃありませんから! もう、もったいないっ!
食べ物を大事にしないといけないのは人類共通のルールだと思う。……ので、私は遠慮なくアラディンをにらんだ。
私の視線を受けると、アラディンは少し驚いたように眉を上げる。
はー……半分はダメになっちゃったけど、残りは無事だったかな。
私は落下したたこ焼きに駆け寄って中身を確かめた。
パックは奇跡的に壊れておらず、生き残ったたこ焼きも砂で汚れたりしていない。
二人とも、そこで見ていてください!
……っ。
お、オーケー、紗奈。
私は割り箸をパキンと割ると、少し潰れたたこ焼きをぱくっと口に放り込んだ。
…………!!!!
もぐもぐ…………うん、おいしい。
私は二人の前で実際にたこ焼きを食べて安全性を証明してみせた。
はー、おいしかった! ……あれが安全な食べ物だって伝わりましたか?
うん、よーくわかりました。ついでにとてもおいしそうだっていうのも。
……悪かった。オレが勘違いをしていたようだ。
アラディンは少し気まずそうにしながらきちんと謝ってくれた。
意外と素直な彼の姿を見て、私はくすっと笑ってしまう。
ふふっ、それなら良かったです!
改めて、今度は私がたこ焼きを買ってきます。
……そんなこんなで、アラディンとナーゼルも何とか無事にたこ焼きデビューを果たした。
……とてもおいしかった……。
そんなふうに呟くアラディンに少し笑ってしまいながら……私達は観光客のフリを続行した。
しかしその後も、偶然起きた震度3程度の地震を地下での核実験だと思ったり(何かのニュースで見たらしい)、銭湯の煙突から出る煙を警戒したりなどアラディンは事ある度に眉間にシワを寄せては真顔になってを繰り返した。
(アラディンって、日本語はペラペラなのに案外日本のことを知らないんだ。……でもなんか)
(意外と素直で可愛い人なのかも……なんて思ったりして)
何かを警戒するのも、一国の王子を守るという面から考えると、一生懸命仕事をしていると言えると思う。
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そして、アラディン達が北野異人館周辺の地理などを大体理解する事にはすっかり夕方になっていたので……。
私はちょっとした企みを思いついて、ある場所へと二人を案内したのだった。
北野神社
……ここは……。
西日が辺りを照らす中、周囲を見回したアラディンが目を見開く。
内心で、やった!と思いながら、私は笑顔で二人に振り返った。
どうですか? 私達の街……北野の夕暮れ、ちょっとしたものでしょ?
眩しい陽射しに目を細めながら、気持ち、胸を張る。
私が二人を連れて来たのは、わずかに高台になっているために、北野の街を見下ろす事ができる神社だった。
古くから開港し、異国情緒と日本の文化が溶け合う街が、まろやかな夕日に包まれていく。
……美しいな。
オレンジ色に照らされたアラディンは一言、そう言ってくれた。
ナーゼルも同意するように頷いている。
ふふっ……やった!
口角が持ち上がるのを、私は我慢できなかった。
ここなら、絶対アラディンも感動すると思ったんですよね。
……え?
だって、ナーゼルは結構楽しんでくれているのに、アラディンは眉間にシワを寄せてばかりだなと思って……。
ならここの夕焼けを見せてやる! ……って、実はちょっと前から企んでました。
…………。
オレのために、ここに?
アラディンの反応は期待してました。もちろん、ナーゼルにもここの夕日は見て欲しかったんですけどね。
…………。
そうか。ありがとう、紗奈。