ベンの家
~10話~

北野坂

早足で進むうち、辺りはすっかり夜の色に染まっていた。

千種と初めて会った日のように、街の明かりがきらめいている。

けれど……

公園

…………!!

辿り着いた広場で、彼女の隣にいるのは、要だった。

中心ではジャズ演奏のパフォーマンスが行われていて、洒落た雰囲気の中、恋人同士らしい男女が集まって笑みを交わしている。

視線を巡らせて――足が止まりそうになった。

他の恋人達と同じ、楽しげな笑顔を浮かべた、千種と要の2人を見つけたから。

どうして、2人を追いかけてきたのだろう。

2人の所に行ってどうしたいのだろう。

わからないけれど――どうしても引き返す事ができず。

私は再び足に力を入れて、千種達のもとへ駈け出していた。

千種――

人混みをすり抜けて彼女の名前を呼ぶが、音楽や人の話声に遮られて届かなかったらしい。
近くまで行き、手を握って初めて、彼女は驚いた顔でこちらを振り返った。

千種

樹!? どうしてここに……

話したい事があるんだ。一緒に来てくれ!

千種

えっ、ちょ、ちょっと……

そのまま彼女を引っ張っていこうとして、立ち止まる。
千種の隣にいた要は、黙って私を見つめていた。

……要。すまないが……

千種はもらっていく。

千種

……!?

千種

な、何言ってるのよ、樹ってば……!

(……また何か、私は変な事を言ったらしい)

彼女を連れ去る以上、せめてその断りを入れておこうと思ったのだが、千種は顔を赤くしている。

しかしそれにどう返していいかわからず……私はとにかく、千種を連れて再び駆け出した。

北野坂

千種

はあ、はあっ……

千種

もう、どうしたのよ、樹。

……すまない。

しばらく走ったところで、私達は足を止めた。

千種が息を整えるのを待つが……その間も、さっきの光景が脳裏をよぎる。

…………要と何の話をしていたのか、聞いてもいいか?

千種

え……?

千種

……その、ええっと……

……いや、いいんだ。

ただ、急に君を連れてきてしまったからな。大事な話だったら悪かった。

千種

う……ううん、いいのよ。要くんも、大した用事じゃなかったみたいだし。

私も人の事は言えないと思うが、千種はあまり嘘が上手ではないようだった。
だが、それを無理に聞き出す必要もないのだと思う。

(要はきちんと自分の気持ちに向き合って、それを伝えようとしていたはずだ)

(千種を連れ出してしまったが……私は、要が彼女に何か言うのを、邪魔したかったわけじゃない)

(ただ、私も……私の気持ちを千種に伝えたかったんだ)

何を言えばいいのか、今でもしっかり固まっているとは言えないが。

それでも、次に2人きりになる機会が巡ってくるのを、ぼんやりと待つつもりにはなれなかった。

千種

……それで、話って?

ああ、立ち話も何だから……

言いかけてから、自分の家が近い事に気が付く。

(しかし、千種をまた家に招くわけには……)

千種

……私は、構わないわよ。

…………千種。

千種

よかったらまた、樹の家にお邪魔させて。

……わかった。

樹の部屋

どうぞ。そこの椅子に座ってくれ。紅茶でも淹れよう。

千種

ありがとう。

手早く2杯の紅茶を用意して、千種と向い合って座る。

彼女はティーカップに口をつけて、柔らかな吐息をこぼした。

千種

四ツ葉の紅茶も好きだけど、樹が淹れてくれる紅茶も、好きよ。

…………

微笑む彼女に、また言葉が出てこなくなる。

何も言えないでいると、千種は落ち着いた表情で部屋にある剥製を眺めて、ふっと笑みを深めた。

千種

ねえ、樹。初めて会った日……あの時は、酷い事を言ってしまってごめんなさい。

千種

樹に会えて、色々な話を聞けて良かった。本当にそう思ってるわ。

……そう、か。

妙に心拍数が上がっているのを自覚する。
緊張しながら、私は千種の瞳へ視線を向けた。

…………千種。私からの話だが……

実はもうすぐ、日本を離れなくてはいけないんだ。数日中には、海外に戻るつもりでな。

千種

えっ……

千種が小さく息を呑む。だが、思ったより冷静というか、納得した様子で受け止めたようだった。

千種

……そっか。……そう……よね。

千種

最初から、『1年の多くを海外で過ごしてる』って言ってたものね。

千種

じゃあ、これからかなり長い間、会えなくなってしまうんだ……

ティーカップを置き、顔を伏せがちにした彼女の姿からは、寂しさが伝わってきた。

けれど、それがどの程度のものなのか判断がつかない。

知り合いがいなくなって寂しい、程度なのか、それともそれ以上なのか……

(……いや、彼女の反応を探るより、今はまず、自分の思いを伝えるべきだろう)

……千種。

気持ちのままに千種の手を握ると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。

千種

い、樹……?

千種。君には、私を忘れないでいてほしいんだ。

千種

……? 忘れるって……

会ってそれほど時間も経っていないし、私は地味で面白みのない男だが……

千種

……そ、そう? 会ってからの時間はともかく、樹は目立つし色々と面白い人だと思うわよ。

……そうなのだろうか。

いや、とにかく、つまり……

気を取り直して、考えを整理しながら言葉を紡ぐ。

千種に一番伝えたい事。それはなんだろう。

(…………ああ、そうだ)

私は……

私がいなくても、君の隣を空けておいてほしいと、そう言いたかったんだ。

千種

…………っ

……反対側の隣に、別の誰かが座る事までは、私に口出しはできないが。

だが、来年戻ってきた時に、また私は君の手伝いをしたい。一緒に遊びに行ったりもしたい。

その居場所がなくなっていたら……私にとって、それはすごく寂しい事だと思ったんだ。

千種

樹……

……ゆっくりと、千種の目許が色づいていった。

(これは……私が変な事を言った時の反応だと思うが……)

微妙に不安になってしまいつつ、控えめに続きを紡ぐ。

……だから、日本を離れてからも……君に連絡を取り続けて、いいだろうか。

千種

…………えっ!?

――その反応は、今までで最も大きいものだった。

千種は大きな目をさらに大きくし、腰を浮かせて私に詰め寄る。

千種

えーと……海外に戻ったら、もう連絡よこさないつもりだったの!?

い、いや、私としては、連絡はしたかったんだが。

千種

……本当に?

ああ。だが、千種が迷惑に思わないだろうかと気になって。

その……女性は、私が思っていたよりずっと、繊細な生き物のようだから。

千種

…………

そう言うと、千種は拗ねたような面持ちではあったものの、体を引いて椅子に座り直した。

千種

繊細な生き物……って言われると、何だか変な感じもするけど。

千種

まあ……色々気を遣ってくれたのはわかったわ。

千種

でも、別に女だって未知の生命体ってわけじゃないんだから。大事な所は一緒よ。

大事な所……

千種

せっかくできた友達とは、離れてたって関係なく、これからも仲良くしていきたい……とか、そういう気持ちの事。

千種

樹と、同じ思いよ、きっと。

……そうか。私と同じ……

私が君を思っているのと同じくらい、君は私を思ってくれているんだな。

千種

……だ、だから、そういう誤解を招く言い回しはやめてよね。

千種

ところで……樹の今使ってる携帯って、日本のよね? 海外にいる時は現地の携帯かしら?

千種

国際メールだとお金かかるかな……ねえ、パソコン持ってる?

千種はすぐに明るい笑顔に戻り、早速離れている間の事を考え始めたようだった。
どこまでも前向きな彼女に、つい顔がほころぶ。

さっきまでの焦りなど忘れて……私達は『これから』の事を話し合ったのだった。

住宅街

……そうして、また数日後。

別れの日の空は、綺麗に澄み渡っていた。

ハナも一緒に家の前まで出てきて、樹にじゃれついて挨拶をする。

千種

じゃあ樹、元気でね。忙しかったら無理しなくていいけど、たまに電話とか、メールしてね。

ああ。頑張って絵文字をマスターしよう。

千種

あはは……楽しみにしておくわ。

千種

それと、風邪引いたりしないようにね。

千種

良かったら、樹の住んでる所とか、一緒に猟に出る犬の写真とか、送って。

ああ、わかった。

千種

それから……

……!

千種

(あっ……いけない……)

つい涙ぐんで、喉を詰まらせてしまった。

千種

駄目ね……笑顔で見送ろうと思ったのに、いざその日になるとすごく寂しくなっちゃって。

…………

……いや、駄目などという事はない。

千種

(……!)

樹は少し困った顔をしていたけれど……意を決したように、私をぎゅっと両腕で包んでくれた。

ユータの事があった日、泣いている私を抱きしめてくれた時と、同じように。

どきどきと心臓が弾む。でも、すごく安心する温かさだった。

必ずちゃんと連絡するから。それに、来年になったら、一番に君に会いに行こう。

千種

樹……

照れながら彼を見上げる。と、その直後――

???

……ふうん、僕より先に千種さんに会いに行くんだ。

???

友達甲斐がないよね、樹さんって。

からかうような声が聞こえて、私達は思わず体を離した。

要……。どうしてここに?

僕も見送りに来たんだよ。お待たせ、千種さん。

朗らかに笑う要くんに、私ははにかみ混じりで呟く。

千種

このまま樹が出発しちゃうかと思ったわ。間に合って良かった。

ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃってさ。

千種

(……きっちりしてる要くんが寝坊……ね)

千種

(もしかしたら、私と樹が2人で話せるように、わざと遅れてきてくれたのかしら)

そんなふうに思うものの、要くんは何を釈明する事もなく、バッグから小さな包みを取り出した。

はい、樹さん。僕と千種さんから。

……これは、餞別の贈り物か?

千種

出発前であんまりかさばるといけないから、ちょっとしたお菓子と、お守りくらいだけどね。

……千種と、要から……

樹はプレゼントをしげしげと眺めると、いぶかしげに要くんを見やる。

要、怒っていないのか?

怒るって?

この前……広場にいる時、私が無理やり千種を連れていっただろう。

その事について謝ろうと電話やメールをしたが、連絡を返さなかったじゃないか。

千種

え……そうだったの? 要くん。

……さあ。着信に気付かなかったんじゃないかな。

…………

千種

私と要くんは、あの後も普通に連絡取ってたわよ。

千種

あの時私と要くんが広場にいたのも、今日のこのプレゼントについて相談するためだったんだから。

……何……?

まああの日は、千種さんを呼び出して、『実は樹さんにプレゼントを渡したいと思ってて……』くらいしか話せなかったけどね。

何か勘違いしたのか、樹さんがすごい剣幕で来たからさ。

………………

千種

プレゼントっていうから、誕生日か何かかなと思って、樹には秘密にしてたんだけど……

千種

その直後にもうすぐ日本を離れるって教えてもらったから、ああ、餞別のプレゼントだってわかったのよ。

………………

樹はしばらく思案顔で考えこんだかと思うと、むうと眉をひそめた。

……そうか。要、あれは嘘だったんだな。

千種

(……? 嘘って……?)

私が煮え切らない態度だったから、はっきりしろと発破をかけたんだろう。そうだな?

いやあ、何の事だか……

私が千種を抱きしめているのを見ても、少しも怒った様子がないし。

外国じゃハグくらい普通の挨拶だよね。……よしよし、ハナ、久しぶり。元気そうだね。

追及する樹にもしれっとした顔で、要くんは足元に寄ってきたハナに構い始める。

千種

(……???)

そんな2人を交互に見比べる私は、彼らが何の話をしているかわからずきょとんとしてしまった。

千種

2人とも、何か喧嘩してたの?

……そういうわけではないのだが。

ちょっと人生の後輩としてアドバイスをしただけだよ。

千種

普通は逆だと思うけど……

で、樹さん。アドバイスは役に立った? 自分の気持ちはわかったのかな。

……ああ……かなり悩んで自分を見つめ直してみたのだが。

よくわからないという事が、よくわかった。

…………

やっぱり私には何の話かわからないものの、要くんは呆れた表情で肩をすくめる。

すると――

だが、今わかっている事がひとつある。

っと……

千種

わ……!!

樹は私達をまとめて抱きしめて、しみじみと告げた。

私が今、君達と離れがたいと思っている事だ。

しばらく会えなくなるのは、すごく寂しい。ずっとここにいたい。

……こんなに誰かとの別れを切ないと思ったのは、初めてだな。

だが、これはこれでとてもいい気分だ。

千種

(樹……)

遠慮なく腕の中に閉じ込められて、気恥ずかしい。

でも……私は思い切って腕を伸ばし、彼と要くんを抱きしめた。

千種

この寂しさがあるからこそ、再会の時の喜びが膨らむものよね。

笑って言うと、要くんも樹と私をぎゅうっとハグする。

……まだまだ時間はかかりそうだけど、樹さんにしては積極的になった方かな。

じゃあ、また来年。今度は僕にも、色々話聞かせてよ。

千種

うちでも新しい子を保護してるだろうし、四ツ葉でも新しいデザートを開発中だから。楽しみにしててね。

……ああ。

また来年……君達に会うために、帰ってこよう。

寂しさはあっても、悲しみはなかった。

出会えてからの日々を祝福するような木漏れ日の下、私達は笑い合う。

絆がこれからも深まっていくだろう予感に、胸を弾ませて。

さよなら、ではなく、またね、を交わして――

ベンの家
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