北野坂
早足で進むうち、辺りはすっかり夜の色に染まっていた。
千種と初めて会った日のように、街の明かりがきらめいている。
けれど……
公園
樹
…………!!
辿り着いた広場で、彼女の隣にいるのは、要だった。
中心ではジャズ演奏のパフォーマンスが行われていて、洒落た雰囲気の中、恋人同士らしい男女が集まって笑みを交わしている。
視線を巡らせて――足が止まりそうになった。
他の恋人達と同じ、楽しげな笑顔を浮かべた、千種と要の2人を見つけたから。
どうして、2人を追いかけてきたのだろう。
2人の所に行ってどうしたいのだろう。
わからないけれど――どうしても引き返す事ができず。
私は再び足に力を入れて、千種達のもとへ駈け出していた。
樹
千種――
人混みをすり抜けて彼女の名前を呼ぶが、音楽や人の話声に遮られて届かなかったらしい。
近くまで行き、手を握って初めて、彼女は驚いた顔でこちらを振り返った。
千種
樹!? どうしてここに……
樹
話したい事があるんだ。一緒に来てくれ!
千種
えっ、ちょ、ちょっと……
そのまま彼女を引っ張っていこうとして、立ち止まる。
千種の隣にいた要は、黙って私を見つめていた。
樹
……要。すまないが……
樹
千種はもらっていく。
千種
……!?
千種
な、何言ってるのよ、樹ってば……!
樹
(……また何か、私は変な事を言ったらしい)
彼女を連れ去る以上、せめてその断りを入れておこうと思ったのだが、千種は顔を赤くしている。
しかしそれにどう返していいかわからず……私はとにかく、千種を連れて再び駆け出した。
・
・
・
北野坂
千種
はあ、はあっ……
千種
もう、どうしたのよ、樹。
樹
……すまない。
しばらく走ったところで、私達は足を止めた。
千種が息を整えるのを待つが……その間も、さっきの光景が脳裏をよぎる。
樹
…………要と何の話をしていたのか、聞いてもいいか?
千種
え……?
千種
……その、ええっと……
樹
……いや、いいんだ。
樹
ただ、急に君を連れてきてしまったからな。大事な話だったら悪かった。
千種
う……ううん、いいのよ。要くんも、大した用事じゃなかったみたいだし。
私も人の事は言えないと思うが、千種はあまり嘘が上手ではないようだった。
だが、それを無理に聞き出す必要もないのだと思う。
樹
(要はきちんと自分の気持ちに向き合って、それを伝えようとしていたはずだ)
樹
(千種を連れ出してしまったが……私は、要が彼女に何か言うのを、邪魔したかったわけじゃない)
樹
(ただ、私も……私の気持ちを千種に伝えたかったんだ)
何を言えばいいのか、今でもしっかり固まっているとは言えないが。
それでも、次に2人きりになる機会が巡ってくるのを、ぼんやりと待つつもりにはなれなかった。
千種
……それで、話って?
樹
ああ、立ち話も何だから……
言いかけてから、自分の家が近い事に気が付く。
樹
(しかし、千種をまた家に招くわけには……)
千種
……私は、構わないわよ。
樹
…………千種。
千種
よかったらまた、樹の家にお邪魔させて。
樹
……わかった。
・
・
・
樹の部屋
樹
どうぞ。そこの椅子に座ってくれ。紅茶でも淹れよう。
千種
ありがとう。
手早く2杯の紅茶を用意して、千種と向い合って座る。
彼女はティーカップに口をつけて、柔らかな吐息をこぼした。
千種
四ツ葉の紅茶も好きだけど、樹が淹れてくれる紅茶も、好きよ。
樹
…………
微笑む彼女に、また言葉が出てこなくなる。
何も言えないでいると、千種は落ち着いた表情で部屋にある剥製を眺めて、ふっと笑みを深めた。
千種
ねえ、樹。初めて会った日……あの時は、酷い事を言ってしまってごめんなさい。
千種
樹に会えて、色々な話を聞けて良かった。本当にそう思ってるわ。
樹
……そう、か。
妙に心拍数が上がっているのを自覚する。
緊張しながら、私は千種の瞳へ視線を向けた。
樹
…………千種。私からの話だが……
樹
実はもうすぐ、日本を離れなくてはいけないんだ。数日中には、海外に戻るつもりでな。
千種
えっ……
千種が小さく息を呑む。だが、思ったより冷静というか、納得した様子で受け止めたようだった。
千種
……そっか。……そう……よね。
千種
最初から、『1年の多くを海外で過ごしてる』って言ってたものね。
千種
じゃあ、これからかなり長い間、会えなくなってしまうんだ……
ティーカップを置き、顔を伏せがちにした彼女の姿からは、寂しさが伝わってきた。
けれど、それがどの程度のものなのか判断がつかない。
知り合いがいなくなって寂しい、程度なのか、それともそれ以上なのか……
樹
(……いや、彼女の反応を探るより、今はまず、自分の思いを伝えるべきだろう)
樹
……千種。
気持ちのままに千種の手を握ると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
千種
い、樹……?
樹
千種。君には、私を忘れないでいてほしいんだ。
千種
……? 忘れるって……
樹
会ってそれほど時間も経っていないし、私は地味で面白みのない男だが……
千種
……そ、そう? 会ってからの時間はともかく、樹は目立つし色々と面白い人だと思うわよ。
樹
……そうなのだろうか。
樹
いや、とにかく、つまり……
気を取り直して、考えを整理しながら言葉を紡ぐ。
千種に一番伝えたい事。それはなんだろう。
樹
(…………ああ、そうだ)
樹
私は……
樹
私がいなくても、君の隣を空けておいてほしいと、そう言いたかったんだ。
千種
…………っ
樹
……反対側の隣に、別の誰かが座る事までは、私に口出しはできないが。
樹
だが、来年戻ってきた時に、また私は君の手伝いをしたい。一緒に遊びに行ったりもしたい。
樹
その居場所がなくなっていたら……私にとって、それはすごく寂しい事だと思ったんだ。
千種
樹……
……ゆっくりと、千種の目許が色づいていった。
樹
(これは……私が変な事を言った時の反応だと思うが……)
微妙に不安になってしまいつつ、控えめに続きを紡ぐ。
樹
……だから、日本を離れてからも……君に連絡を取り続けて、いいだろうか。
千種
…………えっ!?
――その反応は、今までで最も大きいものだった。
千種は大きな目をさらに大きくし、腰を浮かせて私に詰め寄る。
千種
えーと……海外に戻ったら、もう連絡よこさないつもりだったの!?
樹
い、いや、私としては、連絡はしたかったんだが。
千種
……本当に?
樹
ああ。だが、千種が迷惑に思わないだろうかと気になって。
樹
その……女性は、私が思っていたよりずっと、繊細な生き物のようだから。
千種
…………
そう言うと、千種は拗ねたような面持ちではあったものの、体を引いて椅子に座り直した。
千種
繊細な生き物……って言われると、何だか変な感じもするけど。
千種
まあ……色々気を遣ってくれたのはわかったわ。
千種
でも、別に女だって未知の生命体ってわけじゃないんだから。大事な所は一緒よ。
樹
大事な所……
千種
せっかくできた友達とは、離れてたって関係なく、これからも仲良くしていきたい……とか、そういう気持ちの事。
千種
樹と、同じ思いよ、きっと。
樹
……そうか。私と同じ……
樹
私が君を思っているのと同じくらい、君は私を思ってくれているんだな。
千種
……だ、だから、そういう誤解を招く言い回しはやめてよね。
千種
ところで……樹の今使ってる携帯って、日本のよね? 海外にいる時は現地の携帯かしら?
千種
国際メールだとお金かかるかな……ねえ、パソコン持ってる?
千種はすぐに明るい笑顔に戻り、早速離れている間の事を考え始めたようだった。
どこまでも前向きな彼女に、つい顔がほころぶ。
さっきまでの焦りなど忘れて……私達は『これから』の事を話し合ったのだった。
・
・
・
住宅街
……そうして、また数日後。
別れの日の空は、綺麗に澄み渡っていた。
ハナも一緒に家の前まで出てきて、樹にじゃれついて挨拶をする。
千種
じゃあ樹、元気でね。忙しかったら無理しなくていいけど、たまに電話とか、メールしてね。
樹
ああ。頑張って絵文字をマスターしよう。
千種
あはは……楽しみにしておくわ。
千種
それと、風邪引いたりしないようにね。
千種
良かったら、樹の住んでる所とか、一緒に猟に出る犬の写真とか、送って。
樹
ああ、わかった。
千種
それから……
樹
……!
千種
(あっ……いけない……)
つい涙ぐんで、喉を詰まらせてしまった。
千種
駄目ね……笑顔で見送ろうと思ったのに、いざその日になるとすごく寂しくなっちゃって。
樹
…………
樹
……いや、駄目などという事はない。
千種
(……!)
樹は少し困った顔をしていたけれど……意を決したように、私をぎゅっと両腕で包んでくれた。
ユータの事があった日、泣いている私を抱きしめてくれた時と、同じように。
どきどきと心臓が弾む。でも、すごく安心する温かさだった。
樹
必ずちゃんと連絡するから。それに、来年になったら、一番に君に会いに行こう。
千種
樹……
照れながら彼を見上げる。と、その直後――
???
……ふうん、僕より先に千種さんに会いに行くんだ。
???
友達甲斐がないよね、樹さんって。
からかうような声が聞こえて、私達は思わず体を離した。
樹
要……。どうしてここに?
要
僕も見送りに来たんだよ。お待たせ、千種さん。
朗らかに笑う要くんに、私ははにかみ混じりで呟く。
千種
このまま樹が出発しちゃうかと思ったわ。間に合って良かった。
要
ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃってさ。
千種
(……きっちりしてる要くんが寝坊……ね)
千種
(もしかしたら、私と樹が2人で話せるように、わざと遅れてきてくれたのかしら)
そんなふうに思うものの、要くんは何を釈明する事もなく、バッグから小さな包みを取り出した。
要
はい、樹さん。僕と千種さんから。
樹
……これは、餞別の贈り物か?
千種
出発前であんまりかさばるといけないから、ちょっとしたお菓子と、お守りくらいだけどね。
樹
……千種と、要から……
樹はプレゼントをしげしげと眺めると、いぶかしげに要くんを見やる。
樹
要、怒っていないのか?
要
怒るって?
樹
この前……広場にいる時、私が無理やり千種を連れていっただろう。
樹
その事について謝ろうと電話やメールをしたが、連絡を返さなかったじゃないか。
千種
え……そうだったの? 要くん。
要
……さあ。着信に気付かなかったんじゃないかな。
樹
…………
千種
私と要くんは、あの後も普通に連絡取ってたわよ。
千種
あの時私と要くんが広場にいたのも、今日のこのプレゼントについて相談するためだったんだから。
樹
……何……?
要
まああの日は、千種さんを呼び出して、『実は樹さんにプレゼントを渡したいと思ってて……』くらいしか話せなかったけどね。
要
何か勘違いしたのか、樹さんがすごい剣幕で来たからさ。
樹
………………
千種
プレゼントっていうから、誕生日か何かかなと思って、樹には秘密にしてたんだけど……
千種
その直後にもうすぐ日本を離れるって教えてもらったから、ああ、餞別のプレゼントだってわかったのよ。
樹
………………
樹はしばらく思案顔で考えこんだかと思うと、むうと眉をひそめた。
樹
……そうか。要、あれは嘘だったんだな。
千種
(……? 嘘って……?)
樹
私が煮え切らない態度だったから、はっきりしろと発破をかけたんだろう。そうだな?
要
いやあ、何の事だか……
樹
私が千種を抱きしめているのを見ても、少しも怒った様子がないし。
要
外国じゃハグくらい普通の挨拶だよね。……よしよし、ハナ、久しぶり。元気そうだね。
追及する樹にもしれっとした顔で、要くんは足元に寄ってきたハナに構い始める。
千種
(……???)
そんな2人を交互に見比べる私は、彼らが何の話をしているかわからずきょとんとしてしまった。
千種
2人とも、何か喧嘩してたの?
樹
……そういうわけではないのだが。
要
ちょっと人生の後輩としてアドバイスをしただけだよ。
千種
普通は逆だと思うけど……
要
で、樹さん。アドバイスは役に立った? 自分の気持ちはわかったのかな。
樹
……ああ……かなり悩んで自分を見つめ直してみたのだが。
樹
よくわからないという事が、よくわかった。
要
…………
やっぱり私には何の話かわからないものの、要くんは呆れた表情で肩をすくめる。
すると――
樹
だが、今わかっている事がひとつある。
要
っと……
千種
わ……!!
樹は私達をまとめて抱きしめて、しみじみと告げた。
樹
私が今、君達と離れがたいと思っている事だ。
樹
しばらく会えなくなるのは、すごく寂しい。ずっとここにいたい。
樹
……こんなに誰かとの別れを切ないと思ったのは、初めてだな。
樹
だが、これはこれでとてもいい気分だ。
千種
(樹……)
遠慮なく腕の中に閉じ込められて、気恥ずかしい。
でも……私は思い切って腕を伸ばし、彼と要くんを抱きしめた。
千種
この寂しさがあるからこそ、再会の時の喜びが膨らむものよね。
笑って言うと、要くんも樹と私をぎゅうっとハグする。
要
……まだまだ時間はかかりそうだけど、樹さんにしては積極的になった方かな。
要
じゃあ、また来年。今度は僕にも、色々話聞かせてよ。
千種
うちでも新しい子を保護してるだろうし、四ツ葉でも新しいデザートを開発中だから。楽しみにしててね。
樹
……ああ。
樹
また来年……君達に会うために、帰ってこよう。
寂しさはあっても、悲しみはなかった。
出会えてからの日々を祝福するような木漏れ日の下、私達は笑い合う。
絆がこれからも深まっていくだろう予感に、胸を弾ませて。
さよなら、ではなく、またね、を交わして――