北野坂
千種
ん~っ……
……樹と要くんと一緒に、展覧会へ出かけた日から数日。
私は背伸びして疲れた体をほぐしながら、家路を歩いていた。
千種
(アルバイトの子が新しく入ってくれたのは助かるんだけど、最初は色々教えることが多くて大変だわ……)
千種
(ここのところ帰りが遅くなっちゃったから、樹に連絡するタイミングも逃しちゃってるのよね)
あの日解散した後に、『楽しかった、また会おうね』程度のメールはしたものの、じゃあ具体的にいつ遊びに行くのか、どこに行くのか……そういう約束は曖昧なままだ。
千種
(猟師の仕事のこととか、樹自身のこととか聞かせてほしいって言ったけど、展覧会の日は後に用事があったこともあって、あんまり長い話はできなかったものね)
千種
(できればお互い、ゆっくり時間が取れる時に会えたらな……)
と、そう考えていた直後。バッグの中に入れていた携帯が鳴り出した。
千種
(あら、樹から電話だわ。ちょうどいいタイミングというか……)
千種
はい。樹?
通話ボタンを押して携帯を耳元にあてがうと、受話口から張りのある声が聞こえてくる。
樹
『ああ、千種。遅い時間にすまない』
千種
ううん、どうしたの?
樹
『いや……また君や要と、遊びに出かけられればと思ってな』
樹
『都合の合う合わないがあるだろうし、君からの連絡を待った方がいいかと思ったのだが……』
樹
『“こういう時は樹さんから誘うものだよ”と要に言われてな。……そういうものなのだろうか?』
千種
……ま、まあ、そうかもしれないわね?
千種
(要くん、こういう時は男性から誘うべきだって言ってくれたのかしら?でも、デートじゃないんだから……)
ちょっと気恥ずかしくなりつつ曖昧な返事をするものの、樹は素直に納得したようだった。
樹
『ふむ、そうなのか。覚えておこう』
樹
『それで、本題なんだが……。今度の土曜か日曜に、要も誘って、動物園にでも行かないか?』
千種
あ……
樹からのありがたいお誘い。だけど私は、頭の中でスケジュールを思い出して眉を下げてしまう。
千種
ごめんなさい、その日はちょっと……
樹
『いや、謝らなくて構わない。何か用事があるなら、別の日にしよう』
千種
ありがとう。……実はね……
多分理由を言わなくても、樹は気にしなかったと思う。
でもこの前彼は、私に猟師であることを誠実に伝えてくれた。
だから私も、自分のことを彼に伝えたくて話し出す。
千種
私、家で保護動物を預かるボランティアをしているの。
樹
『保護動物を預かる……』
千種
私、実家に住んでるんだけど、父が海外出張中でね。母もついていったから、ひとり暮らしなの。
千種
一戸建てだからそんなに鳴き声を気にしなくてもいいし、両親も動物好きだからOKはもらってるし……
千種
それで結構前から、一時預かりは続けてるわ。猫を預かることもあったけど、今は子犬が一頭だけね。
千種
それで……土曜は、ちょうど新しい子を追加で預かることになっていて、迎えにいかなくちゃいけないの。
千種
少し健康上の問題もあるから、日曜もなるべくそばについていてあげたくて……
樹
『…………』
するとその時、ふと樹が沈黙を挟んだ。
千種
……? 樹、どうしたの?
私の問いかけに、彼はゆっくりと尋ねてくる。
千種
『……千種』
千種
『それは……私にも、何か手伝えることはないだろうか』
千種
……手伝う?
千種
手伝うって、保護動物のお世話を?
樹
『そうだ。雑用でも掃除でも、何でもやろう』
千種
でも、休日にわざわざ手伝わせるなんて……
樹
『……私も、普段はボランティアをすることが多いんだ』
千種
えっ?
樹
『前に、“海外にいる時は猟師なら、日本にいる時は何をしているのか”……そう私に聞いただろう?』
樹
『私は日本にいる時、ボランティアで六甲山などの自然保護活動を行っているんだ』
樹
『在宅仕事で、環境系の翻訳をすることもあるが……それも忙しくなるほどには受注していない』
樹
『つまり、時間には余裕があるし、都合もつけやすいということなんだ』
樹
『それに、君は……友達だから、私のことを知りたいとも言っていた』
樹
『私も同じだ。君が何に、どんなふうに興味を持って取り組んでいるのか、知りたいと思う』
樹
『だから、何かできることがあるのなら、手伝わせてくれないか?』
千種
樹……
真摯な口調から、樹の気持ちがしっかりと伝わってくる。
彼がお互いに歩み寄ろうとしてくれていることがすごく嬉しくて、私は大きく頷いていた。
千種
……わかったわ。ありがとう!それじゃあね、日曜に……
・
・
・
住宅街
……そう打ち合わせてから数日後の、日曜日。
――ピンポーン――
約束した時間ちょうどにチャイムが鳴って、私は家の前まで出ていく。
千種
はあい、いらっしゃい。
樹
おはよう、ちぐ――
樹
…………
樹
……千種?
樹は軽く手を挙げたポーズのまま、ラフな格好の私をしげしげと見つめていた。
千種
ちょっと、何よその反応は。
樹
いや……ずいぶんすっきりしたと思ってな。
千種
……そりゃ、お洒落したまま動物の世話はできないもの。
千種
でも、そういう時もじろじろ見たり、いちいち指摘しないの。
樹
む……そうだな。どんな生き物も、じろじろ見ると警戒させてしまうものだ。
千種
(もう、樹ってば……あんまりわかってないみたいね)
千種
(モテそうに見えるわりに、案外女性の扱いに鈍いんだから)
千種
(まあ、悪気がないのはわかるから、嫌な感じはしないんだけど……)
私は気を取り直して、室内の方を手で示す。
千種
じゃあ、とりあえず上がって。
樹
わかった。……お邪魔します。
千種の家リビング
千種
どうぞ。適当なところに荷物置いて、座ってくれて構わないわ。
千種
一応、手の消毒もしておいてくれる?
樹
ああ、わかった。
樹と一緒に私も手を消毒してから、奥の扉へ向かう。
千種
(よし、それじゃあ……)
千種
ほら、おいで。
ドアを開けて呼びかけると、2頭の犬がぴょんぴょんと跳びはねながら、居間へと駆けてきた。
私の近くで止まった真っ白な子犬を見て、樹が目を輝かせる。
樹
彼らが、電話で言っていた……
千種
ふふっ、そう。この子がハナで、女の子。
千種
こっちの子が昨日預かってきたユータで、2頭は兄弟犬なの。
樹
……ユータの方は、確か健康上の問題があるという話だったか? それにしては元気なようだが。
千種
そうね、思ったより元気いっぱいに懐いてくれて、私も驚いてたところ。
千種
ただ、初期の心疾患と、こっちも軽度だけど、レッグペルテス病になってしまったの。
樹
……聞いたことはある。後ろ足を引きずったりしてしまうが、手術で治療が可能なんだったな。
千種
えっ……詳しいわね、樹。
樹
猟では猟犬を使うこともあるからな。犬の病気などについても調べているんだ。
樹
それにウェスティは、元々猟犬として使われていた犬種だし、馴染みはある。
千種
そっか、テリア種だものね。
樹
……ユータは、まだ手術はしないのか?
千種
そうね、一歳にもなっていないから、獣医さんとも相談して、しばらく様子を見ることになってるの。
千種
薬は飲ませる必要があるけど、痛みもないみたいだし、日常生活には問題ないわ。
千種
心疾患も、今はほとんど症状がないし……興奮させすぎなければ大丈夫らしいの。
そう言った私の言葉を裏付けるように、ぴょんとユータが前に出た。
ちょっと警戒しつつ樹に近づいて、匂いをかぎ始める。
樹
…………
樹は微笑んだままゆっくりと姿勢を低くして、手の甲を差し出した後はじっとしていた。
すると1分も経たないうちにユータは警戒を解いたのか、樹の手や膝に前足をかけて、ぱたぱたと尻尾を振り始める。
ハナも人見知りしない子なので、好奇心旺盛に樹へ近付いていくけれど、ユータの方がひときわ、樹を気に入ったようだ。
千種
ふふっ……良かったら、そこのボールで遊んであげて。
樹
ああ。ユータ、ハナ、遊ぶか?
ワン、と返事をする2頭に、樹は柔らかい笑みを浮かべた。
千種
ユータはね、一度里親さんが決まって、譲渡されていったの。
たっぷり遊んで落ち着いた2頭を別室に移し、食餌の準備をしつつ、私は話し出した。
樹も手伝ってくれながら、じっと耳を傾けてくれる。
千種
でも、2ヶ月くらいしてから、レッグペルテス病と、心疾患がわかって……
千種
それで、話が違う、健康な子じゃないなら飼えないって、突き返されてしまったのよ。
樹
…………
千種
もし病気があっても、最期まで面倒を看ること……って契約だったし、説得や交渉は何度もしたんだけど駄目で……
千種
それで、兄弟犬のハナを預かっていた私のところで一時預かりをすることになったの。
千種
病気があっても、あんなにいい子なのにね。
樹
……そうだな。
樹はユータ達がいる部屋の方へ温かな視線を向け、同意してくれる。
樹
千種、ユータ達はいつまでここにいるんだ?
千種
そうね、とりあえず1ヶ月って約束はしてるんだけど、里親さんが見つかるまで、延長するつもりよ。
千種
私、写真が趣味なのもあるから、預かった子の写真を撮って、里親募集のブログに乗せたりもしてるの。
樹
写真が趣味……確かに、部屋にいくつか犬や猫の写真が飾ってあるな。あっちには鳥もあったか。
千種
本当は犬や猫だけじゃなくて、動物全般を撮るのが好きなのよね。写真家を目指したこともあったわ。
千種
でも、動物を飼ったり預かったりすると、長く家を空けられないし、忙しすぎるとお世話ができないから。
千種
だから今の喫茶店で働くことにして……でも、後悔はしてないのよ。
樹
……ああ、わかる。
千種
うん! シェルターでも、公式サイトに載せる動物達の写真を撮るの、頼まれたりもするのよ。
千種
色々大変なこともあるけど、すごく楽しいし、充実してるわ。
樹
…………
樹
……千種。よければだが……今日だけでなく、またこうして手伝わせてもらえないか?
千種
え……本当に? いいの?
樹
ああ。捨てられた命や、処分されるかもしれない命を、ひとつでも救いたい……その気持ちは、私も同じだ。
樹
ハンターをしている私がこう言っても、伝わるかどうかわからないが……
千種
……ううん、信じるわ。
樹の瞳を見つめて、私はほとんど無意識に、答えを返していた。
千種
ユータ達と遊んだり、世話をしてくれている時の樹……本当に、愛情がこもっているのがわかった。
千種
ハンターの仕事についてまだ詳しく聞けてないから、狩猟に対してどう考えていいのか、戸惑いはあるけど……
千種
でも、樹が動物や命に対して、真摯に向き合っているっていうのは、理解できたつもりよ。
樹
千種……。ありがとう。
彼は安心したらしく、柔らかく頬を緩める。
樹
散歩でも、掃除でも、力仕事でも……何でも言ってくれてかまわない。
樹
ブログの更新とかは……その……あまりわからなくて、役に立てないかもしれないが。
千種
あはは、急に弱気にならないでよ。
千種
でも……本当にありがとう、樹。
千種
(出会いは偶然だったし、雰囲気もすごく悪かったから……こんなふうに仲良くなれるなんて思わなかった)
千種
(これからも、いい関係を築いていけるといいな……)
そう思いながら、私も心からの笑みを、樹に返したのだった。