ベンの家
~3話~
???

やあ、千種さん。こんにちは。

千種

あ……!

昨日のもやもやを引きずったまま仕事をしていたその時、見慣れた青年がお店に入ってくる。

千種

要くん、いらっしゃいませ。

彼は要・H・ハズレットという名前で、獣医を目指して勉強中の大学生だ。

名前からわかる通り、彼もハーフでとても整った顔立ちをしているけれど、美形だからと近寄りがたい感じは全くなく、いつも優しくて柔らかい笑顔を浮かべている。

そんな彼に、少し癒やされるものの……

シオンの調子は、どうかな……?

席につきながら要くんが呟いた問いかけに、私は思わず口元を強張らせてしまった。

私の目が赤いのにも気付いていたのか、彼はそれだけで、すぐに察したらしい。

……もしかして……

千種

…………うん、昨日の夕方くらいにね。あずささんから、真澄さんに連絡があったんだ。

湊川あずささんと、湊川真澄さん。それがこの喫茶店を経営しているご夫婦の名前だ。

とても仲が良く、いつもは明るくカウンターの向こうで仕事をしている二人だけど、今はお店を不在にしている。

千種

朝は一度来て、仕込みとかをされてたんだけどね。一度家に戻って、火葬の準備をするって言ってたわ。

ちょうど他にお客さんがいなかったのでそう説明していると、要くんは切なげに大きな目を伏せた。

そっか……。最近はあずささんがつきっきりで世話をしてたんだよね。

大切な家族に見守られて迎えた最期なら……シオンも、幸せだったと思うよ。

千種

……うん。そう思いたいよね。シオンを知ってるお客さん達も、みんな悲しんでくれたし。

千種

あっ……。ごめんね、要くん。お水も出さずに話しばかりしちゃって。

千種

今ならまだランチメニューができますが、どうなさいますか?

あはは、急に店員さん口調になって。

笑いながら、要くんはメニューに目を落とす。

ふと彼の指が、メニューのところどころに描かれた肉球のマークや、「人気メニュー!」の吹き出しと一緒に描かれたシオンのイラストを、そっとなぞった。

じゃあ、サンドイッチとコーヒーセット。後、アップルパイをお願いしようかな。

千種

はい、かしこまりました。

千種

(伝票を書いて……あと、お水とおしぼりを持ってこなきゃ)

要くんが座っている窓際の席から離れ、カウンターの中へ入る。

すると、厨房の奥――事務室やオーナー夫妻の住居へ繋がっているドアが、向こう側から静かに開いた。

あずさ

ああ、千種ちゃん。お疲れ様。店番頼んじゃってごめんなさいね。

千種

あずささん! いえ、お疲れ様です。

あずささん、こんにちは。

あずさ

要くんも来てくれてたのね、いらっしゃい。

はい……。あの、シオンのこと、聞きました。お辛かったでしょうね。

だけど、シオンはあずささん達の元で暮らせて、本当に幸せだったと思います。

あずさ

……ありがとう、要くん。シオンは眠るみたいに息を引き取ったわ。苦しそうな感じは全然なくて……

あずさ

要くんがいい獣医さんを紹介してくれたり、色々相談に乗ってくれたおかげよ。

いえ、そんな……

あずさ

ふふっ、お世辞じゃないわよ。今はまだそういう気持ちにはなれないけど……

あずさ

いつかはまた、心ない人達に傷つけられたシオンみたいな子を、幸せにしてあげたいって思うわ。

あずさ

その頃には要くん、立派な獣医さんになってるかも。予防注射とか、頼んじゃおうかしら。

あずささんは私よりも目を赤くしていたけれど、気丈に微笑んでいた。

そのことに私も要くんも少し安心していると、彼女は時計を見上げてちょっと慌てた面持ちになる。

あずさ

いけない、真澄さんを近くで待たせているの。私達今から、シオンの葬儀に行ってくるわね。

あずさ

帰りが夜頃になってしまうかもしれないけど……

千種

大丈夫ですよ。その……無理せず、ゆっくり、お別れしてきてください。

あずさ

……ええ、そうね。ちゃんと見送ってあげなくちゃ。

あずささんは私と要くんに会釈すると、扉の奥へと戻っていった。

また二人だけになった店内で、要くんと顔を見合わせて小さく息をつく。

千種

……本当に、シオンとお別れなんだね。

うん……。でも、大事なことだと思うよ。

人形とかじゃない生きている動物だからこそ、必ず死がやってくるし……限りある命だから、尊いとも言えるしね。

僕達もシオンの死をちゃんと受け止めて、冥福を祈ろう。

千種

…………そう、だよね。

千種

(うん……やっぱり、そうだ)

千種

(昨日のことはあずささん達には言わなかったけど、もし言ってても、二人はシオンを剥製にしようとなんてしなかっただろうな)

千種

(病気で苦しんで、何度も注射や手術をしたシオンの体を、これ以上傷つけたくないし)

千種

(姿だけが残っていたら、いつまでも引きずってしまいそうだもの……)

…………千種さん? どうかした?

千種

えっ……あ、ううん、何でもないよ。

千種

そうだ、ごめんね、また手を止めちゃってて。ランチ、すぐに作るから。

うん……。……もし何か気がかりなことがあるのなら、いつでも言ってね。

要くんはお水を口にしつつ、控えめにそう気遣ってくれた。

千種

(いつものことだけど、ちょっとした表情の変化とかをよく見てくれてるなぁ……)

彼は獣医学科のある大阪の大学に通いながら、教授のツテで、時々神戸の動物園でアルバイトをしている。

北野町に住んでいるから通学にも時間がかかるだろうし、勉強にアルバイトにと大変なはずなのに、「バイトは半分実習みたいなものだし、すごくためになる」なんて、ちっとも苦にせずニコニコしている様子だ。

千種

(心から動物や、動物と触れ合うことが好きなのがわかるし、病気や怪我から守ってあげたいって思ってるのが、伝わってくるのよね)

私は趣味で動物の写真を撮っているのだけど、要くんとの最初の出会いも、そのために訪れた動物園でだった。

飼育係をしている彼が、幸せそうに触れ合い広場でヤギの世話をしていたのを覚えている。

千種

(そしたら数日後に、偶然要くんが四ツ葉に来てくれて……)

千種

(お互い動物好きっていうこともあって、友達になったんだっけ)

言葉の喋れない動物とずっと接しているだけあってか、要くんは些細な変化にもすごく敏感だ。

それでいて、無理に聞き出そうとするのではなく、辛かったら受け止めるよ、と適度な距離で見守ってくれる。

千種

(たまに要くんの方が年上みたいに思えて、ちょっぴり情けない気もするんだけど)

千種

(……でも、昨日のこと、要くんにならわかってもらえそう。今は他に誰もいないし……)

千種

…………じゃ、じゃあ、要くん。ランチができるまでの暇つぶしにでも聞いてくれる?

千種

食事時には、微妙な話題かもしれないんだけど……

話を聞くって言ったのは僕の方だから、そんなの気にしないで。でも、やっぱり何かあったんだ。

千種

うん……。実は……

私は手短に、昨日の夜のことを要くんに説明した。

…………

……すると彼は、話の終わりと同時に運んでいった注文の品に手をつけもせず、ぽかんと目を丸くする。

千種

(あ、あれ? 確かに人によって色々感じ方の違う話だろうけど、)

千種

(そんなに驚く要素があったかしら……?)

……ねえ、千種さん。

今の話に出てきた男の人って……樹さんのこと?

千種

え……!?

千種

そうだけど……名前は言わなかったのに、どうしてわかったの? もしかして、知り合い?

うん。知り合いというか、幼馴染だというか……。

千種

幼馴染!? でも、樹は私より年上みたいだったし……

ああ、確かにそうだね。僕と樹さんは10歳近く離れてるから。

でも、小さい頃イギリスに住んでた時、家が近かったんだ。

両親同士が仲良くて、それでよく遊んでもらったりしてて……

千種

へえ……

千種

(2人ともタイプが違うから、何だか意外だけど……そうだったのね)

千種

要くんと樹は、今でも遊んだりしてるの?

そうだね……樹さん、ほとんど海外暮らしだし。今は、たまに連絡を取るくらいかな。

……それにしても、樹さんが、初対面の人相手にそんなに色々喋るなんて……

千種

そ、そう? 言い返したりもされなかったし、結構口数は少なかったと思うけど……

う~ん……

思い出したかのようにサンドイッチにかじりつきながら、要くんは何やら考え込んでいるようだった。

千種

(これ以上は、食事中に邪魔するのも悪いよね)

カランカラン……

お客さん

すみません、2人なんですけど、いいですか?

千種

あっ、はい! いらっしゃいませ。それではこちらのお席にどうぞ。

新しいお客さんがやってきて、私は対応するため要くんのそばを離れる。

そうこうしているうちに他にも何組か来客があり、食事を終えた要くんはすぐに帰ってしまったため、樹の話については、その日はそこでおしまいになったのだった。

北野坂

……けれど、数日後のこと。

『“動物と人”をテーマにした写真の展覧会があるみたいなんだ。一緒に行かない?』

そう要くんに誘われて快諾した私は、待ち合わせ場所の駅前に向かったところで、びっくりして声を失ってしまうことになる。

千種さん、こっちこっち。

千種

要くん! ごめんね、待たせちゃった……

千種

か……な……

…………

千種

……って……

…………

千種

(ええっ!? どうして、樹が要くんの隣にいるの……!?)