ベンの家
~2話~

樹の部屋

千種

………………

…………………………

静かな居間に、かちかちと時計の音だけが響いている。
私を居間に通してくれた後、樹は消毒薬などを取りに2階へ上がった。

その間に私は携帯でタクシーを呼び、戻ってきた樹からこうして手当をしてもらっているわけだけれど……

千種

(き、気まずい……)

お互いに何となく無口になってしまい、部屋には沈黙が落ちている。

千種

(でも、何を話せばいいのかしら……)

話題を探してみるものの、やっぱりすぐに思いつくのは、先ほどから視界にちらちらと入ってくる剥製のことだ。

個人的にあまりいいイメージはないものの、だからこそ無視することができず、気になってしまう。

千種

ね……ねえ、樹。この剥製って……

……ああ。これは、この家の元の持ち主のものだ。

100年以上昔に作られた、歴史のあるものだからな。

ここに住む人が変わっても、大事に保管されているんだ。

千種

そう……だったの。

千種

貴方が買い集めたものや、貴方が作ったものじゃなかったのね……

…………

私は思わずほっと息をついたものの、すぐに自分の失言を悟った。

千種

(今のはいくらなんでも、こういうものに嫌悪感があるって、露骨すぎたかしら)

千種

(さすがに『素敵な趣味ね』なんて白々しく褒めるのもどうかと思うけど、それにしても、もっと言い方を考えるべきだったわ)

千種

……あの、ごめんなさい、樹。何だか否定するようなことを言ってしまって。

千種

取り繕ってもわかると思うから、嘘はつかないけど……

千種

私、ちょっと嫌な思い出があって……こういう剥製が苦手なの。

……ああ。

私の足首に巻いてくれていた包帯の端を処理して、樹が顔を上げる。

その表情に、不快や、怒りの気配は見えなかった。

そのことに少しだけ安堵して、もうちょっとフォローしておこうと言葉を続ける。

千種

……さっき、私が働いている『四ツ葉』っていう喫茶店の話をしたでしょう?

千種

実は四ツ葉には、シオンっていう看板犬がいたの。元はオーナーが保護してきたんだけど……

千種

そのシオンがね、今日……病気で亡くなってしまって。

…………

千種

だから、こういうものに、余計敏感になってしまっているんだと思うわ。ごめんなさい。

そう事情を説明すると……

樹はしばらく沈黙を挟んでから、ぽつりと呟いた。

……私は、1年の多くを、海外で過ごしているんだが……

千種

え? ええ……それで?

そちらでは、亡くなったペットを剥製にする人もいる。

千種

…………えっ……

一瞬、何を言われたかわからなかった。

でも、徐々に彼の言葉を理解して……血の気が引いていくのを感じる。

千種

シオンを……剥製にしろって言うの?

千種

あの子の、皮を剥いで……

そうする方法もあるが、今はフリーズドライにするやり方もある。

私の声が震えているのに気付いているのかいないのか、樹は淡々と続けた。

費用は外皮のみを使う剥製よりも高くなるが、内臓以外の部分をそのまま使うため、生前の姿に近くなる可能性が高い。

剥製だとその分、剥製師の腕に左右されることが多く――

千種

きっ……聞きたくない! いいわ、説明しなくて!

……いや……

……是非剥製にするべきだ、と言いたいわけではない。だが、ひとつの選択肢として……

足の痛みを無視して立ち上がった私を見て、彼がぎょっと目を見開く。

千種、まだ無理をしては――

千種

……私、嫌な思い出があるって言ったでしょう?

…………ああ。

千種

大学生の頃に、友達と海外旅行に行って……国立公園で散策していた時のことよ。

千種

草むらに倒れてる、猟犬の遺体を見つけたの。

千種

脚を怪我していたから、「誤射か何かかな?」「可哀想だ」って一緒にいた友達と話してたら、獲物を運んでるハンターらしい人達が通りかかって……

千種

それはきっと、ハンターがわざと猟犬を撃ったものだろうって、教えてくれたわ。

……………………

千種

言うことを聞かなくて猟の役に立たなかったとか、休猟期の間の維持費がもったいないからとか……

千種

そういう理由で猟犬を遺棄する人が稀にだけどいるんだって、そのハンターの人達は言ってたの。

千種

気の毒そうにはしてたけど、それだけで……。私は、本当に、信じられなかった。

…………

苦々しく思い出す私の言葉を、樹は黙って聞いていた。

千種

……シオンはね、イングリッシュ・セッターっていう犬種なの。この意味、わかる?

セッター……

……シオンも、元は猟犬だったということか?

千種

ええ……訓練もされていたみたいだから、きっとそうなんでしょうね。

千種

山道で衰弱してるところをオーナーが見つけて、連れて帰ったらしいの。

千種

もし飼い主とはぐれただけだったらいけないと、迷い犬の告知もしたんだけど、名乗り出る人はいなくて……

千種

獣医さんの話では……猟師がわざと山に置き去りにしたのかもしれないって、そう言っていたみたいだわ。

千種

日本も外国も、同じような問題があるのね。

千種

一緒に猟をする大事な仲間を、使い捨ての道具としか思ってない人がいるんだわ。

…………そうだな。そういう者がいることは否定できない。

千種

……他にも、色々と嫌な話を調べて知ったの。

千種

猟犬を遺棄するまではいかなくても、狩りで失敗したからって虐待したり、

千種

獲物の欲しい部分だけ切り落として後はその場に放置したり……

千種

こういう剥製を「トロフィー」って呼んで、トロフィーを得るための動物を養殖したり、逆に希少な絶滅危惧種を狙って殺したりもするそうね。

…………

千種

だからどうしても、こういうものは好きになれないの。……ごめんなさい。

樹は、見ず知らずの私に親切にしてくれた。
剥製が嫌いな素振りを見せても怒ったりせず、丁寧に手当をしてくれた。

千種

(きっと樹は、とても良い人なんだわ……)

千種

(でも、剥製にしたらって、あんなに淡々と言うなんて……)

千種

(やっぱり私とは考え方が違うんだなって感じてしまう)

食べるためならまだしも、『こんなに珍しく強い獲物を手に入れた』という自慢のために、殺される動物達がいる。

その過程でも、狩りのために人間の勝手で増やされたり、使い捨てられたりする命があって……

そんなことを考えてしまうから、剥製に囲まれていると、とてもいい気分ではいられない。

千種

……今日のお礼は、後日ちゃんとさせてもらうわね。手当してくれて、ありがとう。

千種……

足の痛みをこらえて歩き出す。

樹は気遣わしげにしていたけれど、それ以上何も言わずに私を見送った。

北野坂

樹の家から出ると、ちょうどタクシーがやってきて目の前で停まる。

千種

(……本当に、どうして今日だったのかしら)

千種

(シオンのことがなければ、もう少しは冷静でいられたかもしれないのに……)

優しくしてくれた樹にあんな態度を取ってしまった自己嫌悪と、それでも拭い切れない、狩猟や剥製への拒否感。

それらにため息をついてしまいながら……私は振り向かず、タクシーへ乗り込んだのだった。

樹の部屋

…………

……こうなるかもとはわかっていたのに。嫌な思いをさせてしまったな……

カフェ

……翌日。

お客さん

俺もシオンがいないと寂しいけど……千種ちゃんも、元気出してな。

千種

はい、ありがとうございます!

お会計を済ませて去っていくお客さんに頭を下げて……

その背中が見えなくなってから、懸命に作っていた笑みを崩してしまう。

千種

(ああ、もう……恥ずかしいなあ。目が赤くなってて、泣いちゃったのバレバレなんだもん)

昨日は樹の家を出た後、ちょうどやってきたタクシーに乗って、私は自宅へ戻っていた。

家に帰ると多少落ち着きはしたものの、じわじわとシオンのことを思い出して切なくなってしまい……

結局深夜まで、私はひとりで泣いてしまっていたのだ。

千種

(樹が手当してくれたおかげか、足の痛みがほとんど引いてるのは助かったけど)

千種

(こうして仕事をしてても、シオンのいないお店の中は寂しいな……)

でも、朝からお店を訪れたお客さん達は、皆シオンのことを知ると悼んでくれた。

それだけで、どれだけあの子が周りから好かれていたかが伝わってきて、ちょっと救われる気分になる。

すると、その時……

???

やあ、千種さん。こんにちは。

千種

あ……!

ドアベルを鳴らしてお店の中へ入ってきた彼の姿に、私は自然と表情を和らげていた。