樹の部屋
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静かな居間に、かちかちと時計の音だけが響いている。
私を居間に通してくれた後、樹は消毒薬などを取りに2階へ上がった。
その間に私は携帯でタクシーを呼び、戻ってきた樹からこうして手当をしてもらっているわけだけれど……
(き、気まずい……)
お互いに何となく無口になってしまい、部屋には沈黙が落ちている。
(でも、何を話せばいいのかしら……)
話題を探してみるものの、やっぱりすぐに思いつくのは、先ほどから視界にちらちらと入ってくる剥製のことだ。
個人的にあまりいいイメージはないものの、だからこそ無視することができず、気になってしまう。
ね……ねえ、樹。この剥製って……
……ああ。これは、この家の元の持ち主のものだ。
100年以上昔に作られた、歴史のあるものだからな。
ここに住む人が変わっても、大事に保管されているんだ。
そう……だったの。
貴方が買い集めたものや、貴方が作ったものじゃなかったのね……
…………
私は思わずほっと息をついたものの、すぐに自分の失言を悟った。
(今のはいくらなんでも、こういうものに嫌悪感があるって、露骨すぎたかしら)
(さすがに『素敵な趣味ね』なんて白々しく褒めるのもどうかと思うけど、それにしても、もっと言い方を考えるべきだったわ)
……あの、ごめんなさい、樹。何だか否定するようなことを言ってしまって。
取り繕ってもわかると思うから、嘘はつかないけど……
私、ちょっと嫌な思い出があって……こういう剥製が苦手なの。
……ああ。
私の足首に巻いてくれていた包帯の端を処理して、樹が顔を上げる。
その表情に、不快や、怒りの気配は見えなかった。
そのことに少しだけ安堵して、もうちょっとフォローしておこうと言葉を続ける。
……さっき、私が働いている『四ツ葉』っていう喫茶店の話をしたでしょう?
実は四ツ葉には、シオンっていう看板犬がいたの。元はオーナーが保護してきたんだけど……
そのシオンがね、今日……病気で亡くなってしまって。
…………
だから、こういうものに、余計敏感になってしまっているんだと思うわ。ごめんなさい。
そう事情を説明すると……
樹はしばらく沈黙を挟んでから、ぽつりと呟いた。
……私は、1年の多くを、海外で過ごしているんだが……
え? ええ……それで?
そちらでは、亡くなったペットを剥製にする人もいる。
…………えっ……
一瞬、何を言われたかわからなかった。
でも、徐々に彼の言葉を理解して……血の気が引いていくのを感じる。
シオンを……剥製にしろって言うの?
あの子の、皮を剥いで……
そうする方法もあるが、今はフリーズドライにするやり方もある。
私の声が震えているのに気付いているのかいないのか、樹は淡々と続けた。
費用は外皮のみを使う剥製よりも高くなるが、内臓以外の部分をそのまま使うため、生前の姿に近くなる可能性が高い。
剥製だとその分、剥製師の腕に左右されることが多く――
きっ……聞きたくない! いいわ、説明しなくて!
……いや……
……是非剥製にするべきだ、と言いたいわけではない。だが、ひとつの選択肢として……
足の痛みを無視して立ち上がった私を見て、彼がぎょっと目を見開く。
千種、まだ無理をしては――
……私、嫌な思い出があるって言ったでしょう?
…………ああ。
大学生の頃に、友達と海外旅行に行って……国立公園で散策していた時のことよ。
草むらに倒れてる、猟犬の遺体を見つけたの。
脚を怪我していたから、「誤射か何かかな?」「可哀想だ」って一緒にいた友達と話してたら、獲物を運んでるハンターらしい人達が通りかかって……
それはきっと、ハンターがわざと猟犬を撃ったものだろうって、教えてくれたわ。
……………………
言うことを聞かなくて猟の役に立たなかったとか、休猟期の間の維持費がもったいないからとか……
そういう理由で猟犬を遺棄する人が稀にだけどいるんだって、そのハンターの人達は言ってたの。
気の毒そうにはしてたけど、それだけで……。私は、本当に、信じられなかった。
…………
苦々しく思い出す私の言葉を、樹は黙って聞いていた。
……シオンはね、イングリッシュ・セッターっていう犬種なの。この意味、わかる?
セッター……
……シオンも、元は猟犬だったということか?
ええ……訓練もされていたみたいだから、きっとそうなんでしょうね。
山道で衰弱してるところをオーナーが見つけて、連れて帰ったらしいの。
もし飼い主とはぐれただけだったらいけないと、迷い犬の告知もしたんだけど、名乗り出る人はいなくて……
獣医さんの話では……猟師がわざと山に置き去りにしたのかもしれないって、そう言っていたみたいだわ。
日本も外国も、同じような問題があるのね。
一緒に猟をする大事な仲間を、使い捨ての道具としか思ってない人がいるんだわ。
…………そうだな。そういう者がいることは否定できない。
……他にも、色々と嫌な話を調べて知ったの。
猟犬を遺棄するまではいかなくても、狩りで失敗したからって虐待したり、
獲物の欲しい部分だけ切り落として後はその場に放置したり……
こういう剥製を「トロフィー」って呼んで、トロフィーを得るための動物を養殖したり、逆に希少な絶滅危惧種を狙って殺したりもするそうね。
…………
だからどうしても、こういうものは好きになれないの。……ごめんなさい。
樹は、見ず知らずの私に親切にしてくれた。
剥製が嫌いな素振りを見せても怒ったりせず、丁寧に手当をしてくれた。
(きっと樹は、とても良い人なんだわ……)
(でも、剥製にしたらって、あんなに淡々と言うなんて……)
(やっぱり私とは考え方が違うんだなって感じてしまう)
食べるためならまだしも、『こんなに珍しく強い獲物を手に入れた』という自慢のために、殺される動物達がいる。
その過程でも、狩りのために人間の勝手で増やされたり、使い捨てられたりする命があって……
そんなことを考えてしまうから、剥製に囲まれていると、とてもいい気分ではいられない。
……今日のお礼は、後日ちゃんとさせてもらうわね。手当してくれて、ありがとう。
千種……
足の痛みをこらえて歩き出す。
樹は気遣わしげにしていたけれど、それ以上何も言わずに私を見送った。
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北野坂
樹の家から出ると、ちょうどタクシーがやってきて目の前で停まる。
(……本当に、どうして今日だったのかしら)
(シオンのことがなければ、もう少しは冷静でいられたかもしれないのに……)
優しくしてくれた樹にあんな態度を取ってしまった自己嫌悪と、それでも拭い切れない、狩猟や剥製への拒否感。
それらにため息をついてしまいながら……私は振り向かず、タクシーへ乗り込んだのだった。
樹の部屋
…………
……こうなるかもとはわかっていたのに。嫌な思いをさせてしまったな……
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カフェ
……翌日。
俺もシオンがいないと寂しいけど……千種ちゃんも、元気出してな。
はい、ありがとうございます!
お会計を済ませて去っていくお客さんに頭を下げて……
その背中が見えなくなってから、懸命に作っていた笑みを崩してしまう。
(ああ、もう……恥ずかしいなあ。目が赤くなってて、泣いちゃったのバレバレなんだもん)
昨日は樹の家を出た後、ちょうどやってきたタクシーに乗って、私は自宅へ戻っていた。
家に帰ると多少落ち着きはしたものの、じわじわとシオンのことを思い出して切なくなってしまい……
結局深夜まで、私はひとりで泣いてしまっていたのだ。
(樹が手当してくれたおかげか、足の痛みがほとんど引いてるのは助かったけど)
(こうして仕事をしてても、シオンのいないお店の中は寂しいな……)
でも、朝からお店を訪れたお客さん達は、皆シオンのことを知ると悼んでくれた。
それだけで、どれだけあの子が周りから好かれていたかが伝わってきて、ちょっと救われる気分になる。
すると、その時……
やあ、千種さん。こんにちは。
あ……!
ドアベルを鳴らしてお店の中へ入ってきた彼の姿に、私は自然と表情を和らげていた。