ベンの家
~1話~

北野坂

千種

はあ……

夜の明かりがきらめく街を、肩を落としてとぼとぼと歩く。

働いている喫茶店からの帰り道だったけれど、

仕事でミスをして怒られたわけでも、嫌なお客さんがいたわけでもない。

それよりもっとつらい、落ち込む事があったのだ。

だから、私はついうつむきがちになってしまっていて……

千種

――きゃあっ!?

通行人の女性

わっ、すみません……!

向かい側から歩いてきた女性に気付かずぶつかって、みっともなく転んでしまう。

千種

こ、こちらこそ、よそ見していてごめんなさい。

我に返った私は、バッグから落ちてしまった手帳などを拾いつつ、ぶつかった女性と軽く会釈を交わした。

そして彼女が去っていくのを見送りながら、立ち上がろうとした――その瞬間。

千種

(いっ……!?)

千種

(痛い……もしかして、足をひねっちゃった?)

青ざめて、痛みの走る右足首に手を触れさせる。

千種

(――って、しまった! ヒールも折れかけてるじゃない!)

千種

(うう、家まではそこそこあるのに、どうしよう)

千種

(……とりあえず人の邪魔にならないように、道の端に寄って……)

???

……大丈夫か?

千種

…………えっ?

ふいに上から振ってきた声に、瞬きをする。

顔を上げると――深い色の瞳と、視線が重なった。

背の高い男性がかがんで、揺れる黒髪の向こうから、私を覗き込んでいる。

???

さっき転んでいたのが見えたが……怪我をしたのか? 歩けないなら、手を貸そう。

千種

あ……。ありがとう……

差し出された手を掴み、引っ張ってもらいながら、どうにか腰を上げた。

でも1人で立つと、やっぱり右足がずきりと痛んで、思わず顔をしかめてしまう。

そんな私を、手助けしてくれた彼は心配そうに見つめていた。

???

歩いて帰るのは無理そうだな。

千種

そうね。でも、タクシーを捕まえるか、呼び出せば大丈夫よ。

千種

(どちらにしても、痛めた足でちょっと歩くか、待ってなきゃいけないのは辛いけど……仕方ないわよね)

???

…………

???

いや……怪我している生き物を放っておけない。

千種

(ん? い、生き物……?)

???

……君が良ければだが、私の家がすぐ近くにある。そこで手当をしていくか?

千種

えっ……いいの?

???

ああ。怪我をしたまま、タクシーを捜したり待つのもつらいだろうしな。

???

いや……本当に、君が良ければだが。

千種

(……? どうしたんだろう、何だか歯切れが悪い感じだけど……)

千種

(ああ、男の人の家に上がるのは抵抗があるだろうって、気を遣ってくれてるのかしら?)

けれど彼の話し方は誠実そうで、変な下心があるようには見えなかった。

千種

(ちょっと気になる発言はあったけど……悪い人じゃないわよね)

だから私は素直に感謝して、お言葉に甘える事に決める。

千種

ありがとう。じゃあ……ご迷惑だとは思うけど、少しだけお邪魔させてもらえるかしら。

???

……わかった。では、ついてきてくれ。

自然と離れていた手を、もう一度握られた。力強く私の体を支えて、彼が先に立って歩き出す。

???

足が痛かったら、遠慮なく私にもたれかかってくれて構わない。

千種

……ありがとう。でも、私、重いかもしれないわよ。

???

…………

気恥ずかしくて冗談めかすと、彼は私を見やって、かすかに微笑んだ。

その優しい表情に、今更ながら『随分顔立ちの整った人だなあ』なんてことに思い至る。

???

大丈夫だ。重い物の運搬には慣れている。

千種

……そこは『大丈夫、軽いよ』って言ってほしかったわ。

???

……そういうものなのか。

千種

(う~ん……意外と天然な人なのかも。見た目はきりっとクールな感じなんだけどね)

千種

(彫りが深いし、背も高くてスタイル抜群だから……もしかしたらハーフかしら?)

千種

(この辺りには外国の人やハーフの人が多く住んでるみたいだし)

千種

(うちのカフェに来てくれたことはなさそうね。あったら覚えてるはずだわ)

千種

……ねえ、貴方。よかったら、名前を聞かせてもらっていい?

???

うん……?

千種

おっと、こういう時は私の方から名乗るのが礼儀よね。私は武庫川 千種(むこがわ ちぐさ)っていうの。

???

…………チグサ……

初めて食べるキャンディを舌の上で転がして、味を確かめるような。

そんな雰囲気で私の名前を繰り返した彼の声に、ちょっとどきりとした。

だって、家族以外に呼び捨てにされることってあまりないから。

千種

ええ……千の種って書いて、千種よ。

???

私は、イツキだ。樹木の樹と書いて、イツキ。樹・A・ローウェルという。

千種

やっぱりハーフ……? あ、失礼だったらごめんなさい。

いや、全く問題ない。見てわかるだろうしな。母が日本人で、父がイギリス人なんだ。

千種

ふむふむ、イギリス……といえば、紅茶よね。樹さん、紅茶は好き?

樹でいい。……まあ、普通に好きだが……?

千種

私、近くの『四ツ葉』っていう喫茶店で働いてるの。紅茶とケーキセットは人気メニューよ。

声を弾ませて告げると、樹は一瞬きょとんとして、それから双眸(そうぼう)を細めた。

私の足に負担をかけないよう、ゆっくり歩いてくれながら、穏やかに笑う。

店の宣伝だったのか。

千種

ふふっ、それもあるけど、お礼がしたいって思ったの。

千種

よかったら今度、お店に来て。私のおごりで何か頼んでちょうだい。

千種

オーナーのご夫婦もとってもいい人だし、内装も落ち着いてて居心地がいいわよ。それに――

――『それに、可愛くて賢い、シオンっていう看板犬がいるのよ』

犬が苦手な人やアレルギーのある人もいるから、『四ツ葉』をお勧めする時にはいつも添えていた言葉だ。

けれど私はとっさに、口をつぐんで黙ってしまう。

千種

………………

……?

急に話を途切れさせた私を、彼がいぶかしんでいるのはわかっていた。

けれど、胸がつかえて、すぐには何を言えばいいか考えつかない。

千種

(……そうだ。シオンはもういないんだもの)

元は捨て犬だったのをオーナー夫妻に拾われて、大事に育てられたシオン。
カウンターの近くに寝そべってはお客さんを眺めていたり、撫でられて嬉しそうにしていたり。

大人しいけれど人懐っこくて、私も大好きないい子だった……のに。
数カ月前に悪性の腫瘍が見つかってからは、みるみるうちに元気を失くし、痩せていってしまった。
店に出すのはやめ、オーナー夫妻が交代でお世話をしながら、家で安静にさせていたものの……

『千種ちゃん、シオンが……』

今日の夕方頃、奥さんからの電話を受けて、オーナーが悲しげに呟いたのを思い出す。
それからどうにか閉店までは頑張って笑顔で仕事をこなしたけれど、それ以上は無理だった。

私は元から動物好きだったし、シオンとは『四ツ葉』で働いていた数年間、ほぼ毎日顔を合わせていたんだもの。

帰り道をただ歩いているだけで、たくさんの思い出が溢れてきてしまって……

千種

(つい泣きそうになって、それでうつむいてたら、人にぶつかっちゃったんだわ……)

その経緯を思い出すと、また熱いものが溢れてきてしまいそうになる。

…………

千種

(……樹、私の様子が変だから困ってるわよね? でも、どうしよう。何を言えばいいか……)

……千種。ここだ。

千種

え……?

樹が足を止める。彼の視線を追って見上げると――

ベンの家

目の前には、華美ではないけれど瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気の洋館があった。

千種

わあ……ここ、貴方のお家だったのね。

千種

たまに前を通るけど、素敵な建物だなって思ってたの。

そうか……。それは、ありがとう。

ただ、中に入ると、少し驚くかもしれないが……

千種

(……驚く?)

何があるんだろうと不思議に思いながら、玄関に向かって再び歩き出した樹についていく。

千種

(内装は外観にも増してすごく洋風だとか、そういう意味かしら?)

のんきにそんなことを考えていた私だけれど、ある意味その想像は当たっていたのかもしれない。

樹が玄関の中へ招き入れてくれたので、私は「お邪魔します」とお辞儀をして――

千種

――ひっ!?

頭を元の位置に戻した直後、悲鳴じみた声をこぼしてしまった。
玄関の上、その奥に見える居間……

あちこちに、剥製が飾られていたのだ。

それこそ日本では見かけることのほとんどない光景なものの、外国っぽ~い、なんて浮かれる気持ちは微塵も湧いてこない。

千種

(む、むしろ怖いというか……)

千種

(ひゃあっ、壁のシカと目が合った……!)

……すまないな、やはり驚かせたか。最初からはっきり言っておけばよかった。

女性は特に、こういう剥製を怖がる人も多い。普段なら、人を招いたりはしないんだが……

千種

(……きっと、私を放っておけなかったのね)

その気遣いはすごく嬉しい。

だけど正直、先に剥製がたくさんある家だとわかっていれば、私は樹の申し出を断っていただろう。

……今だって、失礼だとは思うのに、回れ右したくて仕方ない。

千種

(私、剥製やハンティングにいいイメージがないし……シオンが亡くなった日に、こんな……)

…………手当はすぐに済ませよう。

タクシーが来る間だけ、我慢してほしい。

それでも、かけられる樹の声はいたわりに満ちていて。

千種

……ええ……

私は躊躇しながらも……小さく頷いたのだった。