パラスティン邸
~8話~

レストラン廊下

露衣

ふう……。

今日の厨房はやけに静かに感じた。
美鈴がいる時だって別に彼女がうるさくしていたわけではないが。

露衣

離れてみると、寂しいもんだな……。

けれど、一人で頑張りたいと言ったのは自分自身だ。
今さら彼女を頼ることはできない。

露衣

(アイツといると、つい甘えてしまうから……)

露衣

(居心地がよくて、しばらくこのままでいいと思えるくらい)

そんな甘い考えでいたらいつまで経ってもメニューなんて完成しない。
だからこそ彼女にここへ来ないよう頼んだのだ。

それを告げた時の彼女の顔……。

露衣

(……きっと傷付けた)

露衣

(なのにアイツは、笑って俺の気持ちを尊重してくれたんだ)

露衣

(美鈴を安心させたいなら俺が早くメニューを完成させればいい)

露衣

……男として今が頑張りどころだろう?

俺は自分で自分を励まして、気合を入れ直しメニュー作りに励んでいった。

ハーブ園

美鈴

はあ……。今日も連絡はなしか。

大好きなハーブたちを前にしながらも、私が気になるのは携帯電話だった。

美鈴

予想はしていたけど、メールとかそういう中間連絡も一切ないし……。

美鈴

露衣、どうしてるだろ……。

美鈴

庭の野菜やハーブも元気かなあ。

毎日パラスティン邸に通っていたのが嘘みたいに、私の時間と心はぽっかりと空いてしまった。

美鈴

(寂しさを紛らわすためにハーブ園に来てみたけど、逆効果だった気がする……)

美鈴

(露衣と遊びに来た時のことばっかり思い出しちゃうよ……)

美鈴

……もう、帰ろう。

ふらりと小道を歩いていけば、温室と並ぶ洋風の建物が目に入る。

美鈴

(ああ……なんとなくだけど、パラスティン邸に似てるな)

美鈴

(だけど、お店と違って敷居が高い感じはしないかも……)

美鈴

……なんでかな?

美鈴

ああ……そうか、緑か。

美鈴

自然いっぱいの植物が、建物を柔らかく見せてるんだ。

そこまで呟いて、はっと息を呑んだ。
大事なことを思い出して、急激に後悔が込み上げてくる。

美鈴

うっわあー……。なんで忘れてたんだろう。

美鈴

(お客様が言っていたのは料理の話だけじゃなかったのに……)

そう、格式が高く品のある店内にも、お客様は居心地を悪くされていたのだ。

美鈴

(何のためにノートをまとめていたのよ〜! こういうのを改善するためじゃない)

美鈴

(ずっと露衣の料理をメインに考えていたから、いつのまにか横に置いちゃってたんだ)

美鈴

あ〜〜っ!! もうっ、私のバカっ!

美鈴

来なくていいって言われたからって、ショックを受けてる場合じゃないよ!

美鈴

むしろ今、私がやらなきゃダメなことじゃない……!

気がついたら居ても立ってもいられなくなって、ダッシュでロープウェイの駅へと向かう。

美鈴

(……お客様はお店の雰囲気を堅苦しく感じていた)

美鈴

(だけど、私はあのクラシカルな調度品はパラスティン邸の良さだと思ってる)

美鈴

(じゃあ、ここみたいに店内をグリーンでいっぱいにしたら? きっと親しみやすさを感じるはず……!)

メニューだけじゃない。他にも色々改善点があったはずなのに。
離れたからって何もできない気でいた。

美鈴

露衣には露衣の。私には私のできることがあるんだから……。

美鈴

露衣が頑張っている間に、私だってやれることを進めなきゃ……!

美鈴の部屋

それからの私は、お店のレイアウトや植物のアレンジメントの勉強に取りかかっていた。
調べていけば、パラスティン邸にはハーブを使ったアレンジメントが飲食店らしくていいように思えた。

お店で売っている花よりも野に育つハーブのほうが、すごく優しい印象を与えてくれるのだ。
……ただ問題は、私がそれを上手くアレンジできるかだけど。

美鈴

うーっ! 難しい〜〜!!

美鈴

なんで写真通りに綺麗にまとまらないかな。

美鈴

(もう何日も、本や写真を参考に生けてみてるけど上手くできない……)

美鈴

(どうやっても、乱雑に束ねられただけにしか見えないよ〜)

美鈴

これじゃ……お店に飾ることもできないよね。

美鈴

……露衣に見せたら『お前にはセンスがないんだ』って、言われるんだろうな。

美鈴

『それだけ不器用なのも一種の才能だな』なーんて……。

わざと露衣が言いそうなことを口真似してみる。

そうすれば何となく彼が横にいるように感じて。

美鈴

(……でも、きっとこうも言うんだ)

美鈴

(簡単に諦めるな、って……)

レストラン廊下

露衣

美鈴、ちょっとこの味を見てくれるか。

露衣

美鈴?

返事がないことを不思議に思ってからハッとする。
美鈴がここに来なくなってから何日も経つというのに、気がつくと彼女の名前を呼んでいた。

露衣

(また、やったか……)

露衣

(ついアイツがいる気になって……)

苦笑しつつ、ここにはいない美鈴の代わりに彼女がくれたハーブに目を向ける。

『疲れを癒してくれるから』

そう言って渡されたハーブはどうしても使う気になれず、グラスに挿して厨房の目立つ所に飾っていた。

露衣

……ちゃんと癒してくれてるよ。

何となく美鈴に話しかけるような気持ちになって照れくさくなる。

露衣

……一息入れるついでに畑の手入れをするか。

俺はエプロンの紐を解いて、庭へと出ていった。

北野坂

美鈴

はあ〜……。まさか、お花の先生にも見離されるなんて……。

もう何度目かわからないため息を吐き出す。

あの後、いくら練習しても綺麗に生けられない私は、グリーンアレンジメントの教室に通ってみたのだけど、何回通っても上達しない私に、教室の先生に『もう、あなたは諦めたほうがいい』と言い切られてしまったのだ。

美鈴

先生に言われるってどれだけ……。

美鈴

そんなにダメだったのかな、私のアレンジ。

美鈴

……ううん! ハーブティーの時だって乗り越えられたじゃないっ!

美鈴

頑張って練習すれば、きっと……!

首を振って顔を上げてみるけど、やっぱり、という言葉が浮かぶ。

美鈴

(あれは、ちゃんと味の善し悪しの判断が自分でできたから……)

美鈴

(アレンジメントの善し悪しなんてわからないよ……)

正解のわからない世界で試行錯誤するのは、正直不安しかなかった。

美鈴

(無理してできないことをするより、違う方法を考えたほうがいいのかな……)

美鈴

(自分にできる範囲のことで……)

頭の中に一生懸命料理に向かい合う露衣の顔が浮かぶ。

美鈴

(露衣に会いたい……)

美鈴

(露衣に会いたいよ)

パラスティン邸

私はこっそり彼が育てている家庭菜園へと足を踏み入れていた。

近くに彼はいなかったけれど、湿った土を見て、水やりが終わったばかりなのだと気がつく。

美鈴

(来ちゃった……)

美鈴

(ちょうど入れ替わりだったのかな)

美鈴

(……良かった、鉢合わせしないで)

思わず勢いで来てしまったけど、来ないでほしいと言われている手前、顔を合わせるわけにもいかなかった。

美鈴

(……それに、本当はこんな気持ちで会いに来ちゃいけなかった)

美鈴

(どうしてるかなって気にはなっていたけど……)

美鈴

(うん……。きっと、露衣は元気だ)

庭を綺麗に彩る野菜やハーブたちは生き生きと育っている。
彼がこまめに世話をしている証拠に見えた。

美鈴

(せっかく集中して進めているのに、落ち込んだ私が顔を出したらきっと余計な心配をかけちゃう……)

美鈴

(遠くからでも顔を見れたらと思って来たけど……これで良かったんだ)

美鈴

(きっと姿を見たら話したくて堪らなくなるよ)

……そう、踵を返そうとした時、お店の扉が開く音がした。
慌てて建物の影に身を隠すと、露衣が庭へと姿を現す。
ボウルを片手に野菜の育ち具合を調べていた。

美鈴

(露衣……!)

美鈴

(水やりが終わって、収穫に来たんだ)

数日ぶりに見る露衣は変わってないと思いながらも、とても新鮮に感じる。

美鈴

(顔色もいいし、悩んでいるようにも見えない)

美鈴

(安心した……本当に順調なんだ)

美鈴

(きっと、この調子で待ってればすぐ連絡をくれるよ……)

よかった——そんなふうに思いながらも心の奥では複雑だった。

やっぱり自分は彼にとって必要なかったのかな、なんて。

いないほうがよかったんだって、そんな嫌な思いが頭を掠める。

美鈴

(自分が辛くて、露衣に会いたかったからってそれはないよ)

美鈴

(同じ気持ちでいてほしかったなんて、どれだけわがままなの、私)

ほんの少しでもそんなふうに思ってしまった自分が許せなくて。
自己嫌悪でぎゅっと目を閉じた瞬間、草をかき分ける音と彼の声が響いた。

露衣

……美鈴?

美鈴

————っ!!

美鈴

(うそっ! 見つかった?)

ぱっと顔を上げれば、露衣は私とは違う方向を見ている。
彼の視線の先には、可愛い猫が草むらから顔を出していた。

露衣

……なんだ、猫か。

露衣

人の気配がしたから……てっきり。

美鈴

(え……)

露衣

……おいで。

露衣は手を伸ばして、猫を抱き上げる。
猫は一度逃げる素振りを見せたけど、人慣れしているのか、無理に抜け出すことはしなかった。

露衣

悪かったよ、間違えて。

露衣

ここに来るのはアイツくらいだから、つい。

露衣

俺が、来なくていいって言ったのにな。

そう語る彼の声が優しくて、胸がぎゅっとなる。

美鈴

(……人の気配がしたから、てっきり……)

美鈴

(……てっきり、私だと思ってくれたの……?)

露衣

……俺が来なくていいって言ったんだから。

露衣

アイツに会いたいなら、俺が頑張らないといけないんだ。

露衣

一日も早く——

美鈴

(……露衣……)

私に会うのを励みに彼が頑張ってくれている。
一日も早く会えるよう頑張ってくれているんだ。

淡いときめきが体の中に広がっていく。

それと同時に胸を締めつけるような心地も覚えた。

美鈴

(お店じゃなくて頑張る露衣を手伝いたい……そう、この間気がついたばかりだったのに)

美鈴

(そんな純粋なものだけじゃ、ない)

美鈴

(露衣のことが気になって仕方ないんだ)

美鈴

(……異性として……)

認めてしまえば簡単だった。

こんなにもしっくりくる想いに……今まで気がつかなかったほうがおかしいのに。

美鈴

(露衣があんまりにも純粋にお店のことを考えてるから……)

美鈴

(なんとなく、こういう気持ちでそばにいるのに抵抗があったのかもしれない)

優しい表情で猫をあやしている露衣が見える。
私と間違えた猫を、とても愛おしいものを見るように、彼は抱いていた。

美鈴

(露衣は……私のことをどう思ってるのかな)

美鈴

(ただの仕事のパートナー?)

美鈴

(……それとも……)

ストレートな彼の行動はどちらともにも取れて、その心まではわからなかった。

美鈴

(露衣が私のことをどう思っているかはわからない。だけど、私が彼を支えたいと思う気持ちに変わりはない)

美鈴

(頑張ってほしいって思う気持ちにも)

美鈴

(だからこそ、彼の横にいても恥ずかしくないよう、私も自分のできることを全力で頑張りたい……)

……そう思うけど。思うのだけど。

美鈴

(顔は熱いっ……!)

美鈴

(自覚しただけでこんななのに、私、露衣の前で普通でいられるのっ!?)

美鈴

(絶対、絶対、挙動不審になるっ!)

気づいてしまった感情をどう取り扱っていいのかわからず、頬ばかり赤くなっていく。
まさか、自分がこんなに動揺するとは思わなかった。

美鈴

(せ、せめて、こうして会わないでいるうちに落ち着けるようにならなくちゃ)

だけど、そんな願いもむなしく……
自分が思っていたより早く、その日は来るのだった。