パラスティン邸
~5話~

美鈴の部屋

美鈴

あっ……。

ぐらりと、体が揺れて書いていた線が乱れる。
急いで目の前のノートに消しゴムをかけた。

美鈴

いけない、また居眠りしちゃった。

美鈴

えっ! しかも、もう夜の2時っ!?

すでに日課になっている夜のアイディア出しは思うように進まなくて時間だけが過ぎていく。

露衣に暴言を吐いてから数日——

結局、私達の関係は変わらないままでいた。

レストラン店内

美鈴

ごめんなさい!

露衣

…………。

あの後——私はすぐに店に戻って頭を下げた。

美鈴

心配からとはいえ、言い過ぎでした。露衣の気持ちはわかってたのに……。

美鈴

……ごめんなさい……。

彼の息を吐く音に、握っていた指に力が入る。

露衣

……別にいい。俺も言い方が悪かった。それに、心配をかけたのは事実だから。

露衣

息抜きが大事だって、お前に教えてもらったのにな。ちゃんと休みは取るようにするよ。

美鈴

露衣……。

レストラン廊下

それ以来、少し彼の心に余裕ができた気がする。
数日前のように、苛立つような姿は見えなくなっていた。

美鈴

(キツイことを言って反省したけど……露衣が休んでくれるようになってよかった)

美鈴

(大事な料理に影響が出るのは、露衣にとっても嫌だろうし……)

美鈴

(無理のない感じで過ごせてるみたい)

そのお陰か、最近の露衣は表情も柔らかい。

美鈴

……私も、そのほうが嬉しいし……。

露衣

何が嬉しいって?

美鈴

!!!

ぽつりとこぼした言葉を拾われて、体が跳ねる。
気がつけば背後に露衣がいた。

美鈴

う、ううん。なんでもないっ!オーダーお願いします!

露衣

……? ああ、どうぞ。

露衣

……うん?

露衣は急に私の顔を覗き込む。

美鈴

な、なに? そんなに眉をひそめて。なんかついてる?

露衣

……いや、お前。なんか顔色悪くないか?

美鈴

え?

露衣

つーか、目の下に隈が……。

美鈴

……!!

さっと、彼から顔を背けた。

美鈴

き、昨日、遅くまで本を読んでたから寝不足で……それでかも。

美鈴

なんか、泣ける話だったし!

露衣

…………ふーん……。

美鈴

ええっと、オーダー! 3卓のお客様、Cコースを2つです。

露衣

…………了解。

パラスティン邸

外のプレートをオープンからクローズに入れ替える。
ランチタイムが終わり、やっと一息つけるところだった。

美鈴

はー、今日は日曜日だし、久しぶりに忙しかったな。

美鈴

寝不足なのもあるけど……、疲労が誤魔化せなくなってきたかも。

ごしごしと目元を擦りながら、先程の露衣を思い出す。

美鈴

(……疲れてるって、思わせちゃうところだった)

美鈴

(だけど、本当の寝不足の理由は露衣にはまだ言えないし……)

美鈴

(あのノートのことは、今は秘密にしておかなきゃ)

経営の方はいいと彼から言われているのだ。
せめて、提案できる何かができるまで、彼に伝えることはしないでおこうと思ってる。

美鈴

(上手いこと言って逃げてきたけど、探るような目で見ていたし)

美鈴

(ちゃんとしなきゃ!)

ぺちぺちと頬を叩いて自分を激励する。

美鈴

よし……! まだまだいけるっ!

美鈴

今日は夜も何件か予約が入ってるんだから気合い入れないと……っ!

美鈴

まずは掃除と、ディナーのお客様のお出迎えの準備! 他にもやることはいっぱいあるよ!

だけど、私は自分のことを過信していた。

レストラン店内

お客様

ねえ、私が頼んだメイン、魚だったんだけど、これ間違えてない?

美鈴

……っ! 申し訳ございませんっ!

店が一番忙しい時に、あり得ない失敗をしてしまったのだ。

レストラン廊下

露衣

オーダーを間違えただと!?

美鈴

ごめんなさいっ! 肉料理だと思っていたら、魚料理だったらしく……。

露衣

はあ? なんだそれは。バカがっ。

露衣

作り直せば、全部のオーダーがずれるだろう!

露衣

何のためにお客様のタイミングに合わせてると思ってるんだ!

美鈴

すみません……っ!

美鈴

(露衣の言う通りだ。露衣は料理が一番美味しく出せるよう頑張ってるのに……!)

美鈴

(それをサポートどころか邪魔してどうするのよ!)

美鈴

(お客様にだって迷惑をかけてしまって。もう……何をやってるの、私っ)

露衣

…………。

ぎゅっと唇を噛みしめれば、露衣が私を手招く。

露衣

美鈴。

美鈴

え……?

露衣

ほら、ちょっとこい。それで、目を閉じて、口を開けろ。

美鈴

は? 目と口……?

露衣

いいから。

不思議に思いながらも、彼の言う通りにした。
するとすぐに冷たくて滑らかなものが口内に広がる。
その甘みにじんわりと痺れる感覚がした。

美鈴

アイスと……ミント?

口に入れられたものを言い当てて、瞼を上げれば優しげな瞳が出迎える。

露衣

甘いもんで栄養補給して、ミントは目が覚めるだろ。

露衣

お前がどんな理由で寝不足なのか、プライベートはとやかく言わない。

露衣

ひとりで大変なのもわかってる。だけどフロアはお前しかできないんだ。

美鈴

…………!

露衣

頑張ってくれ、美鈴。

美鈴

露衣、ごめんなさ……っ……。

頼りにされているんだ。そう実感して、身が引き締まっていく。
露衣らしい励ましに、ぎゅうっと胸が苦しかった。

レストラン店内

美鈴

(私も……焦っていたのかな)

フロアに戻って店内を見回す。

美鈴

(あ……あのお客様、前菜が半分までいった。そろそろ次の料理だ)

美鈴

(……ふふ、今日も青木様が来てくれてる。後で、声をかけにいこう)

落ち着いてみたら、周りが見えてくる。
さっきの一口で目が覚めるようだった。

美鈴

(頑張んなきゃ、頑張んなきゃって、無理をしていた気がする)

美鈴

(無理をして良いところなんて見つけられるわけないのに)

美鈴

(自分で、露衣に言ったくせにね)

クラシカルな調度品が並ぶお洒落なフロア。
テーブルの上には、露衣が作った色とりどりに飾られた料理たち。

美鈴

(うん……私の大好きなものばかりだ)

不思議と今までよりも強く、お店の良さを感じられた。
それが、さらに自分のやる気を上げていく。

美鈴

(どんなにお店のことを考えたって、自分の仕事をきちんとこなせなきゃ意味がない……)

美鈴

(私はこのお店が好きなんだから)

美鈴

(このお店で働くのが好きなんだから)

それに——

レストラン廊下

美鈴

1卓のお客様、前菜終わりそうです。スープの用意お願いします。

露衣

了解。

一人になっても一生懸命、料理をつくる露衣。

そんな彼の姿も私は好きだと、そう思っていた。

レストラン店内

美鈴

ああー……。やっぱり、ここだった。

置き忘れた自身のノートを見て、ほっと息をつく。
家に帰ってからコレがないことに気がついて、急いで店へ戻ってきたのだ。

美鈴

失くしたわけじゃなくてよかった。

美鈴

結構な時間になっちゃったけど、露衣は……上でもう休んでるのかな。

美鈴

スペアキーを預かっといてよかった〜。起こしちゃうとこだったよ。

胸をなでおろしてから、荷物を机の上に置いた。

美鈴

ふふ、露衣がいないなら、今日はここでノートをまとめようかな。

美鈴

こうしてお店を見ながらのほうが、いいアイディアも浮かびやすいし……。

美鈴

明日は定休日で、焦って帰る必要もないしね。

心が落ち着いたお陰か、私もゆっくりしようと余裕ができてくる。

美鈴

(……露衣に気づかれないよう静かにしてれば平気だよね)

美鈴

(ふふふ、まさか私がこうしてお店にいるなんて思いもしないんだろうな)

くすくすと息をこぼして、私は席に着いたのだった。

露衣の部屋

明け方——目が覚め、喉の渇きに部屋を出れば、階下の明かりが気になった。

露衣

(フロアか? 消し忘れた覚えはないが……)

レストラン店内

店内を覗けば、美鈴がテーブルに顔を突っ伏して寝ている。

露衣

こいつ……、帰ったのかと思っていれば。

しかし呆れ顔はすぐに引っ込んだ。
美鈴が枕にしているノートやたくさんの紙。
そこには、この店のいいところ、お客様の意見、どうすれば店を盛り立てていけるか——

店のこの先を本当によく考えたアイディアが書いてあったのだ。

露衣

……寝不足の原因は……これか。

露衣

疲れてたのは、店の仕事のせいだけじゃなかったのか……。

じわりと胸が熱くなる感じがした。
とても数日でまとめたとは思えないような量の資料。
それだけ美鈴に心配をかけて……、そして、俺を思ってくれていたのだ。

露衣

(頑張って……考えてくれてたんだな)

すやすやと眠る表情を見ていると、こちらまで穏やかな気持ちになってきてしまう。
無意識に美鈴の滑らかな頬にかかる髪を指ですくう。

美鈴

ん……。

露衣

……ありがとな、美鈴。

それからその体を抱き上げて、休める所へと連れていった。
何か体に優しいものを作ってやろう——そう思いながら。

露衣の部屋

美鈴

ん……。

美鈴

ここ……、どこ?

小奇麗にまとめられた室内に、朝日が射しこんでいる。
見慣れない光景に勢いよく跳ね起きた。

美鈴

えっ!? 何? 誰の部屋???

露衣

起きたか。

美鈴

っっ!!!

露衣

お前、昨日フロアのテーブルで寝てたんだぞ。

露衣

朝ごはんができてるから、下に降りてこい。

突然ドアを開け、言うだけ言ったかと思うと、露衣はすぐに行ってしまう。

美鈴

ごはん……?

美鈴

フロアで……?

ちらっと窓の外を見れば、見覚えのある景色が広がっていた。

美鈴

(パラスティン邸だ……)

美鈴

(……じゃあこのベッドは……)

美鈴

————っっ!!!

誰の物かわかった途端、これ以上ないくらい私の顔は真っ赤になった。

レストラン店内

美鈴

(……いい匂いがする)

階段を下りれば、言葉通り露衣は厨房で朝ごはんを用意していた。

美鈴

(まさか……あのまま寝ちゃっただなんて)

美鈴

(ううっ、やってしまった感が半端ない)

美鈴

(露衣の部屋で寝てたってことは……露衣が上まで運んでくれたってことで……)

美鈴

(運んで……)

美鈴

(運んで……っ!?)

その方法を考えただけで、一気に全身が火照る。

美鈴

(だ、だめだめ! 具体的に考えたらだめっ!)

美鈴

(そ……そうだ、ノート! ノートはどうしたかな)

冷静になろうと、昨夜、自分がいた場所に目をやる。
そこには私の荷物と一緒に、ノートもまとめられていた。

美鈴

(多分……露衣だよね)

美鈴

(中身、見たのかな……)

露衣

……ああ、降りてきたか。

料理を持って戻ってくる露衣に心臓が音を立てる。

美鈴

露衣、あのっ、昨日は——。

露衣

その話は後でだ。飯にしよう。

露衣

今日は休みだからな、あり合わせのものだぞ。

美鈴

うわあ……。

そう言いながらも彼が並べた料理は、見た目だけで十分食欲をそそるものだった。
いつものフレンチとは違うけど、どこか家庭的な料理。

美鈴

美味しそう……。

露衣

ほら、座れよ。食べるぞ。

美鈴

ありがとう……露衣。……いただきます。

手を合わせた後、そっと口に入れれば、じんわりと広がるその味に、もっともっとと心が求めてく。

美鈴

(う、わあ。美味しーい……)

美鈴

(スパイスが利いてたりとか、特別な舌触りがするとか、そんな特別な料理ではないけど……)

美鈴

(すごく、すごく優しい味がする)

美鈴

はあ〜……。安まる。

美鈴

当たり前だけど、こんな料理も作れるんだね。

美鈴

えへへ……。すごーい、嬉しーい。

美味しくて、食べながら顔の筋肉はゆるゆるに緩んでいく。
その顔を見た露衣はなぜか一度目を見張って……、それから、少しだけ彼の頬も緩んだようだった。

露衣

ふっ……お前は本当に。

美鈴

え?

露衣

いや、幸せそうに食べるなって。

美鈴

あは、そうかも。

美鈴

だって、いま幸せだもん。露衣はやっぱり天才だね。

美鈴

食べてるだけで、こんなにも充足感が広がる料理はそうそう作れないよ。

幸せで堪らない——そんな時間をくれる露衣に、私は心からそう思っていた。

レストラン店内

目の前には、嬉しそうな美鈴の顔。その顔に俺の心は和んでいた。

露衣

(嬉しいもんなんだな……。こういった顔で食べてもらうのは)

俺はずっと、色んな人に天才だと言われ続けていた。
そう言われるのが当たり前で、それを俺自身でも疑うこともなかった。
だけど、コイツが言う“天才”はどこか違う響きがする。

露衣

(何か、温かい感じがする——)

それにこうして過ごす美鈴との時間。

露衣

新鮮だな。2人っきりで朝ごはんを食べるの。

美鈴

え……?

露衣

こういうふうに、朝を迎えるのもいいもんだなってさ。

美鈴

…………!

美鈴が俺の台詞から連想したことに気がついて、くすくすと息を零して笑った。

露衣

お前、いま何を思った?

美鈴

べ、別にっ、何もっ!

慌てる美鈴が可愛いな——そんなふうな気持ちで目元を和らげながら、朝日が差し込む店内で、俺は美鈴と一緒に穏やかな朝食の時間を過ごしていた。

露衣

(そうだ、後で美鈴にアレを見せてやろう)

食事を進めながら、ふと思いつく。

露衣

(ああいうのは好きだと言っていたし、きっと喜ぶはずだ)

露衣

(…………そこで、ちゃんと話をしよう)

露衣

……なあ、美鈴。

美鈴

うん?