パラスティン邸
~6話~

パラスティン邸

「お前に見せたいものがある」

そう言って露衣が連れてきた場所は、パラスティン邸の裏庭だった。

美鈴

露衣……これって。

眼前に広がるのは野菜畑。
たくさんの野菜の周りをハーブと色とりどりの花で囲んだ、立派な家庭菜園だった。

美鈴

これ……。全部、露衣が……?

露衣

……他に誰がこの庭を手入れするんだ?

美鈴

もー! それはそうなんだけど! だって、これは……。

感嘆の息をつくと、露衣は近くの花に視線を移す。

露衣

始めは入荷が難しいエディブルフラワーを育てようと思っていたんだ。

美鈴

……エディブルフラワーって、食べられる花のこと? パンジーとか、デンファレとか。

露衣

そうだ。料理の彩りにあれは欠かせない。

露衣

花自体は日本でも馴染みのある珍しいものではないが、海外みたいに農薬を使っていない食用花は希少だからな。

露衣

それで、どうせ無農薬で何か育てるのなら、他にも色々やってみようって気になってな。

露衣

こうやって野菜やハーブも植えてみたんだ。

美鈴

やってみようって……。待って! これはそんな簡単にできることじゃないよね!?

露衣

まあ……、植物とはいえ生き物だしな。

立派な畑を指差せば、「当たり前のことだが、何か?」という顔を露衣が返す。

美鈴

(だ、だから、なんでそれを当然のようにやっちゃうかな!?)

美鈴

(あんなにお店だって忙しいのに、さらに畑!? しかも無農薬!)

美鈴

(一体いつの間に農作業してたっていうの!?)

本当にこの人は料理作りに関しては、いつだって全力なんだと思い知らされる。

美鈴

はー。もう、露衣の凄さには毎回びっくりするよ。

美鈴

まさか野菜やハーブまで作ってるとは思わなかった……。

驚きに口元を覆いながら座り込めば、目の前で見覚えのあるハーブが風にそよぐ。

それは初めて露衣に会った時、私が彼に勧めたあのハーブだった。

美鈴

えっ! これってあの時の……っ!

美鈴

仕方なく使ったって言ってたのに、育ててくれてるの!?

見上げて問えば、露衣は決まりが悪そうな顔をする。

露衣

……そうだよ、お前が勧めたハーブだ。

彼が私の横に座って、揺れる葉に手を伸ばした。

露衣

あの時は仕方なく使ってみたし、お前にもそう言ったけど……、実は、むしろ肉に合ってすごく良かったんだ。

美鈴

……!

美鈴

(すっごく、意外だ……)

美鈴

(露衣がこんなふうにありふれた食材を褒めるのなんて、初めて聞いた)

美鈴

(しかも……それを認めて育ててるなんて!)

露衣

……そうはいってもエディブルフラワー以外は試しで始めたものだ。

露衣

個人で作る野菜なんて専門で栽培しているものに敵うわけではないし。

露衣

確かに無農薬は体にいい、新鮮な野菜も美味しいが、うちの店に出すほどには特化するものがない。

露衣

そう……思っていたんだ。

すぐ横にある彼の表情が変わる。
そんなものと言っていたハーブに、とても真剣な眼差しを向けていた。

美鈴

露衣……?

露衣

今は始めてよかったと思ってる。

露衣

ずっと、自分の料理には珍しい貴重なものを使うべきだと信じていたんだ。

露衣

こういった食材では、皆に評価される料理なんて作れないと考えていたから。

彼が触れるハーブから朝露が落ちる。露衣の指は濡れていたけど、気にしている様子はなかった。

露衣

……けれど、違うんだな。素材だけ一流にしたって意味がないんだ。

露衣

もっと、大事なことがあったんだ。

露衣

一生懸命育てて、美鈴にも色々言われてここまできて、やっと理解できた。

大事そうに葉を摘んで、こちらを向いた露衣の目が優しく細まる。
弾けたように揺れるハーブから、すうっと清涼感のある香りが届いた。

美鈴

……それって……。

露衣

食材を改めてみるつもりだ。

露衣

珍しいものだけじゃない。そういったこだわりは捨てて色んな食材を使っていく。

露衣

自分の腕を誇るように見える我の強い料理じゃなくて、お客様が自然と喜んでくれるような……、

露衣

そんな料理を作っていきたい。そう思い直したんだ。

美鈴

……露衣……。

美鈴

(求めるものが違う客なら、来なくてもいいと言っていたのに……)

美鈴

(あんなに自分の技術に見合った食材にこだわっていたのに……)

そんな彼が、お客様が喜んでくれる料理を作りたいと言ってる。

美鈴

(自分のためじゃない……。誰かのための料理を……)

そう思ってくれたことが何だか嬉しかった。
前を向いて、ようやく辿り着いた彼の答えに胸の奥から熱が広がる。

嬉しくて微笑みたいのに、ぎゅうっとなってしまった心では返事をするのが精一杯だった。

美鈴

うん……。露衣ならきっとどんな食材を使ってもお客様が喜んでくれる料理を作れると思う。

美鈴

だって、今日食べた朝食もすごく美味しかったよ。

美鈴

ありきたりの食材だって、私にはすごく心に響いた料理だった。

美鈴

………ありがとう、露衣。

ようやく笑うことができた私に、露衣は穏やかな表情を返した。

露衣

なあ、美鈴。

露衣

誰かのために料理を作りたいと思えたのは、お前のお陰だよ。

美鈴

え……?

露衣

お前がいなければ気がつかなかった。

露衣

今日……俺はお前のために朝食を作っていて楽しかったんだ。

美鈴

露衣……。

露衣

疲れてるお前に、体に優しいものを作りたい……そう思って調理するのが楽しかった。

露衣

そう思えたのは美鈴だから。

露衣

息抜きをしようと出かけて俺を楽しませてくれたり……、疲れていれば体の心配をして、店が傾いているのに俺の意思を汲み取って、

露衣

何とか良くしようと一生懸命考えてくれている。

露衣

そんな、お前だから……。

露衣

料理を始めて……ただ純粋に楽しいと思っていた頃の感覚を思い出せたんだ。

美鈴

……露衣……。

指先から体が痺れていく。

美鈴

(ちゃんと届いてたんだ)

頑張ってほしい、ずっとそう思っていた。
彼が目指す料理を作れますように。
あの素敵な料理を一人でも多くの人に届けられますように。

だから頑張ってほしい——そう思って、私が今までしてきたことを……。

美鈴

(ちゃんと、わかってくれてたんだ)

胸が震える。

通じていた心が嬉しくて、目頭が熱くなりそうだった。

露衣

あの日、お前が外に連れ出してくれて良かった。

露衣

お前と出かけて、俺は楽しかったよ。

露衣

気がつけば自分のことを話していて……そういうことができる相手がいるってことも 今日のように、俺の料理を心から喜んでくれる姿を見れたのも嬉しかった。

露衣

こんなことを言うのは少し恥ずかしいけどな。感謝してる。……ありがとう。

露衣の瞳が弧を描く。
どこか可愛らしい、少年のような彼の笑顔。

どきんと胸が鳴った。

美鈴

(あ、あれ……。なにコレ……)

嬉しさに沁み込んできたものとは違う他の何か。
顔が熱くなるような心地を感じながら、私は心音を淡く弾ませていた。

レストラン店内

露衣

帰るのか?

荷物をまとめる私に、露衣が尋ねる。

美鈴

うん。家にも連絡してないし、さすがに親が心配してるかもしれないから。

露衣

ここで連絡していけばいいだろ? 心配しているならなおさら。

美鈴

あ……、いや、そうなんだけど。

美鈴

(いやいや何て言えばいいの? うっかり寝ちゃって、オーナーの家に泊まりましたって?)

美鈴

(会社ならまだしも、うっかり店で眠りこけるなんて状況、親が信じるわけないじゃん!)

美鈴

(露衣の前で家に電話して、その言い訳を親にするっていうのは……すんごくツライ)

だからといって、別の理由を作り上げれば、横で露衣がツッコミを入れそうだ。

美鈴

(だから帰ってからでいい。帰ってからで!)

美鈴

(ある程度大人なんだから、外泊くらいでそんな目くじら立てないだろうし!)

美鈴

(……外泊……)

露衣

なんで赤くなってるんだ。

美鈴

な、なんでもないよ!

露衣

いや、今の流れで赤くなる要素は何もないだろう?

美鈴

だからっ! なんでもないってばっ!

彼が近づいて、空気が動くのを感じる。
届いた香りが、今朝、私が起きた布団の中と同じで、さらに熱が高まった。

美鈴

(も……もう、おしまいっ! この話はおしまいっ!!)

美鈴

ええっと……! 今日はありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。

美鈴

ベッドを奪ってごめんなさい。朝ごはんもすごく美味しかったです。

ぺこりと頭を下げれば、露衣は黙って私を見ている。
そして私のノートを指差した。

露衣

ソレ、店のことが書いてあるだろ。

美鈴

……!

露衣

わざと見たわけじゃない。開いたまま寝ていたからな。

美鈴

(うっ、やっぱり!)

美鈴

(そうだよね……。見られてないわけがなかった)

美鈴

(勝手にこんなことをして、いい気分はしてないだろうし……)

美鈴

……ごめんなさい。露衣、私——

露衣

いい。別に怒っているわけじゃない。

美鈴

え……?

露衣

そうじゃなくて、それが見たいんだ。

露衣

お客様の声がかなり書いてあるだろう? 俺にもそのノートを貸してくれないか。

予想外の頼みに瞳を瞬かせた。

美鈴

……見て、くれるの?

露衣

なんだ? そのつもりでまとめていたんじゃなかったのか。

美鈴

そう、なんだけど……。それでも露衣には露衣の理想がまずあるのかなって。

美鈴

役に立ちたい気持ちで作ったけど、勝手なことをしてって言われる覚悟もあったから……。

露衣

ははっ。前向きなんだか、後ろ向きなんだか。

露衣

お客様が喜ぶものを作りたい、さっきそう言っただろ。

露衣

そのためには、来てくれた人の声が重要だ。

露衣

お前のノートはすごく助かるよ。ありがとうな、美鈴。

美鈴

露衣……。

柔らかく笑う彼の表情から、嘘がないのが伝わってくる。

美鈴

(……露衣は本当にお客様のために頑張っていこうと思ってるんだ)

美鈴

(露衣が求めるものを作りたいっていうのも、お店の経営抜きで考えればそれはそれでいいとは思ってた)

美鈴

(だけど、誰かのために前向きに頑張りたいと思う姿はすごく、素敵なことだと思う)

それに、何かが吹っ切れたように前を見ている姿は、彼の顔を生き生きとさせていた。

美鈴

(うん……そういうのは、嬉しいな)

露衣

まずはレシピを改良しようと思うんだ。

露衣

お前も意見を聞かせてくれるか?

美鈴

いいの?

露衣

もちろん。頼りにしてる。

露衣

しばらくは店を休業して、2人で立て直しに力を入れよう。

露衣

お前と一緒に店を良くしていきたい。

まっすぐに私を見つめる露衣に、またいつもと違う感情が生まれそうになる。
でもそれは真剣な彼に対して不謹慎な気がして、とっさに誤魔化した。

美鈴

な、何か今日の露衣、素直だよねっ!

美鈴

いつもより優しくて戸惑うっていうか……っ。

露衣

……そうか?

露衣

俺はいつも思ったことしか言ってないけど。

美鈴

……!

美鈴

(天然だ! 俺様だと思ってたけど、露衣ってまさかの天然……!?)

美鈴

(確かに驚くほどストレートで、嘘のつけない人だとは思っていたけど)

だけど、どれもこれも心に響いて、悔しいくらい喜んでいる自分がいるのがわかる。

美鈴

(あ〜! もうっ!)

ニヤつく頬を抑えるのを、私は諦めた。

美鈴

……うん。私も……露衣と頑張りたい。

美鈴

一緒に店を良くしていきたいって言ってもらえて、すっごく嬉しい。よろしくお願いします……っ!

勢いよくそう伝えれば、露衣はにっと口角を上げて私の前に手を差し出す。

露衣

ああ。改めて、よろしくな。

その笑顔に、また胸が跳ねた。

握り返せば、ぎゅっとあたたかい感触が伝わる。
ドキドキと高鳴る鼓動を必死に隠しながら、これから彼と力を合わせて良くなるであろう店の未来に希望を感じ、思いを馳せていた。

……まさか、リニューアルオープンを前に、露衣と会えなくなってしまう未来が待ってるとは、思いもよらずに——