萌黄の館
~10話~

高校教室

(ああ……ここにいた)

オレは目的の人物をみつけて息をつく。
薄暗い空き教室に人影を見かけて覗き込めば、萌が窓から外を眺めていた。

最高に盛り上がった学園祭は最後のイベントで見事に大成功を収め、無事全てが終わった今、校内は撤収作業へと移っている。

その様子を一人見つめながら、萌はポツリと寂しげに呟いた。

終わっちゃったな……。

片付けている連中はお祭り騒ぎの延長のようにその興奮を残しながらも、作り上げていく時とはまた違った独特の賑やかさは、どこか儚いような侘しさを感じさせる。

カタッとオレが扉を小さく鳴らせば、萌は後ろを振り向いた。
オレの姿を確認すれば、彼女は少しだけ頬を緩める。

……ここにいたんだな。

会長は昨夜頑張ったお礼に休んでもらったって委員のヤツらから聞いたからさ。捜してた。

オレが近づいて、「ほい」と持っていた缶コーヒーを差し出せば、萌は「ありがと」と答えて受けとる。
オレは彼女の横に並んで、片付けられていく残骸たちを、なんとなくぼぉっと眺めていた。
時折横目で見る彼女の顔には、やりきった満足感が伝わってくる。

なんだろう……。燃え尽きちゃったっていうか、こんな学園祭初めてだよね。

……そうだな。

オレはふと、授業で習ったある俳句の一節を口にしていた。

『つわものどもが夢のあと』か……。

あんなに盛り上がっていたのが嘘みたいだな。

しんみりと話すオレに萌は茶々を入れる。

あら、松尾芭蕉なんて、柄にもない。

それに、少し使い方がビミョウ……。

くすりと息を漏らして萌が笑った。

なんだよう。そう感じたんだからいいじゃねえか別に。

……そうね。みんな本当に一生懸命頑張ったよね。

……ああ。

そっと彼女の指がガラス越しに外にいる生徒の姿をなぞる。

ホント、楽しかったね……。

いっぱい、ドキドキもハラハラもしたけど……どれもみんな楽しかった。

今日一日を振り返ってこぼされた萌の言葉は、オレにもその気持ちを伝染させて、彼女に学園祭の話を聞いた時から、今日までの日々が頭の中を駆けていった。

それは、すごく充実した毎日で。

テニスに本気を出していた時と同じ、全てを何かにかけた充足感がオレを満たしていた。

うん……オレも。

やりきったーって、感じがする。

すっげえハードル上げちゃったから来年の委員は大変かもな。

あはは。もう来年の話?

萌は声を出して面白そうに笑ったかと思うと、瞳を細めてオレを見る。

じっと優しい眼差しをオレに向けていた。

……ありがとうね、アッキー。

うん?

今回のこと。アッキーには本当に感謝してる。

何度も何度もアッキーに助けられたよ。

アッキーが幼馴染でよかった……。

ありがとう、アッキー。

柔らかく微笑んで、きっと心からであろう言葉を萌はオレに言う。

オレはその内容に声を出すことができなかった。
できなくて、しばらく萌を黙って見つめていた。

萌が不思議そうに睫毛を揺らすのを見て、ようやく口にする。
ここのところ、ずっと考えていた。もう逸らしてはいけない思いを。

……礼を言わなきゃいけないのはオレの方だ。

お前と……幼馴染でよかったって、思ってるのも。

アッキー……?

……オレはさ、萌。

自分がすごく変わったって思ってる。

萌が目を見開く。

突然のオレの告白を意外そうに驚きながらも、黙って続きを待ってくれていた。
こんなふうに真剣に胸の内を萌に話すのはいつぶりだろう。

あんなに……テニスが好きで頑張っていたのに、オレはいつの間にか夢を諦めてた。

勝てなくなることが増えていって……現実を前に自然と夢を手放してたんだ。

だんだんラケットを握らなくなって、練習をしていないから……女の子といるほうが楽しいから……そうなふうに……

そんなふうに理由をつけて、ラクなほうへ、楽しいほうへと、どんどん走っていった。

……アッキー……。

ほら? ちょうどそのぐらいからオレってモテ始めただろ?

テニスで勝てなくても、キャアキャアともてはやされてさ。

それが……またオレを満足させちゃったんだよなあ。

「ばっかだよなあ」そう呟けば、萌は切なげに瞳を揺らす。
オレの告白をまるで自分のことのように、苦しそうに聞いていた。

ラクで……楽しかったけど、だけどオレはずっと何かがもの足りないと思ってた。

そりゃ、そうだ。一生懸命頑張って、その上で得たものに、ラクして入ってきたモノが敵うわけないんだから。

自分自身で掴み取ろうと……それが欲しいと……そう思ってたわけでもないんだから。

ふっと視線を外に向ければ、校庭の先に見える薄暗いテニスコート。
あの日も、萌と話しながらあのコートを見たんだ。
懐かしい思い出を抱えて。

だけどさ、萌に頑張れって言われてもう一度真剣にやってみようと思えた。

やってみて……こんなにも満たされている自分がいるのを知った。

もう一度……『夢』を思い出すことができた。

……きっと、あの時言ったのが別のヤツだったら、オレはあんなふうに思わなかった。

ずっとオレのそばにいて、オレを見てきて……。

真剣にテニスをしているオレがカッコいいって言ってくれた萌だから、頑張ろうと思えたんだ。

萌の瞳がまた驚きに見開く。

だけど、さっきとは違う。びっくりしているけど、少し喜びが混ざったその瞳。
それがオレを嬉しくさせて、自然と笑みが漏れた。

だからさ、礼を言うのはオレの方なんだ。

ありがとう……萌。

萌は何かを耐えるように唇を結んでいて、下を向いたかと思うとすぐに首を振る。

ううん……ううんっ!

アッキーは変わってなんかいないよ。

全然、変わってなんかいない。

言い終わると顔を上げて、くしゃっと子どものような無邪気な顔で微笑んだ。

すぐに調子に乗って、ちょっとバカなところも、やるって言ったら最後までやり通す負けず嫌いなところも……

冗談で茶化しながらも人を気遣ってくれる……優しいところも。

ぜーんぜん変わってない。

全然、変わってないよ!

萌……。

あと、そのキラキラした眼もね。

ニッと笑って萌がオレを指差す。

は……? 眼?

アッキーが学園祭を盛り上げようって言ってくれた時の眼は、グランドスラムの話をしてくれた子どもの頃のアッキーの眼と同じだったもの。

キラキラして輝いてたよ。

嬉しげに瞳を細める彼女が眩しく見えて、どきりと鼓動が跳ねた。
目の前の幼馴染の表情があまりにも魅力的で、吸い込まれるように視線が外せない。

(オレ自身が変わったと思ってたのに、お前は違うって言ってくれるんだな)

(ちゃんとオレのことを見ていて……)

(それが……嬉しいって……)

(そんなかわいい顔で言うのかよ……)

熱くなりそうな頬を誤魔化すように、オレも笑った。

ははっ……。わくわくすると、そうなっちゃうのかもな。

ふうん? わくわく?

そう、わくわく。

やってやるぞ〜って、興奮してさ、気持ちが高揚してくんだ。

そうするとお前が言うように、目がキラキラしちゃうのかもな。

あはは、そっか。

納得したように笑う萌が妙におかしかった。
だって、多分オレがそういう気持ちになったのは……

そう思うきっかけになったのは——

……全部、萌なんだろうな。

え……?

ポツリとこぼした音に、萌がきょとんとオレの顔を見上げる。

——グランドスラムも、学園祭を盛り上げようと思ったのも、きっかけは、萌を笑顔にさせたかったからだ。

オレがテニスをすれば小さい萌はニコニコと「カッコいい!」と笑って……
それが幼いオレに、さらにテニスをやりたい熱を与えてくれていた。

……グランドスラムへと繋がっていったんだ。

オレがキラキラしちゃうきっかけは、全部、萌なんだろうな。

まっすぐに萌を見てもう一度そう告げれば、彼女はかあっと音がしそうなほど、一気に顔を赤らめた。

え……。えっ……?

頬を真っ赤にしながら混乱して、萌はうろたえる。
そして上目遣いでオレを窺った。

ア、アッキー、それって……。

何かを期待して見上げる萌の目がオレを気恥ずかしくさせる。
同じような目で見てくる女子は何人もいたのに、相手が萌ってだけで、こんなにも違って感じるなんて。

あ……いや。

……そ、そういえばお前さっ、あの時なんかオレに約束しなかったっけ?

え?

妙に自分が言ったことが照れくさく思えて、とっさに話題を変えた。

ほらっ、オレがガキの頃グランドスラムの話をした時に、お前も一緒に何か約束したじゃん。

オレがグランドスラムを達成したら何かするって……。

そうだ、あの日、萌はオレに何かを約束したんだ。

あと1勝すれば、オレの“マイ・グランドスラム”なんだよな。なんて言ってたっけ、ええっと……。

(なんか、すごい可愛らしいことを言っていた気がするんだよな)

(オレが「やってやるぜ〜」って思うような何か……)

ふと、萌に視線を戻せば、彼女の顔はこれ以上ないくらい赤くなっている。

さっきの比にならないくらい、耳も首も一緒に色付いていた。

あ……、その、えっと……。

……うん?

どんどん顔の赤みを深めて声を失くしていく萌——

(あれ……ちょっと待て)

(これって、もしかして……)

(………………萌も?)

え……、えっ……!?

ひょっとして……オレ今4勝目挙げたんじゃね?

うっと口を閉ざして、萌は恥ずかしそうに横を向く。

な、何のことよ……!!

いや、だって。……え? い、いつから?

これってやっぱ、グランドスラムじゃ――

その言葉に萌は視線だけオレに戻す。
羞恥の色を表情に乗せながらも、朱で染まった目元と潤んだ瞳がやけに扇情的で。
薄暗い教室で、お互いしばらく黙って見つめ合った後――

オレ達はどちらともなく、キスをした。

(アッキー……)

ドキドキと胸を高鳴らせながら、私は彼と唇を合わせていた。
そっと離せば、彼の頬にもわずかに赤みが見える。
それがすごく嬉しいのに、どうしても恥ずかしさが上回った。

や……約束は守ったからね。

往生際が悪く、そんなひねくれた台詞が飛び出てくる。

そ、そっか。キスだったか……。

妙に納得したように照れながら言うアッキーにまた頬が熱くなって、可愛くない反応をした。

も、もうっ、うるさいっ!

手を上げるふりをすれば、アッキーは「おっと」と、私の腕を捕える。
くすっと嬉しそうに笑う彼の顔がぎゅうっと私の胸を甘くさせた。

苦しいくらい心臓が騒ぐのを感じていると、彼の瞳がまた近づいて……
私の唇を包み込んだ。

(……アッキー……)

伝わる温度に、泣きそうになる。

彼の気持ちが流れてくるような、私を慈しむ優しいキス。

それが、私をとても素直な気持ちにさせていく。

(アッキーが好き)

(ずっと、ずっと好きだった)

唇と唇の間に吐息が漏れれば、アッキーは頬を緩めて私に言う。

オレは……ガキの頃から萌が好きだったぜ。

いつからという自らの質問に得意げに答える彼がおかしくて、私は息をこぼして笑った。

……それは知らなかったよ。

はにかみながらそう返せば、アッキーは「お前は?」というふうに瞳を細めて問い返す。

その質問に、私はにっこりと笑みを広げた。

そして、彼にゆっくりと近づいて——

返事の代わりにありったけの想いを込めて、彼に口づけをした。

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