校長室
萌
ええっ——!!?
萌
校長先生、それは……。
校長先生の話は理解しがたいとんでもない話だった。
言葉を失う私に校長先生はこくりと頷く。
校長先生
……君ならできるだろう?
何を根拠に言っているのかわからないその信頼しきった眼差しに、さらに頭は混乱していく。
萌
い、いえ、いくら何でもそれは……! むしろ、何で私になんですか!?
校長先生
芦屋さんが一番適任だと思ったからだよ。
萌
(えええ〜!!)
萌
い、意味がわかりません! だ、だって……。
萌
テニス部をインターハイに出場させてくれって……どういうことですかっ!!
あまりに飛び抜けた話で思わず声を荒らげてしまった。
萌
(テニス部の部員でも何でもない私に、どうしてこんな話がくるの?)
校長先生は表情を曇らせて、困っていると言わんばかりに、ふう~っと息を吐く。
校長先生
話題が欲しいんだ、この学校に。
校長先生
芦屋さんも知っての通り、この学区には私立の高校が多いだろう?
校長先生
偏差値も特に変わりはないし、何か特化した引き込みがないと、入学率が低くなってしまってね……。
校長先生
今年度の入学者は定員割れしてしまったし……、ここはなんとか挽回しないといけないところなんだ!
校長先生
そのためのテニス部のインターハイ出場なんだよ!
校長先生
テニス部がインターハイに出ることになったら、我が校の名は全国に広がる。
校長先生
そうなれば、きっと来年度の入学希望者も増えるはず……!!
拳を握って力説する校長先生に、私は思わず後ずさる。
萌
(す、すごい熱気……!)
萌
わ、話題が欲しい理由はわかりました。インハイの理由も。
萌
だからって、どうしてテニス部でもない私に相談なんですか……!?
萌
まったく関係がないんですけど?
校長先生
……翠くんだよ。あなた達は、小学生の頃からの友人なんだってね。
校長先生
彼はかなりテニスが上手いだろう。顧問の先生も彼の才能は伸ばさないと勿体ないと言っていたよ。
校長先生
やる気さえ出せば、インターハイも夢じゃないとも!
校長先生
だから君から翠くんにやる気を出すよう言ってほしいんだ!
萌
は、はあっ!? 私がですか?
萌
無理ですよ! そんなの。
校長先生
……なら芦屋さん、他に伸びそうな部活が文化部も含めてあると思うかい?
校長先生
別に私はテニス部でなければダメだとは思っていないんだ。ただ、他に良さそうな部活がないのが現実なんだよ……。
言われて考えてみれば、確かに実力があって有名になれそうな部活はテニス部だけに思えた。
やる気はなくてもアッキーのテニスの腕は健在で、県大会では上位をとっていた気がする。
それにアッキー以外の部員も、そこそこいいところまで成績を残していたはずだ。
萌
(緩くやっていてそれなんだから、本気になればもっと上を狙えるのかもしれない、ってことだよね……)
そこまで考えて、朝のアッキーの様子が頭をよぎる。
『思わせぶりって……、本当に嬉しいから嬉しい顔して貰ってるだけだし』
『それに、こうやって女の子がオレの周りに来てくれるのは、楽しいしね』
萌
(ない……)
萌
(アッキーが部活に本気出すとか……ない)
萌
……先生、無理です。
校長先生
いや、いや、いや! 芦屋さん!
校長先生
そんなこと言わないで、頑張ってみてくれよ!
校長先生
君は彼の幼馴染なんだろう?
校長先生
見ていればわかるが、彼にとって君の存在は他の女の子と少々違っているようだし。
校長先生
芦屋さんから口添えしてくれたら、彼も頑張ると思うよ。
萌
いえ、ないです。なおさら、ないです。
校長先生
芦屋さん!!
校長先生が懇願するように私の手を取った。
校長先生
彼さえやる気になってくれたら、うちのテニス部はインターハイ出場だ!
校長先生
そうしたら我が校も有名になって、入学希望者も増えるんだよ!
萌
そう、言われましても……。
校長先生
頼む……っ!!
萌
………………。
頭を下げて動かない校長先生に、私はこれ以上何も言えなくなってしまった。
痛む頭を抑えて、渋々答える。
萌
……わかりました。
校長先生
本当かいっ!?
萌
でも、言うだけですよ。
萌
私は伝えるだけなので、期待はしないでください。
校長先生
いや、いや! 君から言ってくれるなら大丈夫だろう!
萌
…………
校長先生
助かるよ、芦屋さん! ありがとう!
校長先生はギュッと握っていた手に力を入れる。
大丈夫と言われても、正直私には不安しかなかった……。
︙
高校廊下
︙
「失礼しました」と校長室を出る。
はあ~~と長い息を出しながら俯いた。
萌
(私がアッキーを説得する?)
萌
(あの、女の子が好きで、本気を出すなんて考えられないアッキーを?)
彼は女の子が好きだけど、私を女の子扱いなんてしていない。
まあ、だからこそこうして長く付き合いができているのだと思うけど。
萌
(だからって私の話を聞いてくれるタイプでもないしなあ……)
萌
(どう考えても無理な気がする……)
考え事をしながら視線を落としていたのがよくなかったかもしれない。
曲がり角から聞こえる足音と人影に私は全く気がついていなかった。
ハッと気がついた時には近づいた人物にぶつかりそうで、私は反射的に体をそり返した。
萌
きゃっ!
???
あっぶね……!
その勢いで後ろに倒れそうになる私の腰を、その人は咄嗟に抱え込む。
萌
(わっ……わ……)
それでも床へと吸い込まれる流れは止められなくて、私はぎゅっと瞼を閉じた。
萌
(…………)
萌
(……あれ)
萌
(痛くない……)
そっと目を開けて息を呑む。
すぐ前には端正なアッキーの顔。
倒れ込んだ姿勢なものの、アッキーが私の体を片手で抱え、床につかないようもう一本の腕でなんとか支えていた。
翠
あ、なんだ。萌じゃん。
翠
はは、なにしてんの、こんなところで。
近距離で微笑まれて心臓が速まる。
というか、近い。顔も体も全部。
萌
(ちょ……! 待って、待って! 待って!!)
じわりと体温が上がりそうで視線が泳いだ。
表情はなんとか普通にできていると思う。
けれど、続いた言葉には平静を保てなかった。
翠
しっかし、お前軽いな〜。ちゃんと食ってる?
翠
最近の女子はもう少し肉付きがいいぞ〜。
かあっとこれ以上ないくらい体温が上がり、ぐいっと彼の胸を押し返す。
萌
(誰と比べてるの。誰と!)
萌
た、助けてくれて、ありがとう。
萌
もう大丈夫だから。
慌ててしまいそうなのを何とか抑えて、ゆっくりと起き上がりながらそう言った。
改めて彼の姿を見て、あることに気がづく。
萌
(……アッキー、制服じゃなくてユニフォームだ)
萌
(部活……いないと思っていたけどちゃんと出てたんだ)
翠
マジで気をつけろよ。生徒会長のくせに萌はそそかっしいんだからさ。
翠
オレだからよかったけど、出会い頭にぶつかるなんて、他の男だったら恋が芽生えてたかもしれねーぞ。
くくっと笑われて、なんだかバカにされている気がした。
萌
……そんな簡単に恋なんか始まらないし。
萌
それに、そそっかしいのと生徒会長は関係ありません……!
唇を尖らせて突っかかれば、彼は声を上げて笑い出す。
翠
ハハハッ……、ウケるぅ~。
萌
だからっ、笑い過ぎだし!
萌
(もうっ……!)
翠
萌はホント反応が面白いなー。
翠
今日は生徒会? それとも先生に雑用でも押しつけられた?
翠
あんまり、ハリキリ過ぎて無茶すんなよ。
くすくす息をこぼしながらも、さりげなく幼馴染の優しさが滲んでいて、なんだか胸がくすぐったかった。
萌
……別に、先生とちょっと話をしていただけだよ。もう帰るトコ。
萌
アッキーこそこんなところで、どうしたの? 部活の時間でしょ。
翠
ああ、職員室のトイレが一番キレイだからさー。借りに来た。
萌
はあ?
翠
だって体育館横の外のトイレ汚くね? せっかく部活で上げてたやる気も下がるっていうか。
萌
…………何その理由。わけわかんないよ。
萌
……と、いうか。アッキー、部活にやる気があるの?
質問しながら私は少し前かがみになる。
先程の校長先生の無理難題が意外にも叶いそうで、そう尋ねていた。
私が興味津々に質問する姿が珍しいのか、アッキーは瞳を瞬かす。
翠
お、どうした萌。オレのコトが気になるのか?
翠
部活の話なんて今まで聞いてきたことなかったくせに。
萌
……気になるっていうか、アッキーもテニス部のみんなもどんな感じなのかなって。
翠
どんな感じ?
萌
その……去年は県大会でアッキーも部員のみんなもいいところまでいったんだよね?
萌
それって結構すごいと思うんだけど、テニス部ってそんなにやる気があるの?
萌
た、例えば……インハイ出てみたい!……とか。
翠
インハイに? オレ達が?
アッキーがますます不思議そうに首を傾げた。
萌
例えばだって……。
翠
うーん。やる気……やる気ねえ。
翠
まあ、みんなテニスが好きだからやる気はないでもないけど、青春すべてかけてって感じでもないなー。
翠
オレは楽してモテたいだけで、今までの経験で勝てる程度でいいし。
翠
汗臭いのはちょっとなあ……。
萌
…………。
萌
(予想通りと言えば予想通りなんだけど……)
萌
(なんか、本気でやって上位にもなれない人達に失礼な気がする……)
萌
(……でも、それってやっぱりみんなが本気を出したら、かなりいい結果になるってことだよね?)
萌
(……もったいないなあ……)
チラッと頭の中の校長先生が、「芦屋さん、今だ! 頼むんだ!」と叫んだような気がしたけど、あえて、聞こえないふりをした。
萌
(もったいないけど……インハイなんて相当な努力がいることだし)
萌
(大事な高校生活で無理にやらせるものでもないしね)
校長先生には伝えたと言っておけばいい。
こればっかりは、本人たちがやる気にならなければ意味がないのだから。
萌
(ただ、アッキーのテニスを続けている理由がモテたいってのは残念ではあるけど)
その思いが私に呆れた声を出させた。
萌
まあ……、アッキーはそうだよね。
萌
テニスは昔からやってるけど、最近はラケットを持つなんて部活の時だけなんじゃない?
萌
子どもの頃はあんなに真面目にやってたのに。
萌
(毎日、毎日、練習して……)
萌
(暇さえあれば壁打ちしてさ)
いつからだっただろう。彼のテニスの熱が冷めていったのは。
いつの間にか彼は女の子に囲まれ、テニスも、私と話をする機会も減っていってしまった気がする。
翠
子どもの頃、ねえ……。
彼の考えるような声が聞こえて、思わずその顔へと視線を向けた。
アッキーは開いていた窓の枠に肘を立てて、外を眺めている。
どこか遠くを見るような横顔——
萌
(思い出してるんだ……昔のこと)
萌
(アッキーがテニスに本気だった頃を)
その横顔を見ながら、私も遠いあの日が脳裏に浮かんだ。
萌
(そうだよ……)
萌
(インハイどころか昔はもっとすごいことを言っていたのに)
萌
(それで……私も約束をしたんだ)
萌
(あの、試合の日——)
2人で記憶の波にのまれる。
彼がテニスに熱く、たくさんの勝ち星をつかんでいた頃……。
まだ幼かった、あの頃に——