萌黄の館
~3話~

テニスコート

——小さい頃の思い出が頭の中を占拠した。

あれは多分、小学校の1年か2年。

アッキーと私が屈託なく笑いあっていた頃。

彼にある約束をした日——

ボールがラインの上を跳ねて、どっと歓声が上がった。

審判

ゲームセット!勝者、翠・K・シャープ!

小学生の翠

ありがとうございました!

アッキーが、自分より頭一つ分くらい背の大きい男の子と握手する。

戻ってきた彼にタオルを持って駆け寄った。

小学生の萌

アッキー、すごい! すごいよ!5年生のお兄ちゃんに勝っちゃうなんて……!

小学生の萌

しかも最後のスマッシュ、ラインギリギリに決めてカッコよかった!!

彼の額の汗を拭いながら興奮してまくしたてる。
目の前の彼は肩で息をしながらも当然という顔をしてみせた。

小学生の翠

毎日練習してるんだからな、外したりなんかしねえよ。

小学生の翠

それにオレ、絶対世界一のテニスプレイヤーになるって決めてるし。

小学生の翠

5年生にだって負けてられないんだ!

意気込んで言う彼に、私は、ぱあっと瞳を輝かせる。

小学生の萌

……世界一の?

小学生の翠

ああ……!

小学生の翠

グランドスラムっていってさ!

小学生の翠

4つある大きな大会で全部勝てば、世界で一番強いテニスプレイヤーだってことになるんだ!

小学生の萌

へえー……! 4つも勝つの? すっごーい、アッキー!

小学生の萌

アッキーならできるよ!

へへっとアッキーが照れくさそうに笑う。私も世界一になったアッキーを想像して頬が緩んだ。

だってアッキーは本当にすごくて、今も敵うわけがないと言われた5年生のお兄ちゃんにだって勝ってきたのだ。

そういった未来が待っている人なのだと確信する。
そしてその時、自分が彼のそばにいるものだと、なんの疑いなくそう思っていた。

小学生の萌

じゃあ、じゃあさ。萌、約束するよ!

小学生の翠

約束……?

小学生の萌

うん! アッキーが4つ勝って、世界一のテニスプレイヤーになったらね、

小学生の萌

そうなったら、萌は……。

(そうなったら、私は……)

頭の中で幼い自分が紡いだ言葉を繰り返す。

萌……?

高校廊下

少し高かった少年の声が低い大人びた声に変わり、ハッとした。

一気に現実へと帰ってくる。

どうしたんだよ、萌。

あ……。

ご、ごめん、なんかぼうっとしちゃってた。

(いけない。アッキーと話してた途中だったのに)

(ついアッキーを見ていたら、昔のことを思い出しちゃって……)

頑張る彼に向かって私がした約束。

きっとアッキーだって覚えていない。

(まあ……覚えていたとしてもなんてことない約束だけど)

(大きくなった今じゃ、反故にされても仕方ない内容だしね)

そう思った自分にチクリときた。

どうしてかわからないけど。

萌、大丈夫なのか?

さっき、ぶつかった時もボーっとしてたし、どこか具合でも悪いんじゃねえの?

アッキーが気遣わしげに眉を寄せるのを見て、再度いけないと思う。
今度こそ意識をハッキリとさせて、安心させるために少し無理して微笑んだ。

ごめん。本当に何でもないよ。

少し考え事をしていただけだから。

ふうん……。萌は一人で無理するタイプだからなー。

何でもないって言いながら、何かあることが多いし。

今も気づいてないだけで、本当は熱があったりしてな。

ははっと笑って、アッキーは気安く私の額へと手を伸ばす。
それを、つい後ろに引いてよけてしまった。

さっき知った体温と思い出した約束が、触れ合うのを妙に恥ずかしく思わせたから。

……萌?

その行為に、少しだけアッキーが傷ついた顔を覗かせた。

(あ……。触れられるのが嫌だと思われたかも……)

(そういうのじゃなかったんだけど……)

だからといって謝ったり、言い訳するのもおかしな気がして、胸元で手だけを振って具合が悪いのを否定する。

あ……その、だ、大丈夫だから! 熱も本当にないし。

そ? ならいーけど。無茶はするなよ、生徒会長さん。

柔らかく笑って流す彼にほっとした。

昔の無邪気なものとは違う、人を気遣うちょっと大人びた笑み。

こうやって、少しずつ私達の関係も変わってきていて……。

それはいいような、よくないような。

(寂しいような……)

微妙な空気と、浮かんだ感情を吹き飛ばすように明るく話題を変えた。

そういえばアッキー、今度テニスのグランドスラム……じゃない、インターハイの予選があるんでしょ?

あ、……ああ。

インターハイっていったら、高校生の一番を決める大会だよね。

昔のことを思い出して、頑張ってね!

それは校長先生の話とは関係なく、心からの声で。

先程、意識を飛ばしたあの時の熱気をもう一度掴んでほしくて、つい笑顔で励ましていた。

けれど、アッキーは理解できずに不思議そうに首を傾げる。

昔のこと……?

あ……。

……ううん、何でもないの。

(……そっか、そうだよね。いきなりそんなふうに言われたってわかる訳がなかった)

(あの時のことを思い出していたのは私だけだし……)

(それにグランドスラムの話を今さらされたって、困るだけだよね)

迂闊に言ってしまった自分を後悔して、当たり障りのない言い訳に変えていく。

ほらっ、アッキーって昔からテニスだけは頑張ってたじゃない。

きっとインハイに出たら、もっとファンが増えるよ!

女子にモテるためにも頑張らないと。

笑って誤魔化せば、彼は黙って私を見ていた。

…………。

(え……、何?)

いつになく真剣に視線を向けるアッキーに、胸が騒ぐ。
茶化せるような雰囲気もなく、ただただ私を見つめる彼に言葉を失っていた。

…………お前は、さ。

(私……?)

ようやく口を開いた彼の続きを待っていれば、アッキーは息を吐いて首を振る。

…………まあ、いいや。それより、勝つとなんかいーことある?

オレがモテるのはわかってるから、他のことで。

ニヤッと私を見降ろしながら自信満々に言う彼に呆れる。
同時にいつもの調子に戻ったアッキーに安堵もしていた。

何よ、良いことって。

……アッキーにはないかもね。そのほうが私は助かる……だけだし。

お前が?

う、うん。

校長先生に頼まれているのもあったけど、そういえばもう一つ大きな利益があった。

そうだ。アッキーがテニスに本気になれば、女の子を相手にする時間も減るじゃない?

多少は校内も落ち着くかなって。

冗談めかしてそう笑えば、アッキーは『また、それか』と言わんばかりに苦笑した。
けれど、すぐに彼は悪戯っぽく瞳を細め、私を覗き込む。

なあ、萌。それってオレにモテてほしいの? モテないでほしいの?

さっきの「女子にモテるためにも頑張れ」って言葉と矛盾するんだけど。

(しまった……!)

とっさについた言い訳で、まさかこんな追及を受けようとは。

アッキーは面白がるように、ニヤニヤと笑っている。

……んんっと、アッキーがモテたいなら頑張ればいいと思ったよ。

だからといって、校内を騒がしくさせるのはまた別。そういうことはもっと上手くやってください。

ははっ。手厳しいの。

…………。

笑う彼を見ながら本当に? と思う。
——本当にそれが私の本音?

こんなふうに他の女の子と過ごすのを嫌だと思っていない?

あの、さ。アッキー。

うん?

私さ、本気でテニスをするアッキーを見れたら嬉しいよ。

たぶん私にとってカッコいいアッキーは、真剣にテニスをしているアッキーだし。

なんだよ、多分って。

た、多分は多分だよ。

……ふうん。そっか。

そっか、そっかあ……。

アッキーはそう呟きながら何度も頷く。

アッキー?

じゃあ仕方ねえな。

そう言った彼はどこかスッキリとしたようで、ニッと口角を上げた。

たまには本気ってヤツ出してみるか。

その言葉に息を呑む。

(アッキーが、本気を!?)

目を見開いていれば、すいっと端正な顔が私のすぐ目の前まで近づいた。

見てろよ、萌。

ぶっちぎりでインターハイへ行ってやる。

その代わり、ちゃんとオレのこと応援しろよ。

最後に思いっきり笑った顔が、昔の彼の笑顔とダブって鼓動が跳ねる。
正直、その時はその場のノリだと思っていた。

テニスコート

——だけど、その日以降、アッキーは本当に本気を見せてくれたのだ。

審判

ゲームセット!勝者、翠・K・シャープ!

ラインの内側で跳ねたボールを見て、審判が声を張り上げる。

(わあ……)

見たか、萌! 余裕だっただろ。

う、うん……。相手の人、手も足も出ていなかったね。

びっくりするくらい強かった。

オレが本気を出せばざっとこんなもんだ。

自慢げに口元を上げるアッキーに、全く否定ができない。

インターハイ予選へと繋がる県大会個人戦の予選が始まって、試合を見にくれば彼は順調に勝利を勝ち取っていた。

(何がびっくりしたって、圧倒的な強さで勝ち進んでるのもすごいんだけど……)

(アッキーが本当に本気でテニスをやっていることがびっくりだよ)

感心しながら汗を拭く彼を見る。

あの日以降、アッキーは真剣にテニスに向き合っていて、部活やそれ以外でも練習に勤しむ姿が見かけられた。

その姿を見て、同じテニス部の部員達やマネージャーのさくらにも火がついてテニス部全体で本気でインターハイへと目指す動きへとなっていったのだ。

その効果は絶大で、先に行われた団体戦の予選はすでに勝ち抜いていて、県大会本選への出場が決まっている。
その本選を勝ち抜けば、インターハイへの出場が決まるのだ。

もちろんそういう結果になったのは、どの試合も負けることのなかったアッキーの力がかなり大きいのだけど。

(アッキーって本当にすごいんだ……)

(強いのはわかっていたけど、まさかここまで勝ち進んじゃうなんて)

尊敬の目を向ければ、アッキーは不満げに私を問い詰めた。

てか、萌。オレはちゃんと応援しろって言ったはずだけど。

“ちゃんと”って意味、お前わかってる?

え……? うん。ちゃんと応援してるでしょ?

だから団体戦だって、今日だって見に来ているじゃない。

不思議に思いながらそう答えれば、彼は、はーっと長い息を吐く。

萌のアレはただ観戦してるだけだろ。応援っていったらもっと黄色い声を上げて応援をしないと。

きゃー! 翠くんかっこいー! とか、スマッシュが素敵ー! とか。

ただ見てるだけじゃ、モチベーションが上がらねえよ。モチベーションが。

……………………。

アッキー……ばっかじゃないの。

バ、バカ……!?

黄色い声なら、アッキーのファンたちが一生懸命してくれてるじゃない。

何で私が彼女たちと同じことをしなきゃいけないのよ。

私はアッキーのファンじゃないんだから——。

そこまで言って、自分の話した内容に怖くなった。
今、気づきたくないことに気づいてしまいそうになったから。

なんだよー。昔はキャーキャー言って応援してたくせに。

アッキー、カッコいいっ! ってタオル持って駆け寄ってきてただろ。

それが、いつの間にか来なくなってさー。

…………。

……萌……?

……………………。

……ま、いーけどな。

それが今の萌だもんな。

オレもオレで昔のままじゃねーし。

ぽん、と彼の手が頭で跳ねて、その優しい感触に胸が苦しくなる。

すっかり黙ってしまった私をアッキーは追及することはなかった。

黄色い声は出さなくてもいいけど、次の試合もちゃんと見とけよ。

…………うん。

頑張ってね。アッキー!

笑みを取り戻せば、アッキーも笑顔を返す。
その後もアッキーは順調に勝ちを進めていって、とうとう県大会の個人戦本選——

インターハイ予選への切符を手に入れたのだった。