北野神社
息をきらしながらようやく神社にたどり着くと、姉ちゃんの言っていた通り、小さな人影が見えた。
…………。
境内の隅の柵に寄りかかるようにして体育座りをして、背を丸めている。
芽衣……。
そう声をかけると、後れ髪の絡む細い首筋が、びくりと跳ねた。
顔を見なくても芽衣の心が傷付いているのがわかる。
俺が言った言葉でこれ以上傷つけてしまったらどうしようと、少し怖い気持ちはあった。
けれど俺は芽衣に向かって一歩一歩近付いていく。
……ごめんな、芽衣。
俺、周りの……お前の気持ちも考えずに……酷いことばっかりしたよな。
今思うと、自分のやったことが怖いくらいで……ものすごく後悔してる。本当……ごめん……。
隼人が悪いんじゃないよ……。
芽衣は必死に搾り出した声でそう言いながら、俺を振り返った。
こんな時でさえ、芽衣は俺のために顔を上げて言葉をかけてくれる。
泣いた跡の残っている顔なんて誰にも見られたくないだろうに、自分のことなんていつも後回しで。
ごめんって……謝るのは私の方だよ。
傷つく権利なんて私にはないのに。
だって私、何もしてない……。
隼人とあの人が付き合うのが……キスするのが嫌なら……。
もっとはっきり、やめて!って拒絶すればよかったんだよ。
芽衣……。
それをしなかったのは私……だから私には、隼人に心配してもらう資格なんて……。
………………っ。
華奢な肩を震わせて、芽衣は苦しそうに両手で顔を覆った。
ごめんなさい……私、今、ぐちゃぐちゃで……。
そもそも、やめてって言う権利だって私にはないじゃない……。
だってあの子は……少なくとも隼人に気持ちを伝えようとしてたもの。
ああいう言い方をしてはいたけど、あの子が本当に隼人を好きなのなら、私が入る余地なんてない……。
……隼人が私のことをどう思ってくれているのか、自信がなくて……。
……!!
何もできなかった私には……。
…………。
なのに、ごめんなさい……。私、あの子を叩いちゃった……!
隼人を好きなわけじゃなくて、単に見栄で付き合いたいって言ってるんだってわかったら、もうその時には私の中で何かが弾けていて……つい手が出てしまったの。
ごめんなさい……ごめんなさい! 私のせいでおばさんたちに迷惑がかかるかもしれない……っ。
私は……何てことを……。
芽衣、それは違う。
……っ?
芽衣のやったことは何も間違ってないし、やっぱり謝るのは俺だ。
芽衣は何もしてないって言うけど、俺はずっと芽衣に気持ちをもらってた。
心配してくれたり、料理を作ってくれたこともあった。
芽衣の気持ちがたくさん詰まってるって心のどこかでは気付いてたのに、何もしてなかったのは俺の方なんだ!
…………隼人……。
なのにその芽衣をこんなに傷つけて、本当、男のくせに情けねえな、俺。
ぐっと手のひらを握りしめた後……俺は自分の頬を力いっぱい叩いた。
きゃ……っ!
や、やめて、隼人!自分を傷つけないで……!
芽衣は慌てて俺に駆け寄ると、腕に飛びつくようにして俺が俺を殴るのを止める。
ふわっと芽衣の匂いがした。
必死で俺の腕を押さえ込もうとしている芽衣の手のひらは、少し熱かった。
きっと芽衣の心が温かいからだ。
温かくて優しい心を持ってて、いつでも自分のことは後回しで遠慮がちで……。
そんな芽衣が、我を忘れて人を叩くくらい大事に思ってるやつがいる。
恥ずかしがり屋のくせに、男の胸元に大胆に近付いたことに気付かないくらい、一生懸命になる相手がいる。
……芽衣。
……あ……。
俺の腕にしがみついて、距離がかなり近くなっていたことに今さら気付いた芽衣が、かあっと頬を染める。
その薄っすら赤みがかった頬を、俺は素直に可愛いなと思った。
ご、ごめんなさ……。
慌てて離れようとする芽衣の腕を、今度は俺がぎゅっと捕まえる。
芽衣はまだ涙の跡が残る大きな瞳を見開いて俺を見上げる。
……俺、もう二度と芽衣を傷つけたくない。
守りたい。
そんなふうに思った女の子はお前が初めてだ。
……………………。
……隼人……。
さっきはあんなことをしておいて、都合がいいのはわかってる。でも——。
こんな俺だけど、付き合ってもらえる?
生まれて初めて、俺は女の子に告白した。
赤く染まって綺麗だと思っていた頬が、さらに熱っぽく色付いていく。
しばらくあっけにとられていた芽衣は、一瞬泣きそうな顔になって……でもそれはすぐに可愛い微笑みに変わった。
ほ、本当に私なんかでいいの?
目尻に溜まった涙が少しずつ増えていくのがわかる。
……芽衣がいいんだ。
その言葉を聞いた芽衣の瞳はさらに見開いて、今度は安心したのか、笑みと一緒に涙が頬を伝った。
……わがままで、うるさい女が一人増えるだけかもしれないよ?
うっ……。
確かに、芽衣は言うべきことをちゃんと言う女子ではあるけど……。
それが芽衣なら、俺は構わないよ。
えっ……。
だ、だって私、すぐにヤキモチ焼いちゃうし……、
今回みたいに後先考えずに行動して、また隼人に迷惑かけちゃうかもしれないよ……?
芽衣は自信なさ気に、肩をすくめて言った。
……あっ……や、やっぱ、考え直させてもら……。
あまりに真剣な芽衣を見て、つい冗談のつもりでそう言おうとしたが、その言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
芽衣の細い指が伸びてきて、柔らかく俺の唇を押さえている。
……それを、これから二人で一緒に考えるのは、嫌?
…………。
ちょっとだけ不安そうに尋ねる芽衣はいつにもまして可愛いく見えた。
芽衣の指がゆっくり離れていくのに合わせ、俺は笑って首を傾げる。
ま、いいか……。
本当は悩んでなんかいなかったけど、俺は少しもったいぶってそう答えた。
たぶん芽衣のすることなら、たとえどんなことがあっても最後には可愛いと思えるような気がしたからだ。
……それから俺たちは二人で神社を後にした。
・
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住宅街
少し迷ったけど、まずは自分の家に一旦戻ることにした。
『…………私と半年間、付き合うこと。そうしたら……今までどおりの仕事ができるよう私が口添えしてあげる』
あの子にそう言われていたけれど、結果的に俺は最悪な形でその約束を破った。
当然、彼女は俺の家族の仕事を妨害することで復讐してくるだろう。たぶん、傷付いた分、今まで以上に。
そのことを姉ちゃんと母さんに話して、改めて謝らなくてはいけない。
芽衣のことは、一度は家に送っていこうかと思った。
学校へ行ってもかなりの騒ぎになっているだろうし、わざわざ好奇の視線に芽衣を晒す気にはならなかったからだ。
けれど、芽衣は直接俺の家族に謝りたいと言って、俺にくっついて来た。
それもまた芽衣らしいなと思って、俺は特に反対することなく芽衣を家に連れて行くことにした。
芽衣は死刑宣告を受けに行くように青くなっているけど、怒るどころか、家に着いた途端に母さんたちが全力で芽衣を励ますのはわかっていたので、そんなに心配はなかった。
(あとは家業の問題だけだな……)
(母さんは心配いらない、俺は俺にできることをやれって言ってたけど)
(俺だってやっぱり家族を助けたいんだ……)
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風見鶏の館
住宅街をしばらく進むと、やがて我が家のレンガの外壁が見えてくる。
家族がずっと暮らしてきた家。
尖塔(せんとう)の上には、風見鶏が静かに鎮座している。
あ……。
よく見ると、玄関の前には姉ちゃんの姿があった。
もしかして、俺たちのことを心配してずっと待っていてくれたんだろうか。
あ! 隼人! 芽衣ちゃん!
俺たちの姿を見つけると、姉ちゃんは急いで走り寄ってくる。
あの……っ! 麻耶さん、すみません!
俺が何か言うより先に、芽衣は真っ先に姉ちゃんに頭を下げた。
わっ!? め、芽衣ちゃん?
実は私……、麻耶さんたちの仕事のことでご迷惑をかけてしまったかも……しれないんです。
…………。
今、麻耶さんたちと仕事をしている『天下一通販』……その部長さんの娘である生徒を、私がひっぱたいたんです。
今頃あの人……すごく怒っていると思います。麻耶さんたちの仕事の妨害も、これからもっと酷く……。
姉ちゃん、さっきも言ったけど、これは芽衣のせいじゃないから。全部俺のせいでこうなったんだから。
…………ふふふっ。
え……?
その件なら大丈夫よ、二人とも。
大体の話はさっき隼人から聞いたけど、問題はもう、ほとんど解決しているの。
解決? 一体どういう……。
仕事の妨害っていうと言葉は悪いけど、どうも向こうの上司から何らかの圧力が掛かって文句を言われたせいで、担当さんからなかなか販売のOKが出なかったのは事実。
でもそれは、こちら側にも付け入る隙があったわけで、だったら絶対文句を言われない企画を出してやろうって。
だから私と母さんで今の商品を全部見直して、誰にも文句を言われない完璧な品揃えにしようって決めたの。
姉ちゃん……。
むしろ今回の件は、遠慮ないアドバイスありがとう……って感じ?
きっとこれからの仕事はもっといいものになるわ。
それに……実はものすごく強力な助っ人が、今うちにいらしてて……。
姉ちゃんがそう言うが早いか、うちの玄関の扉がゆっくり開く。
そこにはお客様の帰りを見送ろうとする母さんと、その容姿からも上品さが伝わる老婆の姿があった。
…………ん? あれ?
こちらに歩いてくるその人を見て、俺は思わず首をひねる。
(あの人……どこかで見たような?)
あっ……!
芽衣? どうしたの?
今、隼人の家から出てきたお婆さん…。
コツリと靴音がしたので振り返ると、小柄なお婆さんは俺と芽衣を見てにっこりと微笑んだ。
お久しぶりね、お嬢さん。あの時はどうもありがとうね。
(え……!?)
やっぱり。以前、電車の中でお会いしたお婆さんですね。
(あ……ああ! そうか、それで俺も見覚えがあったのか!)
忘れもしない、俺が芽衣を初めて意識した日のことだ。
……ふふふ。やっぱり芽衣ちゃんか。
実はね、さっき電車で助けられたお話を聞いて、芽衣ちゃんじゃないかなぁって思ってたの。
……えっ、で、でも……どうしてここに!?
あの時はあなたにも学校があると思って引き止められなくて……。
隣の町にもう百歳近くになる私の母が住んでましてね。海外にいる、ちょうどあなたくらいの孫も帰国していて、あの日は母の見舞いとその孫に会いに来てたんです。その途中であなたに助けていただいて。
助けただなんて、そんな……。
風見さん、麻耶ちゃんから今回のお仕事の相談を受けたとき、雑談でそのお話をしたら、あなたかもしれないって。
それで、ここで待たせていただいてたのよ。息子さんとこの後戻ってくるかもしれないと聞いたので。
ふふっ。
今日ここに来た本当の目的は、ご迷惑をおかけしたみなさんへのお詫びだったのよ。
だけど今日、あなたに会えてよかったわ。
……え、お詫びって……!?
……どうしてお婆さんが?
申し遅れましたが、私は『天下一通販』の三田(さんだ)と申します。
この三田さんはね、あの『天下一通販』の創設者で、今は会長さんなのよ!
トメさんっていうさっき出てきた三田さんのお母さんが日本を代表する家電メーカーの創設者なんだから、一体どれだけ勝ち組なのよって話だよね。
これ麻耶、失礼よ。
……だってねぇ、隼人。本当のことなんだし。
は……はいぃぃ〜っ!?
お婆さんが……『天下一通販』の会長さん?
……はい。お恥ずかしいながら。元々ラジオやテレビの通販で皆さんに大きくしていただいたので、昨今のネット時代になってからは若い人たちに任せようと思ったのですが、どうもまだ未熟な者がいたようで、お恥ずかしい限りです。
あなたたちにまで色々とご迷惑をかけてしまったそうで、本当に申し訳ありませんでした。
三田のお婆さんは、俺と芽衣に深々と頭を下げた。
そ、そんなぁ、頭を上げてください。
部長という立場を利用して、いつも支えていただいている会社様にご迷惑をかけるなど、言語道断です。
社の方では、私から関係者にきつくお灸をすえておきますので。
…………。
厚かましいお話ですが、それで何とか今回の件は収めていただければと。本当に、申し訳ありませんでした。
三田さんは、今度は俺たち全員に対して頭を下げてくれた。
じゃ、じゃあ、麻耶さんたちのお仕事はもうこれで……。
うん、大丈夫よ。今までと同じか、それ以上の状態に戻っているのをさっきネットで確認したから。
……ありがとね、芽衣ちゃん。たくさん心配してくれて……。
本当に……本当によかった……。
芽衣はこくんと頷くと、ぽろりと一粒安堵の涙を流した。
俺はその涙を拭ってから……目の前のお婆さんに1つ頼み事をした。
あの、三田さん。さっき言った部長さんのことなんだけどさ。
……処罰、とか。そういうのはできればしないでおいて欲しいんだ。
…………それはどうして?
元は、俺がまいた種だから。
責任は自分で取りたいんだ。
傷つけるような言い方をしちゃってごめんって、俺があの子にちゃんと謝ろうと思う。
……芽衣がいるから、付き合うことはできないけど。
隼人……。
…………。
私もちゃんと謝る。どんな理由があろうとも、私はやってはいけないことをした。
だから、私も隼人と一緒に謝りたい。
……それで許してもらえるかどうかはわからないけれど。
許してもらえるまで一緒に謝ろう。
……っ! ……うん。
俺やっと、何が大事で何が大事でないのか、わかってきた気がする。
隼人……。
女子だからとか、裏表があるからとか、そんなの本当は関係なかったんだ。
守りたいか、守りたくないか。
好きなのか、嫌いなのか。
今ならはっきりわかる。俺は、芽衣が好きで守ってやりたい。ただそれだけでよかったんだね。
…………うん! 私も隼人が好きで……大好きで、いつも一緒にいたい。
俺と芽衣は、お互いの手をぎゅっと強く握り合った。
……あらあら、まあまあ。
何もこんなところで、イチャイチャしなくてもいいんじゃないのぉ〜?
ったく。あ〜……私も、もうそろそろ彼氏作っちゃおうかな〜……。
おやまぁ! 最近の若い方は本当に!
でも、とてもお似合いの素敵なカップルだこと。おほほほっ……。
三田さんの明るい笑い声が響き渡る。
その声と同じくらい優しい風がこの館を吹き抜けた。
それまで青空を背にした風見鶏が、まるで自分の意志を持ったかのように、元気にその向きを変えていた。
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