風見鶏の館室内
……んん……。
窓から差し込む朝の光がいつもより少し眩しい。
嫌な予感がしてふと時計を見ると、目覚まし時計をかけたはずの時間からすでに10分ほど過ぎていた。
(……いっけね、寝過ごしちゃった!)
(昨日スヌーズの設定、しなかったんだっけ?)
ぽりぽりと頭を掻きながら昨日のことを思い出そうとするが、途中でどうでもよくなってすぐに諦めた。
隼人ぉ〜〜〜。今朝はいつもより早いんでしょ〜!
いつまで寝てるのぉ〜!!
階下から母の声がベッドを伝って響いてくる。
はーい、今起きたー。……全力で起き……ました……ふわぁ〜ぁ。
たぶん聞こえてはいないであろう口ごもった返事に加え、やる気のない欠伸をトッピングしておいた。
まだ頭が低速運転中の俺は、半自動のロボットのように、着慣れた制服を見ることなく正確に手に取り着替える。
(何で今日に限って全校集会とかやってくれるかな……)
(やってもいいけどさ、登校時間はいつもと同じでいいと思うんだよな…)
何かに文句を言いたくて仕方なかった俺は、ぶつぶつと呟きながら階下へと向かった。
居間へと続く明るい階段を降りると、いつものトーストのいい匂いがした。
が、それとは別に、この時間ではあまり聞くことのないカチャカチャというキーボードを叩く音が聞こえる。
(うわぁ〜、姉ちゃん起きてるし)
あーあと思いながら、俺は覚悟を決めて居間のドアを開けた。
おはよ〜。
そこには想像通り、普段この時間にあまり見ることのない姉の姿があった。
あ、姉ちゃん起きてたんだ。おはよー。
なんともわざとらしい芝居をしてみる。
おはよー……って、もう隼人が起きてくる時間?
この、爽やかな朝の時間とは全く無縁だという顔色をして、ノートパソコンの画面を凝視しているのが、まごうことなき俺の姉……麻耶(まや)・マリア・風見だ。
うちは、ひい爺ちゃんたちが日本へやってきて定住し、爺ちゃんたちが貿易関係の仕事を始めてから、小さいながらも家業として輸入関係の仕事をしている。
小学生の時、父さんを病気で亡くしてからは、母さんと当時まだ大学生だった姉ちゃんは必死で働いてくれた。
その頃からネットを使った個人輸入業を始め、それが今、ようやく軌道に乗ってきたところだという。
相手が海外ということもあり、姉ちゃん達は午後から夜中にかけて仕事をしていることが多いのだが、この時間まで起きているということは、決まって“アレ”に違いないのだ。
……チッ。あのブーデーオヤジめぇ〜!! ったく、ケチくせぇ〜なぁ〜。
姉ちゃんは舌打ちしながら、見ている画面に罵声を浴びせた。
(……やっぱそうだよな)
姉がこういう状態の時は、大体商談が上手くいかなかった時だ。
仕事場が家で本当に良かったと思う。とても人様に見せられたものじゃない。
(触らぬ神に祟りなし……。確か日本にはそういう言葉があるんだよな)
……た、大変みたいだね。お疲れさま……。
一応ねぎらいの言葉はかけてみたが、すでに俺の話は聞いていないようだ。
ほらほら隼人、いつまでもそんなところに突っ立ってないでさっさと朝食食べちゃってよ。
母さんもこの後忙しいんだから。あんたも早く学校行かなきゃでしょ?
あ、うん。わかってるわかってる。
母さんに煽られるようにしてテーブルにつく。
毎度思うことだけど、忙しくバタバタとしているのに並んでいる食事はどれも完璧で、決して手を抜いたりはしない。
ねぇ、母さん、この件なんだけど……。
姉ちゃんがノーパソを母さんに見せながら、いつもの位置に座った。
ああ、これはね……。
2人で画面を見ながら真剣に話し始める。
仕事の話をしている時の母と姉はいつも本当に真剣で、話についていけない学生の俺には、2人がちょっぴり羨ましく思えた。
そんな俺の視線に気づいたのか、母さんがちらりと青い目でこっちを見て言う。
あんた、まだ食べてないの? 早くしないと翠(あきら)くんが来ちゃうよ。
それに、こっちもまだ仕事が残ってるんだから、さっさと学校行ってもらわないといつまでも片付かないよ。
わかってるよー。っさいなぁー。
食べるのが遅い男は出世できないよ!
大きなお世話だと思いつつ、
出世だけが人生じゃないし。
と、言い返してみる。
そんなのは偉くなってから言いな! お小遣いもらってる分際で。
(そ、それ言うかぁ……)
それに、まさかその寝癖のままで学校行くんじゃないわよね?
……せっかくいい男に産んだっていうのに、そのボサボサ髪じゃあ台無しだね。
そんなんだから、高校生にもなって彼女の一人もできないんじゃないの?
(あー、もう好き勝手言われ放題じゃん俺。今日は朝からついてないや……)
俺のことは放っといてよ! あーもう、ごちそうさま!!
俺は逃げるように洗面所に向かった。
“おしとやかな女”なんていうのは、もはや“伝説”だと思う。
確かに父さんが早くに亡くなって、俺を育てるために男勝りに頑張らないとやっていけなかったことはわかる。
けど、もう少しデリカシーというかなんというか……。
いろんな意味で“女は苦手な生き物だ”、というのが俺の結論だ。
大体何を考えているのかもわからなければ、表裏も使い分ける。
あんな姉ちゃんでも、相手によっては完璧な『清楚なお嬢様』に化けられるわけで。
(イブがアダムにリンゴを食べさせたのは、あれ絶対確信犯だよなぁ……)
そんなことを考えながら寝癖を整えていると、
ピンポーン♪
親友のお迎えのチャイムが鳴った。
ガチャっというドアを開ける音と共に、よく通る低めの声が届く。
『おはようございまーす』
ドアの向こうからは、出てくれてた母さんの声も聞こえる。
まぁ、いつものことなんだけど。
『翠くん、おはよう。毎朝、待たせちゃって悪いわねぇ』
『隼人ーーー、翠くん、来たわよー。聞こえてるの?』
(その声が聞こえないやつは病院に行ったほうがいいって……)
……はーい。
まだ支度終わらないの? 毎度毎度翠くん待たせるんじゃないよ!
わかってるって! あいつは待つのが趣味だからいいんだよ。
んなわけあるかっ!
姉ちゃんの言葉を避けながら、俺は足早に玄関へと向かった。
アッキー、お待たせー。そんじゃ、行ってきまーす!
振り返ると、母さんと姉ちゃんが愛想よく笑顔で手を振り、毎朝恒例の“見送り”をしてくれている。
いってらっしゃ〜い。気をつけてね〜。翠くんは特に。
(……毎度誰を見送ってるんだか)
はーい、行ってきまーす、お姉さん!
隣に並んだアッキーが笑顔で手を振り返している。
(ほとんど儀式化しているとはいえ、アッキーもよくやるよ)
隼人もたまには“可愛い弟”、演出してやれば?
俺はオマケだからいいの。
まーたそんな拗ねちゃって。かわいくない弟。
……アッキーのそういうところ、ホント尊敬するよ。
そう?
アッキーは少し真面目な顔をしたかと思うと、すぐににっと口角を上げた。
そんな取るに足りない会話をしながら、俺たちはいつもの通学路をいつものように歩いた。
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住宅街
それにしても、普段から明るい姉さんとお母さん、しかも二人とも美人だなんて、かなり羨ましい環境だと思うぜ?
アッキーは同中で、互いにハーフということもあり、すぐに打ち解けることができた。
美しいバラには棘がある、っていうじゃん。
いつも何かを聴いているみたいなんで、こないだ何を聴いてるのか尋ねたら、イヤホンを貸してくれたんで聴いてみた。
何やら話が聞こえると思ったら、なんとそれは「落語」だった。さすがに少し笑った。
彼の名誉のために言っておくけど、普段は80年代や最近のロック音楽を聴いているらしい。
俺から見てると、美しいのかどうかも怪しいけど。
そういうスリルも面白そう。
アッキーが悪い顔をした。
こういう時のアッキーは結構本気だったりする。
笑えない冗談はやめてくれよー!
アッキーは、クククッと笑い合いながら俺の背中をばんばんと叩いた。
そんなことをしていると、またいつものように周りがうるさくなってくる。
あ……今日も二人一緒だー!
ホント、仲いいよねぇ〜。やっぱ、二人ともかっこいいしー。
今日こそ、声かけてみようよ。
えっ!? ムリだってばぁ〜。
コソコソと内緒話をしているつもりみたいだけど、ばっちり全部聞こえている。
(……たまには放っておいてほしいんだけど)
アッキーと並んで歩いていると、決まってこの手の女子が現れる。
もう慣れっこではあるけれど、いい加減こちらの空気を察して欲しい。
おおっ、今日はまた可愛い子が多いんじゃね? な、隼人?
そういってアッキーは無意識にキラキラオーラを全開にする。
な、じゃないよ……。
(実はアッキーが一番空気読んでなかったり疑惑!?)
女子たちも、アイドルを見るような目で見たり、近くでギャーギャー騒ぎさえしなければ、別にいる分には構わない。
でも、ただでも姉ちゃんたちに毎日ギャーギャー言われてる俺は、マジ勘弁してほしいと本気で思っている。
あっ、翠くんと隼人くんだー。おっはよー。
おはよー。
通学路には当然同じ学校の生徒もいるわけで、無碍(むげ)にできない分さらに厄介だ。
おうっ、おっはよー。
朝からうちの学校の誇るイケメン2人と会えるとは〜♪ 今日はいいことありそう。
うんうん、きっといいことたくさんあるぞー。
えっ、マジでぇ〜。じゃ、今度一緒にカラオケ行こうよ。
いいねぇ、気が向いたらなぁ。
「約束だからねぇ〜」と言って去っていく女子に、アッキーも「またなー」と笑顔で手を振っているけれど、
(あの子確かもう5回目くらいの約束だよな……)
(アッキーもアッキーで鬼だね)
すると、急に俺の顔を見たアッキーがククッと笑い出した。
なに?
いや、隼人のその無愛想面のおかげで、いい感じで距離感保ててます。
俺はアッキーの保護者ってか!? まぁ、別にいいけどさ。
前まではそんなでもなかったのにね。
共学様様、ありがたいことじゃん。
はぁー、アッキーにはね。
俺たちの通う高校はそれまでずっと男子校だったけど、少子化の波に勝てなかったのか、今年から男女共学になった。
それまでもわざわざ遠くから俺たちを見に来る女子や、カメラを持ったわけのわからない連中は少なからずいたけれど。
オレは女子がいるほうがいいと思うけどな。
世の中、変な女ばっかでもないぜ?
お目に掛かったことがございません。
いるいる絶対。まだまだ人生これからじゃん。
今日この後にだって、ばったり運命の出会いがあったりするかもしれねえし。
……ははっ、運命の出会いねぇ。アッキーはマンガの読みすぎだね。
あ、マンガをバカにしたなぁ〜。もうお前には貸してやんね。
えー、それは困る。謝るし、メンゴメンゴ。
そんなたわいもない会話をしているうちに、俺たちは駅に着いた。
うちの学校は、ここからさらに5つほど先の駅から歩いて数分の所にある。
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駅のホーム
……電車が来ます。ホームにいる方は白線の内側までお下がりください。
朝の混雑で、機械的なアナウンスがところどころ途切れて聞こえる。
今日はいいタイミングで電車きたな。いつもと時間違うから適当だったのに。
まあこの時間帯は短い間隔で電車来るからね。
いつもと同じなのになぜか違う感覚を覚えながら、俺は電車がホームに入ってくるのをぼうっと眺めていた。
今にも線路に落ちてしまいそうな、中途半端に整列した灰色の人込み。
飛び交う喧騒、電車のブレーキ音。
全てがいつも通りに思えた次の瞬間、ゆっくりと進入してくる電車とは別に、ホームで波打っている灰色の雑踏の中に、確かに色の付いた何かが見えた。
(……ん!? 何だあれ……!?)
その色を見た瞬間、周りのすべての音が遮断された。
機械的なアナウンスも、ホームの雑踏も、アッキーが話しかけてくる声さえも。
唯一聞こえるのは、自分の心臓の音だけだった。
(……あの制服、うちの学校の女子……だよな?)
俺のグレーで無音の世界に、たった一人だけ色を持つ女子。
他にも同じ制服を着ている女子はたくさんいるのに、その子だけに色があり、時が止まったようなその世界の中で、その子だけが生きていた。
あの子……誰? あんな子いたっけ……?
俺は無意識に声を出していた。
すると、自然に雑踏が聞こえ始め、次第にいつもの騒がしいホームへと戻っていった。
隣にいたアッキーは不思議そうな顔をして俺を見ている。
ん? どの子? ……ああ、あの子か。
微動だにしない俺の視線の先を見て、誰のことなのかわかったようだ。
……てか、マジで言ってんのか隼人?
俺は目線はそのままで、首だけで返事をした。
俺たちを見て指を指している女子や、ちらちらこっちを見ている女子も多い。
だけど、その女子だけは凛とした佇まいの中、俺たちを見ているわけでもなければ、気にしている素振りさえもない。
ただ静かに本を読んでいるだけなのに、なぜだか俺は目が離せなくなっていた。
一応訊くけど、普通に女子……だよね?
目が2つあって鼻も口も1つずつ、おまけにそこそこ胸もありそうだから、変態でない限りは女子だろうな。
……だよね。
………………。
おいおい、どうしちゃったんだい隼人くん?
……それはこっちが訊きたいよ。
(なんだったんだろう、さっきの?)
さっきの子だけど、あの子の名前、確か……。