風見鶏の館
~9話~

高校正門

……俺はただ呆然と、その場を去っていく芽衣の背中を見ていた。

あの、親切で優しくていつも穏やかな芽衣が誰かをぶつなんて……。

今でも信じられない……。

隼人

(…………いや)

隼人

(違うな……。よくよく思い出せば、芽衣について俺は大きな思い違いをしてたのかも……)

そもそも最初から芽衣は、俺が知っている“女子”じゃなかった。

大人しそうに見えて、いつだって誰かのために行動することに迷いがなくて、他のやつらが全く見ていなくても、正直で芯がぶれない……そんな子だった。

その芽衣が、手が真っ赤に腫れるほど強く誰かを叩いて、怒りを露(あら)わにしていた。

隼人

(“いつだって誰かのために”……)

隼人

(……芽衣が、今、想ってるのは……)

隼人

……っ!

強烈な熱が胸に込み上げて、俺の中をむちゃくちゃに暴れまわる。

……ここ最近、ふとした瞬間に顔を出しては俺の調子を狂わせていた熱いそれは……。

隼人

(芽衣…………)

お嬢様風の女子高生

……は……、何……?

震える声が耳に届いて、少しだけ意識がそちらに向かう。

お嬢様風の女子高生

私をぶった……? …………何?

お嬢様風の女子高生

…………っ!!

お嬢様風の女子高生

絶対に許さない!! 何なのよあなたたち!! そろいもそろって!! パパに言って訴えてやる!!

頬を叩かれた女子は、尋常じゃないほどぶるぶる震えていた。

腫れた頬を押さえて、すさまじく憤慨している。

取り巻きの女子たちは、仲間ということも忘れたように蒼白になって身を寄せ合っていた。

お嬢様風の女子高生

許さない! 絶対ただじゃおかない! この私を怒らせたらどうなるか……。

…………どうなるっていうわけ?

隼人

(……!)

すぐ近くから地を這うような声が聞こえて、俺は目を見開いた。

それまでずっと黙っていたアッキーが、いつの間にか激昂する女子の前に立ちはだかっている。

お嬢様風の女子高生

な……翠くん、どい──。

どいて、とあの女子は言おうとしたのかもしれない。

けれど、それまでずっと怒鳴り散らしていたその女子は、初めて声を飲み込み、その場で固まる。

怒ってるのが自分だけだとでも思ってる?

アッキーは、聞いたこともない静かな声でそう言うと、いつも付けているイヤホンをゆっくり外した。

こんなアッキーは、相手が男でもそう見られるものじゃない。

氷のナイフのようにあまりに冷ややかなその視線に気圧(けお)されたのか、さっきまで散々わめいていた例のお嬢様は、まるで蛇ににらまれた蛙のように瞬きも忘れて立ち尽くしている。

隼人

(アッキー……)

これ以上ダチをナメんのは、このオレが許さねえ。

悪いけど、もうオレらに関わんないでくれる?

短く、けれど強い言葉でアッキーは言い放った。

そして、それ以上はもうその女子に構う気がないというように視線を外し、俺へと向き直る。

……お前もな、隼人。

オレのダチを……お前自身を、もっと大事にしてくれよ。

隼人

…………ああ、俺もどうかしてた。すまない、アッキー。

しっかりアッキーの瞳を見つめ返すとアッキーはもう何も言わず、俺の肩にぽんと触れた。

その手のひらに励まされるように、ぐっと奥歯を噛みしめ、顔を上げる。

……頬を腫らした女子は、触れてはいけないものに触れてしまったような顔をして、目を泳がせ黙りこんでいた。

取り巻きの女子も、俺と、隣に立つアッキーの前にうなだれている。

隼人

…………俺、やっぱあんたとは付き合えない。

唇の色すら失っているその女子に、俺は小さな声でそう言った。

もしかしたら、その時初めてその子の顔をちゃんと見て、その子のための言葉をかけたのかもしれない。

それから俺はすぐに回れ右をして走り出した。

俺が今しなくちゃいけないのは、きっと芽衣を追いかけることだ。

たくさん、色んなことを間違ったけどそれだけはたぶん間違ってない。

突然走り出した俺を、アッキーは止めることはなかった。

肩に触れていたアッキーの手は、むしろ俺を送り出してくれるかのように、そっと背中を押してくれていた。

住宅街

芽衣は学校とは逆の方向に走っていった。

俺も芽衣も完全に遅刻だけど、今はそんなことは少しも気にならなかった。

隼人

(でも……ああ、くそっ……! 芽衣、どこ行ったんだ!?)

芽衣の姿を捜して、真昼の住宅地をあちこち走り回る。

汗だくになりながらも、俺は必死になって芽衣の姿を追ったが、芽衣の影すら見つけることができない。

それでも俺は足を止めずに、こうなれば芽衣が行きそうなところを片っ端からあたってやると、さらに速度を上げる。

隼人

(芽衣……今頃どこか一人で悲しい思いをしているのか!?)

隼人

(くそっ……早く芽衣に会いたい!!)

焦る気持ちがこみ上げる中、曲がり角の向こうから歩いてきた人たちにぶつかりそうになる。

???

きゃっ……!?

隼人

わ……すみま……せん!?

麻耶

ちょっと、どこ見て…………って、えっ!? 隼人!?

隼人

……!! 姉ちゃん、母さん!?

俺がぶつかったのはよく見知った人物たちだった。

買い物に行くところなのか、それとも仕事の途中なのか、とにかく姉ちゃんと母さんは、俺の姿を見て信じられないと目を丸くした。

隼人の母

やだ、隼人! あなたこんな所で何してるの!? 学校は?

隼人

ごめん! 今日だけはまっすぐ学校に行ってる場合じゃないんだ!

麻耶

はっ……? あんた何を……。

隼人

二人とも、芽衣を見なかった!? 学校とは逆方向に走っていったはずなんだ!

隼人の母

…………。

麻耶

………………。

切羽つまっている俺を見て、母さんと姉ちゃんは怪訝(けげん)な表情を浮かべた。

隼人の母

芽衣ちゃんの姿は見てないわ。家の方から歩いてきたけど一度もすれ違ってない。

隼人

そっか……サンキュ、母さん。

そう言ってもう一度走り出そうとするけれど、姉ちゃんの手が伸びてきて、俺の制服をぎゅっと掴む。

麻耶

ちょっと待ちなさい、隼人! 芽衣ちゃんに何かあったの!?

隼人の母

隼人がそんな顔するなんて……学校にも行かないなんて、只事じゃないんでしょ? ちゃんと説明しなさい。

隼人

母さん……。

何があったのか……。ついさっき自分がした事を思い出して、強い後悔が押し寄せる。

けど唇を噛み締めて、俺は正直に何があったのかを二人に告げた。

隼人

……俺が最低なことをしたんだ。

隼人

母さん達の仕事を妨害してる例の『天下一通販』の……部長の娘。その子、俺と同じ学校の子だって話だったろ?

隼人

その子が今日、親の仕事の妨害を止めて欲しかったら自分と付き合えって言ってきた。

麻耶

んなっ……!?

隼人の母

…………。

隼人

……それはやっちゃいけないことだって、俺にもわかってた。

隼人

アッキーも芽衣も止めてた。

隼人

だけど母さんたちのことが頭をよぎって……俺……。

隼人

……もういいやって思って。付き合うって答えた。

隼人

そしたら、付き合う証拠にキスしろって言われた。

隼人

通学路の途中だったけど。みんなが見てる前で証明しろって。

麻耶

…………。

話しながら、頭や胸の奥が鈍く痛む。

この痛みは自業自得というやつだと、わかっていた。

俺はそれだけのことをしたんだからその痛みは黙って受け入れるしかない。

けれど姉ちゃんの搾り出すような声を聞くと、たまらなくなってくる。

麻耶

……あんた、まさか……。

隼人

…………ああ、そうだよ。

隼人

……言われるまま、キスしたんだ。

俺の答えを聞いて、二人の瞳には落胆がにじんだ。

あちこちの鈍い痛みがさらに酷くなる。

俺がろくに考えもせず、安易に取った行動のせいで、周りの人たちをたくさん傷つけている。

その事実が俺の胸を鋭く突き刺した。

麻耶

…………この大馬鹿者っ!!

隼人

……っ!

いつの間にか俯いていた俺の胸ぐらを勢いよく姉ちゃんに掴まれて、俺はハッと顔を上げる。

麻耶

あんたのしたことは本当に最低よ!

麻耶

あんたは女として最もして欲しくないことを、よりによって大事な女の子の目の前でやったのよ!

隼人

…………。

麻耶

キスは女の子にとって……ううん、男にとってだって大事なものなの!

麻耶

それを好きでもない子に、気持ちを少しも込めずにするなんて……本当に不甲斐ない!!!!

麻耶

芽衣ちゃんにも……、相手は卑怯だったかもしれないけど、その女の子にも言い訳できないことをしたの!

隼人

…………うん。

隼人

もう、自分がどれだけ酷いことをしたのか、わかってるよ。

隼人

……それに、今日だけじゃない。

隼人

たぶん俺は、ずっと色んな人に酷いことをしてたんだと思う。

隼人の母

…………。

隼人の母

……麻耶、ここでこれ以上怒るのはもう止めましょう。

麻耶

母さん……。

隼人の母

今、隼人が一番話をしなくちゃいけないのは私たちじゃないもの。

麻耶

…………。

隼人の母

隼人に、私たちを心配してくれた気持ちがあったのはわかったわ。

隼人の母

でも……母さんたちを見くびってもらっちゃ困るわ。こんなことで家業が潰れるほど、私たちの仕事はヤワじゃないの!

隼人

母さ……。

隼人の母

ほら、もうそんな顔しない!

母さんは両手でぱちんと俺の頬を叩くと、強い眼差しでまっすぐに俺を見つめた。

隼人の母

隼人は男の子でしょう! 彼女の一人も守れなくてどうするの!

いつもの、手のかかる子どもに言い聞かせるような口調とは少し違う、

けど、普段と同じくらい大きな愛情がこもった声と瞳で、母さんが俺を叱る。

隼人の母

うちの家業のことは考えなくていい。隼人は、今隼人にできることを全力で頑張ればいいの!

麻耶

……ったく。本当に手のかかるバカ弟なんだから。

隼人

いて……。

握りこぶしを作って俺の頭にゴンとぶつけると、姉ちゃんはやれやれと盛大なため息をつく。

麻耶

だけど今、芽衣ちゃんを守れるのは隼人だけなんだから! しっかりあの子を守ってあげな。

隼人

姉ちゃん……。

麻耶

さあ、いつまでもウジウジしない!

隼人

ああ……わかった!

俺がしっかり返事をすると、姉ちゃんはよし!と満足げに笑った。

麻耶

さて、そうと決まれば、芽衣ちゃんのために私も力を貸さなくちゃね。

そう言うと姉ちゃんはスマホを取り出して、ものすごい速さで何かをし始めた。

隼人

……?? 姉ちゃん……?

麻耶

姉の情報網&ご近所ネットワークをナメないでくれる……?

どうやら姉ちゃんはメッセージアプリを使って、近所の友達や知り合いから芽衣の情報を集めているようだった。

麻耶

ん〜っと、女子高校生らしい生徒の目撃情報が7件か。そのうち、一人で沈んだ顔をしているのが……2件っと。

隼人

(2件か、どっちが芽衣だ?)

麻耶

……よし、わかったよ、隼人。

麻耶

…………芽衣ちゃんらしい女子が北野神社の方に行ったって!

隼人

え、北野神社!? でも、似たような情報が2件あったんじゃ?

麻耶

ここからは女のカンよ。間違いなく、芽衣ちゃんは北野神社の方だわ。

どこからそんな自信が出てくるのか。

でも、その時の姉ちゃんの顔に迷いはないし、不思議と俺もそれを疑う気はなかった。

隼人

わかった、ありがとう姉ちゃん! 俺、ちょっと行ってくる!

お礼もそこそこに、俺は全力で神社の方に向かって走り出した。

隼人の母

やれやれ、うまく芽衣ちゃんと会えればいいけどねぇ。

麻耶

たぶん大丈夫よ。

隼人の母

……でも、似たような子がいたんでしょ?

麻耶

そうだけど、神社にいた子は階段を上ろうとする妊婦さんの荷物を上まで持って上がってくれたそうよ。

麻耶

自分がつらい時なのにそんなことができる子なんて、芽衣ちゃん以外ありえないよ。

隼人の母

おやまぁ、そうなんだ。それなら確かに芽衣ちゃんだろうね。

麻耶

それに感心したタクシー運転手のオジサンからの情報だから、間違いないわ。

隼人の母

あんたの情報っていうのも大したもんだこと。

麻耶

ま、かわいい弟のためだしね。