風見鶏の館室内
はぁ〜……俺が求めてたのはこの静けさだよ……。
たっぷりと朝寝坊した、清々しい休日の朝……というよりは昼だけど。
寝癖がついたままで居間をうろつき、食べるのが遅い男は出世が〜と言われることもなく、のんびり食事をした俺は、両腕を天高く掲げるようにして、思いっきり背伸びをしていた。
こういうのを何て言うんだったかな。おに……鬼のいぬ間に……ってやつ?
……そう。実は今、我が家の実質NO.1とNO.2が、珍しく二人揃って海外に買い付けに行っているのだ。
普段は母さんか姉ちゃんのどちらか一人は家に残るんだけど、今回は目をつけている業者が2つあって、それが同日に別々のマーケットに出るとかなんとかで、1泊3日の海外旅行に出ているのだった。
(2人がいないだけで、この家にこんなに平穏が訪れるとは……)
伸ばしたい放題に羽を伸ばした俺は、適当にテレビのスイッチを入れてソファに転がった。
つかの間の男一人の自由……。今のうちに満喫しておかないとな。
普段ならこんなふうにゴロゴロしていると、眉間にシワを寄せた姉が小言を繰り出してくるところだけど、今日その心配は一切いらない。
それにしても、真面目な事を言う時の女ってなんで上から目線でしゃべるんだろうなぁ〜。
て言うか、俺は姉ちゃんが厳しすぎると思うんだよね? 休日にだらけないでいつ休むんだっての。
だらけるのと休むのは違う! と眉を吊り上げる姉の顔がぼんやり浮かぶが、今日の我が家の居間にはテレビの音だけが響いている。
あと母さんも……。カップ麺やスナック菓子は育ちざかりの男子には不可欠なんだって、早くわかって欲しいんだけどね……。
密かにこの日のために購入していたスナック菓子たちを、すぐ食べられるように近くに並べておく。
(もし母さんがこの菓子の山を見つけたら、ソッコーで回収するんだろうなぁ……)
しかし、どんなに忙しい日でも必ず手作りの食事を用意する母もまた、ここにはいない。
……………………。
……ちぇっ。
独り言は無意味だと気付いて、すぐにやめた。
口うるさい存在が近くにいなくてこの数日は清々するだろうと思っていたけれど、いざこうして一人になると、何と言うかこう……いまいち調子が出ない。
(うるさい生活にそれだけ慣れてたってことか……?)
(いやいや、それって姉達に毒されているって言うんじゃないの!? 俺は静寂を愛する男のはずだし)
(…………)
(……今頃ヨーロッパは深夜だから姉ちゃん達は寝てるかもな)
(怪我とか病気とかしなきゃいいけど……)
そう思いながらテレビを観ていたけれど、思ったよりもつまらなく、俺は近くに置いていた携帯へと手を伸ばした。
(暇だし、アッキーにでもメールしてみるか)
メール画面を開き、受信ボックスにあるメールから返信する形でメールを作成しようと思ったけれど……。
あ……。
受信ボックスの履歴に並んだ名前を見て、思わず声がもれる。
そこに並んでいるのは、アッキーからもらった他愛ないメールと……、以前に芽衣からもらったメールだった。
例のモデルを頼んだ時の、何時くらいにそっちに着きます、という簡単な内容。
…………。
ふいに、夏休み前に芽衣と一緒に写真撮影をした時のことを思い出す。
ポーズを変える時に何度も体が触れ合ったり、顔が近付いたりした。
別れ際の横顔や、ふわっと揺れる丁寧に編まれた三つ編みは、何故か今も鮮明に思い出せる。
……………………。
……っぶね。指が滑るところだった。連絡してどうすんだよ。……どうせいないだろうし……。
その時、玄関のインターフォンが鳴る。
タイミングがいいのか悪いのか……俺は短くため息をついてメール画面を閉じ、携帯をソファに放り投げた。
いや、そのままだと、指が滑りそうだったし、タイミングは良かったのかもしれない。
は〜い、どちら様?
来訪者に愛想よくする気もイマイチ起きず、適当に返事をしながらドアを開ける。
ところが……。
よっす、隼人。まだ寝てる可能性もあるかと思ってたけど、起きてたか。
あの……急にごめんね、隼人くん。
…………!!?
はっ? な、何なんだよお前ら……。
私はメールで先に連絡しようとしたんだけど、驚かせた方がいいって翠くんに止められて……。
いやさ、隼人が一人で寂しくて泣いてんじゃないかと思ってな? サプライズで喜ばせてやろうと……。
はぁっ!?
もう、違うでしょ翠くん。
おばさん達にちょっと頼まれたものを持ってきただけなの。
ま、立ち話もなんだし、詳しいことは中で話そうぜ。
アッキーが言う……? まぁでも、とりあえず入れば?
そっけなく言ったけど、内心ではかなり驚いていた。
ドアを開けて、そこにアッキーと一緒にいる芽衣を見た瞬間から、まだ胸の動悸がおさまってない。
え〜っと、それで、うちの親に頼まれたものって?
うん、食材の買出しなんだけど……。
芽衣が差し出したスーパーの袋を受け取ると、結構な重さがある。
え……芽衣、これ、重かったんじゃないの?
え? 普通くらいだと思うけど……。
コンビニのお菓子くらいしか買わない隼人クンには、買い物袋の平均の重さなんてわかんないんだよな?
(げ……しまった、お菓子を並べたままだった)
あ……確かにお菓子がいっぱい。
芽衣に少し笑われて、居心地の悪さに内心でため息をつく。
ていうか、何でうちの親が芽衣に買出しを?
『しばらく留守にするんだけど、隼人には食材なんて分からないからお願い』って言われて……。
(くそっ、姉ちゃんだな、そんなこと言ったの……)
どうやら姉ちゃん達はこないだのモデルの話の後も、芽衣に直接色々と相談なんかをしているらしい。
そんな話を聞いたのも最近だけど。
あー……うちの家族が振り回したみたいでごめん。
芽衣に買い物を頼むなんて、過保護すぎる家族に呆れてくる。
ふふっ。ごめんなんて、謝ることないよ。隼人くんのご家族の役に立てるなら私も嬉しいし。
……まあ、そう言ってもらえるならいいんだけど。あ、あとさ……。
ん?
もうそろそろ、俺のこと『隼人』って呼んでもいいんじゃない?
えっ……?
あの電車での一件以来、ずーっと俺のこと“くん付け”で呼んでただろ?
最初にも言ったけど、親衛隊がうるさいアッキーのことはともかく、俺のことは別に呼び捨てでいーよ。
親衛隊って……まぁわからなくもないけど。
俺も芽衣って呼んでるんだし。
そ、そうかな……?
戸惑う芽衣に俺は大きくうなずいてみせる。
(それに……さっきは一瞬『隼人』って呼んだじゃん)
『しばらく留守にするんだけど、隼人には食材なんて分からないからお願い』
母の伝言をくり返しただけだったけど、芽衣の口からそう呼ばれてちょっとドキッとした。
(よく考えたら、女子から呼び捨てにされるのって、こっちじゃ初めてか。それでドキッとしたのか、俺……?)
まぁ、芽衣がどうしてもイヤなら無理にとは言わないけどさ。
う、ううん。イヤとかじゃないよ。あんまり男の子を呼び捨てにしないから少し緊張してるだけ。
そうだね……せっかくいいよって言ってもらえたんだし。
わかった。これからは……隼人って呼ばせてもらうね。
あ、ああ……!
少し照れくさそうに笑いながら改めて俺を呼ぶ芽衣を見ていると……、熱でもあるかのように、顔が熱くなっていくのがわかる。
そ、それにしても、明日の夜には帰ってくるっていうのに、随分な量なこって。
動揺したことに気付かれたくなくて、芽衣から受け取った買い物袋を持ち上げながらそう言った。
おばさん達きっと疲れて帰ってくるだろうし、数日分まとめて頼んだんじゃないかな。
ま、そうなんだろうとは思うけど。わざわざ悪かったな。ありがと、芽衣。
ううん。
……で、芽衣はわかったけど、なんでアッキーまでうちに?
どさくさの雰囲気に紛れ込もうとしていたのか、アッキーは虚をつかれたような顔をして俺の方を見た。
あ、いやー偶然、隼人ん家に向かってる芽衣ちゃんを発見したので、悪い虫がつかないよう同行しました。
悪い虫って……アッキーのことじゃん。
失礼な。そんなことより……ひょっとして今晩はここにいれば芽衣ちゃんの手料理が食べられたりして?
アッキーがやたらにこにこしながら芽衣の顔を覗き込む。
えっ? 私の手料理……?
はぁ? アッキー、何言ってるんだよ。なんで芽衣がうちの食事を……。
えーと……頼めるならお願い、とは実は言われてたんだけど……。
(マジかよ……!?)
つくづく俺は姉ちゃんや母さんから信頼がないらしい。
でも……迷惑だよね?
芽衣の瞳が遠慮がちに俺を見てくる。
正直、俺は自分の気持ちがよくわからなかった。
この休みは、一人きりで静かにのんびりしようと思っていたけど、こうして芽衣を目の前にすると……。
……じ、自信があるなら、別にいいんじゃない? おいしければ迷惑なんて思わないし……。
おおっ、リアルツンデレ。
うるさいよ、アッキー……!
た、たぶんそんな変なものにはならないと思うよ? 家の手伝いも時々するし……。
確かに芽衣は真面目に家の手伝いもするんだろうなと思う。
それに、おいしければなんて言ったけれど、本当は芽衣の料理には興味があった。
じゃあ……作ってもらおうかな。
芽衣の目を直視できず、食材の入った袋を手に冷蔵庫に向かいながら言うと、彼女の明るい声が返ってきた。
わかった、それじゃあ頑張ってみるね! あ、でもそれなら持って来た食材だけじゃ足りないかも。
もっと材料買わないとね。俺の分もあるし!
……何となくわかってたけど、しっかり居座って芽衣の料理を食べていく気なんだな?
あはは……!
それじゃあ、その……隼人、翠くん、みんなでもう一度買い出しに行こっか。
あれっ!? 芽衣ちゃん、今、隼人って……。
あ〜っ、いつまでも話してたら準備遅くなるだろ! ほら、早く買い物行こう。
……それから俺達は3人で近くのスーパーに向かった。
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スーパー
ところで、芽衣。今夜は何を作るつもりなの?
そうだね……先に買っておいた材料と組み合わせるんだったら……。
ハンバーグとかどう?
なんでアッキーが決めるんだよ。俺ん家の料理なんだけど?
そんなこと言うなら、隼人も芽衣ちゃんに食べたい物をリクエストすればいいじゃん。
アッキーに言われて少しどきりとする。
(芽衣に作ってもらう料理……)
…………? できるかはわからないけど、何かあるなら、言ってみて?
俺の視線に気付くと、芽衣は少し笑いながらそう言った。
えっと……あー……チキン南蛮?
ものすごく適当に言うと、芽衣はたぶん作れるから大丈夫と言って笑みを深めた。
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風見鶏の館室内
はー、ごちそうさまでした! 芽衣ちゃん、たぶん作れる〜とか言って、普通に料理うまいし。
そ、そうかな?
ごちそうさま。……確かにかなりおいしかったと思う。
それなら良かった……でも、きっとみんなで協力して作ったから美味しくできたんじゃないかな。
そこにオレの秘伝の隠し味を入れてたら、さらに感動的な美味さになってたかも?
俺はアッキーの隠し味を阻止できたことが、この美味しさの秘密だと思う。
そんなふうにして、食後の一時を俺達は楽しく過ごしていた。
……ところがその時、つけっぱなしにしていたテレビから緊急速報を告げる大きな音が鳴り響く。
『……ここで、緊急速報が入ってきました』
『国際的テロ組織による暴動が発生し…………』
えっ……国際的テロ組織……?
『この影響で欧州の一部の空港が緊急閉鎖され……』
物々しいニュースに、みんなの顔が曇る。……そこに、俺のスマホの着信音が響いた。
わっ……ごめん、俺のスマホだ。
慌てて画面を見ると、母さんからの国際電話だった。
はい、もしもし?
…………な、何だって!?
テロに巻き込まれて帰れない!!?