駅のホーム
翠
さっきの子だけど、あの子の名前、確か……夙川(しゅくがわ)さんだよ。ほら、隣のクラスの!!
翠
夙川……なんだっけな……あ、思い出した!!
翠
芽衣(めい)ちゃんだ、夙川芽衣ちゃん!
その時、アッキーの声が大きかったのか、読書をしていたその子の視線が、一瞬だけこちらに向けられた。
隼人
(…………!)
が……その視線はすぐに読んでいた本へ戻される。
まるで俺たちなんて全く興味がない様子で。
隼人
…………。
やっぱり他の女子とは全然違う。一定の距離を置いた感じだった。
隼人
夙川……芽衣、ねぇ。いたっけ、あんな子……。あっ、今年転校してきたとか?
翠
お前なぁ、昨年も隣のクラスだったろ。
隼人
俺が隣のクラスの女子の名前まで、覚えていると思う?
隼人
同じクラスの女子の名前すら怪しいのに。
翠
それは……そうだよな。オレが悪かった。
アッキーは笑いながら、がっくりと肩を落とした。
隼人
……あの子、夙川だっけ? どういう子?
翠
夙川さんかぁ、よく図書室にいる気がするよ。教室でも本読んでる姿を見かけたような……。
隼人
アッキー、よく知ってるよね。
翠
知ってるっていうかさぁ、見えるんだよな。図書室ってテニスコートの近くだろ。
翠
たまに窓際にいるのを見かけるんだよな。
翠
それにさ、萌と同じクラス。
隼人
ふーん、だから知ってるのか。萌と仲いいの?
翠
いや……知らないけど、普通なんじゃない?
隼人
そっか。萌とは合いそうな感じはするよな。そっかそっか……。
だんだんと消えかけていく俺の声にニヤリと笑うアッキー。
翠
とうとう、隼人も女嫌い卒業かぁ。
うんうん、と頷きながら一人で納得している。
隼人
だからぁ、女嫌いなわけじゃないって。
隼人
(ただ苦手なだけで……)
翠
もしかして、一目惚れ、とか?
隼人
(そんなわけ……ないじゃん……)
隼人
アッキーさぁ、随分難しい言葉、知ってるよね。
翠
は? 一目惚れのどこに難しい言葉が?
隼人
そもそも、一目見ただけで好きになるとか、ありえないし。『一目惚れ』って言葉としておかしいんじゃないの?
微かに感じた動揺を悟られないように、わざとにっこりと笑って話すと、
翠
……はは〜ん、わかったわかった。隼人の辞書には『惚れる』という言葉自体がないんだったな。
隼人
うーん、なんかそれだと人としてダメなやつみたいに言われているような気がするんだけど。
翠
じゃあ、まだ『愛』を知らない少年ということで。
隼人
……やっぱバカにしてるよね、アッキー?
翠
ははは、めっそうもない。
ちょっと笑って肘でアッキーを押すと俺たちが乗る電車がホームについた。
……チラッと見ると、あの芽衣という子は隣の車両に乗り込もうとしている。
隼人
(…………)
隼人
(なんであの子にこんなに目がいくんだろ……?)
電車のアナウンス
まもなく……駅に到着します。ドア付近の方は降りる方のために……。
アナウンスが聞こえて、ドア付近にいた俺たちが端のほうに避けると同時に電車のドアが開く。
翠
あーあ、この電車、この先いつも激混みになるんだよな。
隼人
今でも普通に混んでるけどね。まあ、この車両は空いているほうだと思うけど。
隼人
(……ん?)
ふと隣の車両を見ていると、ここで降りるはずのない制服姿の女子が、無理やり電車から降りてきた。
隼人
あれ? アイツ、何やってるんだ?
翠
アイツって? ああ、夙川さんかぁ。確かに、何してるんだろう?
俺の声につられて隣の車両のほうをみたアッキーも不思議そうに呟く。
隼人
なんだ、お婆さんを降ろしてあげようとしていたのかぁ。
隼人
(杖ついているわけじゃないし、品があってお婆さんっていうのには申し訳ないくらい元気そうだけど)
隼人
(この時間の電車って、ある意味戦闘みたいな感じだし、お年寄りにはちょっとキツいよな)
翠
あー、あの小さい婆さんじゃ、この人混みの中で降りるのは一苦労だな。
同じような感想を持ったアッキーから視線を移すと、彼女たちが降りた途端、乗る人が流れ込むように電車の中へ入って行く。
品の良いお婆さん
ありがとう……。助かったよ。
芽衣
いいんですよ。気を付けて行ってくださいね。
この人混みの雑音だらけの中で、なぜ彼女の声が聞こえたのか。
ひょっとすると、ただ聞こえたつもりになっていただけなのかもしれない。
彼女はお婆さんが何度も頭を下げて改札に向かったのを見届けているようだった。
そんな姿を見て思わず微笑んでいると。
翠
何にやけてるんだよ?
隼人
別に、にやけてないよ。ただ、ああいうの、すごいなと思っただけ。
翠
ふーん。
疑いの眼差しで見ていたアッキーの視線を避けるように、夙川のいるほうへ視線を向けた。
すると、今度は彼女が乗ろうとしている車両がすでに満員状態で、とても乗れそうにない。
何度か乗ろうと挑戦してはいるが、中から押し返されているようだった。
隼人
あーーー、もうっ!! アイツ何やってんだよ!!
隼人
自分が降りてて乗れなきゃ世話ないよ。
隼人
あれじゃ次来るやつも乗れないんじゃない?
翠
………………。
翠
隼人さぁ、さっきから何ひとりでブツブツ言ってるの?
隼人
…………えっ!? ああ、今はそこじゃなくて、あそこ!!
翠
あー、さっきの子ね。強引に乗れば乗れなくもないけど、あれは女子にはハードル高いな。
アッキーが言ったと同時に発車の音楽がホームに響く。
隼人
ったく!! おーい、こっちだぁーーー!!
俺は居ても立ってもいられず、半身を乗り出し、ドアが閉まらないよう背中で押さえて彼女に向かって手招きした。
まだ俺たちが乗っている車両のほうが乗客が少なかったからだ。
芽衣
……えっ!?
彼女は自分に向かって手招きされていることに気づき、びっくりしている様子ではあったが、
俺が手招きした意図を理解してくれたらしく、こっちの車両へと小走りに駆け寄ってきた。
発車の曲が鳴り止む直前、手を伸ばした彼女の腕をひょいと掴んで電車の中に引っ張り入れた。
隼人
(間に合ってよかったぁ……って、あ……)
掴んでいた腕をアッキーにばれないようにさりげなく離したが、しっかり見られていたように思う。
翠
ほう……ほうほう。
隼人
(……まぁ、いいけど)
そんなことを思っていると、少し走ったせいか、ほんのり頬をピンク色に染めた夙川が息を整えながら俺に言った。
芽衣
あ、ありがとう風見くん。もう乗れないかと思っちゃった。助かったよ。
隼人
(……俺の名前は知っているのか。まあ、有名といえば有名だもんな)
夙川は少し照れていたのか、あるいはバツが悪いと思ったのか、俺の目を見ずそう言った。
隼人
気にしなくていいよ。ずっと見てたけど、良い事したんだし。
隼人
降りてったお婆さん、改札出た後も最後までアンタのほう見て頭下げてたよ。
芽衣
えっ、そうなの? 気づかなかった。あのお婆さん、大丈夫かな……。
隼人
………………。
隼人
(少しは自分の心配しなよ……)
そんなふうに思っていたけど、俺はふと発車ベルはもう鳴り終わったのに電車が動かないことに気づいた。
そのうち急病人のお客様が……と車内アナウンスが流れる。
周囲はそんなに騒がしくないから、俺たちの乗った車両から少し離れた所でのことだろう。
ドアが開いた状態のままだからか、なんとなく落ち着かない気持ちで俺はホームを眺めた。
翠
それにしても、あの隼人が女子を助けるなんてな。
隼人
えー、なんかそういう誤解生みそうな発言やめてくれないかな、アキラくん。
隼人
別に全ての女子が親の敵(かたき)や天敵だとか思ってるわけじゃないし。
隼人
正しいことをしたヤツがいたから助けた、全くノープロブレムじゃん。
芽衣
…………。
翠
ふーん。
アッキーは何かを言いたそうな顔をしていた。
大体何を言いたいのか想像はつくけど。
隼人
……と、とにかく、夙川のためっていうよりは……。
翠
あれれ〜!? 『夙川』っていう名前まで知ってたんだぁ〜。
隼人
アッキーがさっき教えてくれたんだろうがっ!!
翠
夙川さん、下の名前はなんていうの?
隼人
(おまっ、さっきフルネームで言ってたじゃん!!)
芽衣
芽衣だよ。芽が出るの「芽」に衣服の「衣」。
翠
そうか、夙川の芽衣ちゃんね。だって、隼人。今度から“芽衣ちゃん”って呼んであげてね。
芽衣
えっ……!?
隼人
な、な、何のつもりだよ、アッキー!!
翠
だって隼人、お前女子に名前とか聞かないだろ?
翠
オレたち家でもファーストネームで呼ぶこと多いから、芽衣ちゃんのも聞いとかないとな。
翠
あ、オレ達は「隼人」と「翠」でいいからねぇ〜。
隼人
ちょ、なに勝手に……っ!!
芽衣
……うん、わかった。私は全然『芽衣』で構わないし。
隼人
(いや、そうじゃなくって……)
夙川……芽衣は、嬉しそうな笑みを浮かべた。
隼人
(あっ……。いい顔するじゃん)
なんだかその笑顔が気持ちよかった。
隼人
(にしても、何だよこの流れ……)
俺は今まで感じたことのなかった“安心感”のようなものを感じていた。
これって、アッキーやアッキーの幼馴染である萌にも感じている感情に近いものだった。
翠
そういえば、オレたち自己紹介まだだったな。
芽衣
いいよいいよ。翠くんも隼人くんも有名だから。名前くらいは知ってるし。
翠
だよね〜。
隼人
(「だよね〜」じゃないよ……)
翠
でも、あんまりオレたちに興味ないでしょ?
芽衣
そ、そんなことないよ。フフフ……。
芽衣は少し困ったような顔をしながら苦笑した。
それはそれでなんかムカつく。
隼人
まあとにかく、勘違いしないように念を押しておくけど、芽衣を助けたのは人助けをしたからであって……。
俺の中でも何かがずれているのはわかっていた。
隼人
加えて言うなら、無理やり乗ろうとして電車が遅れたらみんなが困るし……。
まあ、急病人が出たから結局電車は遅延することになりそうだけど。
翠
みんながねぇ〜。
隼人
ま、まぁ、そういった理由であそこで助けただけだからな。
芽衣
うん、わかってるよ。それでも、ありがとう隼人くん。
隼人
……うっ、んんっ!
なぜだかしたくもない咳払いをした。
隼人
(また姉ちゃんたちとはどこか違う、調子の狂う女の子だなぁ)
翠
……うーん、こりゃホントに何かものすごいことが起こっている気がするぞオレは。
アッキーが顎に手を当て、不思議そうな顔をしながら、また謎なことを言っている。
いつもの日常的な朝のはずなのに、いつもとは違うその日が始まったような気がした。
・
・
・
駅のホーム
俺とアッキーと芽衣。
間違いなく初めて経験する微妙な空気に戸惑いながらも、俺たちが乗る電車は学校の最寄り駅に着いた。
特に話が弾むわけでもなく、必要以上に話そうとはしない俺と芽衣に気を遣ってか、アッキーがまたくだらない話を始めた。
翠
そういえば芽衣ちゃんってさ、いつもあの駅から乗ってんだよね?
芽衣
うん、そうだよ。でも、普段はもう少しだけ早い時間かな。
翠
あ、そうなんだ。だってさ、隼人。
隼人
聞こえてるし、なんで俺に確認するの?
翠
また、芽衣ちゃんを助けることがあるかもしれないじゃん。
隼人
……だから、何で俺が助けることが前提なのさ? 今度はアッキーが助ければいいじゃん。
翠
いやー、オレがそれするとほら、みんなが婆さん見つけて真似しちゃうからさ。
隼人
はぁ……。だったら、いっそのことアッキーがお婆さんを助けたら?
翠
おお、なるほど、その手があったか! ……っておい!
ふっと息が漏れる音が聞こえて隣を見ると、芽衣は目尻を下げながら一生懸命ふきだしそうなのをこらえていた。
芽衣
ふふっ……。二人って本当に仲がいいんだね。
上品そうに口元に手を当てて小さく笑う芽衣。
芽衣
それに私、そんなに毎朝失敗してるわけじゃないよ。うふふっ……。
こらえられなくなったのか、芽衣は声に出して笑った。
隼人
(“おしとやか”ってこういうこと?)
俺はそんな芽衣を少し不思議な気持ちでしばらく見ていた。
・
・
・
高校正門
女子高生1
あっ、翠くん、隼人くん、おはよー。
女子高生2
クッキー作ったのー。部活のあとにでも食べてー。
女子高生3
私はハチミツレモン。疲れとれるからどうぞ。……ってあれ、その子は?
翠
おー、みんな、いつもありがとね。……あっ、この子は隼人の知り合いで萌のクラスメイトね。
隼人
ちょ……っ!(知り合いってなんだよ……。今日会ったばっかじゃん)
女子高生3
へー、生徒会長のお友達かぁ。
女子高生3
隼人くんの知り合いっていうのも少し引っかかるけど、隼人くんの顔見る限り大した“知り合い”でもなさそうだね。
芽衣
………………。
翠
その辺りはオレにもよくわからんけど、とりあえずいつも安定の隼人くんです。
女子高生たち
きゃぁーよかった〜。安心したよぉ〜!
隼人
(……安心するなよ。いつもの俺って、意味わかってるのか?)
芽衣
じゃ、じゃあ私は先に行くね。今日はありがとう。
この空気に居たたまれなくなったのだろう。
芽衣は俺たちに軽く会釈をしてから、小走りに校舎へ向かった。
そこへ間髪いれずに、同じクラスの女子たちが押しかける。
クラスメイトの女子1
翠くん、数学の問題がわからないから休み時間に教えてくれる?
翠
おお、いいよ〜。
クラスメイトの女子2
ちょっと、抜け駆けずるい!!
クラスメイトの女子3
独り占め禁止だよ。
翠
じゃあ、みんなに教えようか。
クラスメイトの女子たち
きゃ〜〜〜。
隼人
(アッキー、そんなに数学得意だっけ? まぁいいけど)
そうやって、いつもの俺に戻った時だった。
お嬢様風の女子高生
隼人くん、おはよう。私も数学でわからないところがあるんだけど、教えてくれないかな?
急に目の前に現れた女子が、ニコリと笑って話しかけてくる。
隼人
うーん、アッキーがみんなに教えてくれるみたいだから、アッキー講座に参加したらいいんじゃない?
隼人
(そういえば、最近この子によく話しかけられるよなぁ)
お嬢様風の女子高生
私は隼人くんに教えてもらいたかったんだけど……残念ね。
隼人
ごめん。俺教えるの苦手だからさ。数学ならアッキーのほうが教えるの上手いし。アイツ結構わかりやすいよ。
お嬢様風の女子高生
……じゃあ、隼人くんのアドバイスに従ってアッキー講座に参加しようかな。
キーンコーンカーンコーン。
全体集会の予鈴のチャイムが鳴った。
翠
隼人ー、さっさと体育館に行こうぜー。せっかく間に合ったのに、遅刻扱いにされちゃたまらんし。
隼人
わかった、今行く。ということで、またね。
お嬢様風の女子高生
……うん、またあとでね。
彼女はそう言うと、にっと口の端を上げその場を立ち去った。
隼人
(なんだ? 含みのある言い方だな)
この時の俺はまだ、彼女達との出会いがこの後巻き起こる大きな波乱の幕開けになろうとは、露にも思わなかった。