北野異人館旧レイン邸
~10話~

ー病院病室ー

——お母さんの手術当日。

大きな手術だというのに、お母さんの様子はいつもと変わらないように見えた。

七海の母

零弐くんまで付き合ってくれてありがとう。七海一人じゃ心配だったから助かるわ。

零弐

とんでもないです。終わるまで待ってますので、頑張ってください。

七海の母

ふふ。七海のこと、よろしくお願いしますね。

零弐

大崎は学生の頃から本当に優秀なやつだったんで、あいつの執刀なら間違いないですよ。

零弐は笑顔を浮かべて、お母さんを励ますように言う。

七海の母

ありがとう。昨日病室でも『俺は天才だから、何の心配もしなくていいですよ』って先生言ってたわよ。

零弐

相変わらずだなあ。アイツ腕はよくても性格には難ありだよなぁ……って七海?

七海

…………。

私は手術が始まってすらいないのに、怖くて、緊張で顔も強張っていた。

七海の母

もう、七海の方が手術されるみたいな顔してるわよ。

七海の母

七海は退院祝いのことでも考えててちょうだい。

七海

……退院祝い?

七海の母

うーん、そうだな。お母さんは美味しいものが食べたいな。病院の食事もさすがに飽きちゃったし。

零弐

じゃあ退院祝いの為のお店探し、オレも協力しますよ。どっかにいい店なかったかなあ……。

七海

(2人とも私を不安にさせないように気を遣ってくれてる)

七海

(本当は私お母さんを励まさなくちゃいけないのに)

深呼吸をして気持ちを入れ替えると、2人に笑顔で向き直る。

七海

──よし、私も頑張るから、お母さんも頑張ってね!

私がこぶしを握って勢い良く言うと、お母さんはいつもの優しい笑顔を見せてくれた。

やがて手術の準備をするため看護師さんたちがやってくる。

七海の母

お母さんも頑張るし、先生も頑張ってくれるから、七海は安心して戻ってくるのを待っててね。

お母さんはそう言うと、見送る私たちに手を振って手術室に運ばれていった。

ー病院廊下ー

それから私と零弐は待合ロビーで、手術が終わるのをひたすら待っていた。

七海

…………。

手術に向かう前の、普段通りのお母さんの笑顔が、ずっと胸に焼き付いている。

七海

(手術の後、またあの笑顔を見ることができるのかな……)

不安な気持ちを消そうとしても、ついそんなことばかり考えてしまっていた。

もどかしいほどゆっくりと時間が過ぎていくうちに、不安な気持ちはどんどん胸の中に広がってしまう。

零弐

……お母さん、お前のためにも頑張ってくれているからな。

不安に揺らぐ心に気づいているかのように、零弐が声を掛けてくれる。

零弐

さっきも言ったけど、大崎が優秀なのはオレが横で見ててよく知ってる。だから本当に、大丈夫だから……。

七海

………うん。そう思っているんだけど。

七海

……それでも、つい本当に大丈夫なのかなって……思っちゃうんだ……。

気づけば声がかすれて、涙をこらえているみたいに震えてしまう。

七海

手術……なかなか終わらないね……。どうして予定時刻になっても終わらないんだろう。

零弐

終了時間はあくまで目安なだけだから、心配しなくてもいいよ。

七海

…………。

何か言えば、悪い事ばかり言ってしまいそうで、言葉が出ない。

色々なことが不安で、ちゃんと落ち着いて考えることすらできない。

ぎゅっと両手を固く握りしめて、お母さんと過ごした時間とか、そんなことばかり思い出している。

七海

(そういえば、高校の入学式で『おめでとう、3年間頑張りなさいよ』って言ってくれたなあ)

そして毎日毎日、体調が悪い時も、欠かすことなく美味しいお弁当を作ってくれたお母さん。

七海

(入院してから、お母さんのお弁当食べてないよ。あの味、懐かしいなあ……)

零弐は手術時間が長くなっても心配しなくていいって言ってくれたけど、本当にそうなんだろうか?

もしかして、上手くいっていないから長くかかっているんじゃないかって、そう考えたら恐怖に背筋が震えた。

七海

(お母さん、ちゃんと帰ってくるよね。約束したもんね……)

七海

(手術室へ向かった時みたいに『お店どこにするか、決めた?』って、笑って聞いてくれるよね……)

七海

…………。

それでも不安の影が消せないシミみたいに、じわじわと胸の中に広がるのを感じていた。
——その時

私の手が、ふわりと温かくなった。

七海

…………零弐。

零弐

……七海。

恐怖と不安に小刻みに震えていた私の手を、零弐の温かい手がしっかりと包み込んでくれていた。

七海

(零弐の手……温かいな)

胸に広がっていた不安は消えないけど、その温もりは、私の気持ちを軽くしてくれる。

零弐

…………。

何も言わない零弐の手が、私に大丈夫だよって語りかけてくれている気がした。

零弐の手の重なりを感じていると、自分が一人じゃないことが実感できる。

七海

(ありがとう、零弐……)

やがて手術中の表示が消え、しばらく時間が経つと手術室のドアが開いた。

その瞬間、私はドアから出てくる先生に駆け寄っていた。

七海

先生……お母さんは?

大崎

うん、手術は成功したよ。お母さんも頑張った。後は回復力次第だね。

その言葉に安堵して、膝から崩れ落ちそうになる。そんな私を零弐がしっかりと支えてくれた。

零弐

……よかったな、七海。後はお母さんが目を覚ますまでに、美味しい店、探しておかないとな。

七海

うん……うん、うんっ!

私は、手術室から出てきたお母さんの顔色が思ったより良いのを確認して、
ぼろぼろと安堵の涙を零しながら、泣き笑いの表情で頷いたのだった。

ー病院廊下ー

──あれから数か月後。

手術を終えたお母さんは、めきめきと回復し、しばらくして無事に退院することが出来た。

今は定期的な通院を続けていて、私も毎回、通院に付き添っている。

七海

あ……お母さんちょっと待っててね。

私は近くに見慣れた人影を見つけると、そこに向かって走り寄っていた。

七海

──零弐!

零弐

よう、七海。今日はお母さんの通院日?

七海

うん。すっかり零弐も、働いている姿が板について来たね。

零弐

そうかな? 数年ニートしてたから、なかなか現場復帰は大変だけどな。特に大崎、アイツは人使いが荒い。

そう言いながら笑う零弐の顔は、以前よりずっといきいきしてるって私は思う。

七海

(何だか嬉しいな……)

あれから零弐は、もう一度医学の道を目指すために色々と努力していた。

今は地元神戸の医大に入りなおすべく、受験勉強を始めている。

そして、大崎先生からの紹介で実地勉強を兼ねて、この病院の医療スタッフとしても働いていた。

七海の母

でも、零弐さん、評判いいわよ。イケメン看護助手さんだって。

零弐

ええっ!?

動揺する零弐を見て、面白そうにお母さんは言葉を続ける。

七海の母

ふふっ。でもね、すごく真面目に頑張ってるって大崎先生が褒めてたわ。

七海の母

七海としても、私の通院の付き合いに楽しみが増えてよかったわよね。

七海

……ええっ?

七海の母

毎日ニーヤの餌やりは欠かさず行くし、病院には零弐さんがいるし。

七海の母

何だかとっても仲がよさそうで羨ましいわ。

七海

な……何言ってんの、お母さんっ!

私が目を瞬かせると、お母さんは笑ってカバンを持ち直す。

七海の母

さて、私は先に診察券を出して診察室のロビーに行ってるわね。

七海の母

七海も、あまり零弐さんの仕事の邪魔をしないようにするのよ。

七海

わ、わかったよ。

お母さんは私たちをからかうと、楽しそうに受付に向かう。

零弐

……お母さん、元気になって本当によかったね。

零弐はお母さんの背中をみながらぽつりと呟いた。

七海

うん……。ありがとう。

七海

(今こうして笑っていられるのも、零弐が傍にいて、私たちを支えてくれたからだよね……)

じっと零弐の綺麗な横顔を見上げていると、ふとこちらの視線に気づいて、『何?』と言いたげに見つめ返された。

七海

零弐も変わったよね。何か見違えちゃったな……。

頬に熱を感じながら褒めると、零弐は少しだけ照れ臭そうに笑う。

零弐

七海と一緒にいると、新しい自分を発見するからさ、いつもびっくりしてるよ。

零弐

……そういえば七海。今日の夕方もニーヤたちの餌やりに来る?

七海

うん、行く! だから先にニーヤたちにご飯あげないで待っててね。

零弐

わかったよ。でもアイツら腹が減るとニャーニャー、鳴きまくるからな。うるさくなる前には来て欲しいな。

私がその言葉に頷くと、零弐は微笑んで仕事に戻っていく。

その背中は大人の男の人で、零弐がどんどん頼もしくなっていくことに嬉しさを感じていた。

ーレイン邸室内ー

七海

こんばんは、零弐。ニーヤたち、もう集まってる?

と、声を掛けた先から、ニーヤたちが私の足もとに寄ってくる。

ニーヤ

ニャアニャア!

ニーヤ

ニャーーーン。

足もとに顔を擦りつけるようにして、ご飯をねだる姿が可愛くて、私はにっこりと笑みを浮かべた。

零弐

もうさ、こいつら七海が来ないと餌の時間が来ないってわかってるみたいで、さっきからずっと七海待ちだったよ。

七海

そうなんだ、ごめんねえ。今ご飯あげるからね〜。

私は零弐から袋を預かると、お皿にニーヤたちのご飯を入れていく。

ニーヤ

ウニャー!

ニーヤ

ニャアニャア!

嬉しそうにご飯を食べ出るのを見ながら、私は零弐の隣に立った。

七海

そういえば、最近あの事故の多い道でニーヤたちを見かけなくなったね。

零弐

うん、この前一緒に仕掛けた忌避剤のおかげで、別のルートを通るようになったみたいだな。

七海

よかった、効果があって。

零弐

新しく通ってる道は車通りも少ないから、事故にあう可能性も減るんじゃないかな。

七海

そっか、じゃあ安心だね。

零弐

オレとしては……。

七海

うん?

零弐

猫をかばって七海が轢かれそうになる心配がなくなって、ホント安心したよ。

零弐はまんざら冗談でもなさそうに笑う。

七海

もう、あの時は本当にごめんってば〜。

そう言いながらも、私もつられて笑ってしまう。

七海

(零弐の笑顔は温かくて、見てるといつも幸せな気持ちになるんだよね)

七海

そういえば……。私が轢かれそうになったのを、零弐が助けてくれたのが出会いだったね。

零弐

そうそう。あの時は危ない子がいるな〜と思っただけだけど。

零弐

あの日から、オレの人生も色々変わっていった気がするな。

互いに顔を見合わせて、ふふっと笑みを零す。なんだかそれだけで嬉しくて、喜びで全身がじわりと温度を上げる。

七海

……あ、零弐ってさ、神戸の大学の医学部を受験し直すんだよね。

零弐

うん、こいつらの世話もあるし地元の大学の方がいいなって。

七海

あのさ……。零弐の受ける学校って、看護学科もあるのかな?

零弐

うん。確かあったはず。

七海

……じゃあ、私……そこの看護学科、受けようかな?

七海

お母さんのこともあるし、何より零弐と一緒にいて、少しでも人の役に立つ医療の道を目指すっていいと思ったの。

ドキドキしながら零弐の顔を見上げると、零弐も微かに目元を染めて頷いた。

零弐

……そっか。もし七海が真剣に決めた道ならいいと思うよ。

じっと2人で見つめあう雰囲気に、私の心臓はトクトクと、甘くときめくような音を鳴らす。

零弐

あのさ……七海、もし……。

零弐が何かを言いかけた瞬間、ニャア〜、という声がして、1匹の猫が部屋に入ってきた。

七海

……あ、あれ? この子、初めて来る子だよね?

零弐

う、うん、そうみたいだな。

2人して少し顔を赤くしながら、猫のそばに歩み寄る。

そして零弐はニコリと笑って、新入りの猫を抱き上げ、顔を覗き込んだ。

零弐

よし。いつも通りお前の名前も……。

七海

『ニーヤ』で、いーや!

零弐

……え?

定番の台詞を私にとられて目を丸くする零弐に、私は思わず笑い出してしまった。

七海

ふふっ。

零弐

あははははっ……。

気づけば私たちはまた、顔を見合わせて一緒に笑い合っている。

新入りニーヤ

ウニャ?

床にそっとおろされた新入りニーヤは、私たちの間にちょこんと座り、楽しそうに笑う私たちのことを、首を傾げて不思議そうに見上げていたのだった。

北野異人館旧レイン邸
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【niiyacat】