ーレイン邸室内ー
今日もいい天気だな〜。
寝癖の付いた髪をかき上げて空を見上げれば、白い雲が青い空にぷかりと浮かんでいる。
でもって目が覚めたら、もう昼か……。
独り言を言っても自堕落な生活を注意する『人間』は周囲にはいない。
──っと……。お前は新顔か?
庭テラスに面して開かれている、リビングの掃き出し窓から入り込んで来たのは、どうやら新顔の子猫だ。
よちよち歩くそいつを優しく抱き上げると、小さな顔を覗き込む。
よし。いつも通りお前の名前も『ニーヤ』でいーや。──ってことで。
いつも通りのダジャレを言うと、一人でニヤリと笑う。
野良の割りに人見知りしない猫で、大人しく抱かれるとミャーと愛想よく鳴いた。
ってことで、今日からこの『ニーヤ』もよろしくな。──ニーヤ。
そう話しかけた先には、貫禄のある猫が部屋の中心でどっしりと座りこんでいる。
この巨大な猫は、ボス猫のニーヤ。オレはその横に子猫を下ろしてやった。
つまり我が家にいる猫は全部「ニーヤ」という名前がついている。
……なかなか猫らしくていい名前。
今日ものどかでいい1日だなあ。
こうしていると、昔のもっとせわしなくて、心が疲弊していた日々を思い出す。
(もう、遠い昔だけどなあ……)
ボスニーヤのしっぽにじゃれつく、子猫ニーヤの可愛い様子が目に入って、思わず唇に笑みが浮かぶ。
な? ここはいい場所だろ? ゆっくり落ち着いていられるぞ。
オレの言葉に子猫ニーヤは顔を上げると不思議そうな表情で首を傾げた。
っていうか、今日も暇だな〜。さて、何をして過ごすかな……。
2匹を見下ろしながら、のんびりと大口を開けてあくびをする。
ぐぅっと背筋を伸ばすと、明るい空をもう一度見上げて考える。
何はともあれ、いい天気でのんびり日和だな。
もうずっと、気が向いたら起きて我が家に入りこむ野良猫たちをかまうのが日課になっていた。
お腹が空いたら何かを食べて、眠くなったら寝る。
そんな生活が数年続き、そして今日もいつもと変わらぬ無気力な一日が始まろうとしていた。
・
・
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ー北野坂ー
私は軽く息を切らしながら、急な坂道を一生懸命登っていた。
(はぁ……。本当に急な坂道)
(お母さんの看病に行くために、毎日登っているけど、何度登っても慣れないなあ)
お母さんが入院して今日で何日目になるのだろうか。そう思いながら、呼吸を整えるために、一瞬立ち止まる。
(大丈夫、お母さんはちゃんと治るから!)
下を向きそうになってしまう気持ちを奮い立たせて、再び急な坂道を上り始めた時。
坂道の真ん中をのんきに横切ろうとしている小さな白い猫の姿が目に入った。
次の瞬間、車のエンジン音がして、はっと坂の上を見上げると、
猫に気付く様子もなく、下り坂の勢いのままにスピードを出して走ってくる車がいることに気づいた。
──危ないっ!
私はとっさに、その猫のそばまで走るとその子を抱きかかえて、道端に滑り込んだ。
坂を猛スピードで降りてくる車とギリギリの位置ですれ違う。
馬鹿野郎。死にてーのか!
急に道に飛び出してきた私に、男が車窓から怒鳴りつけた。
(──うわっ)
男性の怒声に思わず身がすくんだけれど手に抱いた温かい体が、私を少し落ち着かせてくれる。
……はぁ……はぁ……。
交通事故に遭いそうな猫を救いに、急に走り出したこと。
車を運転していた知らない男性に怒鳴られたこと。
慣れない出来事に跳ね上がった動悸を整えるため、ゆっくりと深呼吸する。
子猫は少し爪を立てて、しっかりとつかまったまま私の顔を見上げていた。
無事でよかった……。
だけど、道路の真ん中をのんびり歩いていたら危ないよ?
……でも、ギリギリ助かったわね。あなたも私も。
猫は話しかける私に、甘えるように額を擦りつけて、ニャーと鳴いた。
ふふ、まだ小さくて可愛い。ちゃんとお母さん猫のところに帰りなさいね。
あと、これからは車に注意してね。命は大事にしないと。
わかった、と答えるようにニャーと子猫は再び鳴いた。
……まったく調子がいいんだから。
思わず苦笑しながら、猫を地面に下ろしてあげる。
すると、少し振り返りつつも元気な様子で道を走り抜けて行った。
──気を付けてね!
猫を見送っていると、私は一人の男性の姿に気づいた。
(……あの人誰だろう?)
通りの向こうには、無地のシャツをだぼっと着た、綺麗な顔立ちをした男の人がじっとこちらを見ていた。
…………。
しかも子猫はその男性の足元まで走っていくと、嬉しそうにじゃれついているのが見える。
(あれ? 飼い主かなぁ?)
しかし、また車が勢いよく走ってきてそれを避けているうちに、猫も男の人もいなくなってしまったのだった。
・
・
・
ー北野坂ー
——それから数日後。
今日もお母さんの看病のために坂を登りながら、色々と考えてしまう。
一人で病院までの道を歩いていると、病気への不安や、退院できるのかどうかといった思考になりがちだった。
意識を変えようと、私はぶんぶんと頭を振る。
あ。そういえば、あの子猫。元気にしてるかなぁ……。
ちょうど先日猫を助けた場所にさしかかって、ふとそう思う。
…………あれ?
(ここって猫を引き寄せるような何か特別な物があるのかな……)
またしても、のんきに通りの中央を突っ切ろうとしている三毛猫を見つけてしまったのだ。
(随分ゆっくり歩いてるなぁ。この道はスピード出す車も多いから早く通り抜けてくれたら安心なんだけど)
早く道を通り抜けるように追い立てようかと思ったその時。
──っ!
曲がり角から飛び込んできたトラックが猫がいる方向へとハンドルを切った。
──危ない!
突然のことに、私は思わずその猫へと飛び出してしまった。
こっちにおいで!
何とか猫を抱き上げた瞬間、キキーっという車のブレーキの音が聞こえる。
──そして目前に迫るトラック。
私は猫を抱きかかえたまま身をすくめ、迫りくる車に対する恐怖感に目を閉じることも忘れていた。
襲ってくるであろう衝撃に対してぐっと身構える。
しかし次の瞬間、何か白いものが私の前を横切って、ふわりと体が浮いた感覚があって……。
揺れるような衝撃と共に……。
──意識が白く、溶けていった……。
︙
……う……うん?
ふと気付いたとき、私は何の痛みも感じていなかった。
そのまま、そっと瞳を開く。
──っ!
目を開くと、綺麗な瞳をした男性がじっと私の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
(誰だろう。綺麗な瞳の人……)
何が起こったのか理解できず、ただ呆然と目の前の男の人をじっと見つめてしまう。
やがて、だんだんと周りのざわめきに気付いて辺りに意識を向けてみる。
トラックにはぶつからなかったみたいだけど、あの子大丈夫かしら。
とりあえず目を覚ましたみたいだから多分大丈夫だったんだろう。
それにしてもすごい勢いであのトラック走って行ったわね。
ざわざわと噂するような周囲の会話が耳に届く。
(私、体どこも痛くない……。気を失っていただけ?)
(どうして……!? 絶対轢かれちゃうと思ったのに)
慌てて身を起こすと、辺りは思いのほか人だかりができていた。
あんた、これで2回目だろう? 周りも見ずに無鉄砲に車の前に飛び出していくの。
(──そういえば、ぼんやり綺麗だなって見てたけど、この男の人、誰?)
色素の薄そうな明るいサラサラの髪。だぼっとした無地のシャツ……。
(あれ、どこかで見たことがあるような……って)
2回目って……。どうして知っているんですか?
そう尋ねた私にその男性は瞳を細めてくしゃりとそよ風みたいに、柔らかく笑った。
──1回目の時も見てたから。
──え?
あんた、2回も続けて無茶をするよな。
……まあ、猫を助けてくれたのは感謝してるけど。
(この人、一体何者なんだろう)
無事に起き上がった私の様子を見て、安心したように周りの人たちは各々散っていく。
──あ、猫……。
うん、無事だったよ。もうさっさとどこかに行っちゃったけどね。まあ……猫だし。
飄々と答える男性が、肩をすくめた途端、シャツの袖に赤い物がにじんでいることに気づいた。
え? 貴方、怪我してる!
よく見るとシャツはところどころ黒く汚れていて、しかも擦りむいたようにあちこち擦りむけている。
──え? ……ああ。ホントだ。
すぐ怪我の治療をしないと!
男性に向けて手を伸ばそうとした瞬間、ズキリと手首に痛みと違和感を感じた。
だけど、相手のシャツにじわじわと血のにじむ様子が見えて止血が先だと気持ちが焦る。
(私の傷は大したことなさそうだし。それより、早く血を止めてあげないと)
どこか、近くに病院とかないですか?
(坂の上までいけば、大きな病院があるけれど、少し遠いし……)
大丈夫。別に放っておいてもしばらくすれば血は止まるから。
男性は平気そうな顔をして、小さく苦笑を漏らした。
ダメです! そんなに血も出ているし。ちゃんと消毒だってしておかないと!
血の量に驚いてしまった私は、不安で急かすような口調になってしまう。
男の人はその勢いに、あっけにとられたような顔をして仕方なさそうに頷く。
わかったよ、そこまで言うなら、ちょっと付き合って……。
男性は立ち上がると、怪我を気にする様子もなく、すたすたと歩き始める。
少し戸惑いながらも、私はその人の後に慌ててついて行った。