北野異人館旧レイン邸
~3話~

ー北野坂ー

その日私は、いつもより足取り重く、病院からの帰途についていた。

お母さんの病状は一進一退どころか、やや悪化しているように思えた。

七海

(お母さん、もしかしてもう良くならないのかな……)

一瞬、胸の中に黒い不安が吹き荒れる。

悲観的すぎる考え方だとはわかっているけど、つい最悪のことだって考えてしまいそうになる。

私は、はぁっと胸の中に溜まった、不安な気持ちでいっぱいの空気を、吐き出す。

それから、パシンと顔を両手で叩いて気合を入れ直した。

七海

(私の家族はお母さんだけ。私を残していったりなんかしない)

七海

(絶対に良くなってくれるし、私もちゃんと支えなきゃ)

その時、唐突に何か温かくて柔らかいものがシュルリと足元にまとわりついて飛び上がりそうになる。

???(猫)

ニャー。

七海

ええっ!?

それが猫であることに気がついてほっとしている私の顔を、その子は確認するように見上げてる。

七海

──あれ、お前?

七海

わざわざ、私に気づいて挨拶しに来てくれたの?

それはこの間、零弐さんの家で再会した事故に遭いかけた白猫のニーヤに見えた。

七海

いい子だね。撫でてあげる。

その体に触れると、不安だった心がほわっと温かくなる気がした。

七海

ふふ、気持ちいい?

白猫ニーヤ

ニャーン。

白いふわふわの毛を撫でてやると、白猫ニーヤは嬉しそうに瞳を細める。

???(猫)

ミャー。

???(猫)

ミャミャーー。

七海

えええっ!?

しかし気付くと白猫だけでなく、他の猫たちもたくさん集まってきていて撫でて欲しいと頭を擦りつけてくる。

七海

ちょ、ちょっと待って。順番に撫でてあげるから!

猫たちに囲まれて、私はその中心にしゃがみこんで、必死に猫を撫でまくる状況になっていた。

七海

(もう、みんな可愛いけど、ちょっと収拾がつかなくなりそう)

困惑しつつも、思わず笑みがこぼれてしまう。

道端で猫まみれになってしまっている私に、通り過ぎる人がぎょっとした顔をしている。

七海

(この間、零弐さんもこんな状態になってたなあ……)

猫だらけになった綺麗な洋館のリビングと零弐さんを思い出して、ついまた笑ってしまった。

七海

(ふふっ……そうか、ここ零弐さんの家の近所だ……)

七海

(じゃあ、もしかしてここにいる猫、全部ニーヤだったりするのかな……)

七海

(……試しに呼んでみようか?)

七海

えっと……ニーヤ?

私が一声そう呼ぶと、全部の猫が今呼ばれたのは私です、とばかりに一斉にニャアニャアと声を上げた。

七海

(や、やっぱりそうだったんだ……)

一瞬絶句した私は、猫たちの無邪気な様子にくすくすと笑いだしてしまう。

???

お前ら、こんなところで道草してたのか……。

ふと真上から聞いたことのある声が降ってきて、私は視線を上げる。

零弐

──って七海さんだったのか。

零弐

……それでお前ら、こんなところで群れてたんだな。

零弐さんはキジトラの子猫を抱き上げて小さく苦笑をする。

七海

こんにちは。零弐さん。

零弐

……どーも。まさかまた会うとはね。

一瞬頭を下げる様なしぐさをしてから零弐さんは目を細めた。

零弐

しかも、こいつらが誰かにこんなに懐いている姿は初めて見たな。

零弐

七海さん、よっぽどこいつらに気に入られたんだな。

七海

懐いてくれたんだったら嬉しいけど、みんな集まってきてちょっとびっくりしてました。

七海

この子たち、ニーヤって呼んだら全員返事するし……。

零弐

だってこいつら、全員ニーヤだからな。

当然だろう、という顔をする零弐さんの表情にますますおかしくなってしまう。

七海

ところで……零弐さんは、ニーヤたちのお迎えに来たんですか?

私の言葉に零弐さんは小さく唇の端を上げて答えた。

零弐

エサの時間になったのに、全然うちに猫が戻ってこないから、この間のこともあったし、気になって見に来たんだ。

七海

(なんだかんだいっても、零弐さん、本当にこの子たちを大事にしてるなぁ)

思わずくすくす笑いながら頷く私に、少し照れたような顔をしながら、零弐さんは言葉を続けた。

零弐

そしたら北野坂で、七海さんがニーヤまみれになっているからさ。

零弐さんはその様子がよっぽどおかしかったのか、くくっと喉を震わせて、笑い声を上げた。

零弐

面白いもの見せてもらったよ。

零弐

……じゃお前ら、そろそろエサの時間だし、帰るか。

しかしニーヤたちは私の元から一向に動く気配がない。

零弐

…………。

零弐

……ニーヤ?

七海

……みんな、帰らないの?

私の声に一斉に猫たちは頷くようにニャアと、鳴き声を上げた。

零弐

……おいおい。そんなにお前ら七海さんが気に入ったのか。

零弐

じゃあ、今から七海さんも、うちに来るか?

仕方ないなあ、という顔をして、零弐さんは私にそう声を掛けた。

七海

──え?

零弐

いや、オレ基本的に、あんまり他人を家に上げたくないんだけど、
ニーヤたちがこんなに懐くなら、七海さんっていい奴なんだろうし。

七海

……あの、普通そうやって家にあがるのを警戒するのは女子の方でしょ?

私が呆れたように声を掛けると、零弐さんは、少しだけびっくりしたように、目をぱちぱちとさせた。

零弐

それもそうか……。

零弐

そりゃそうだよな。うーん。

零弐

どうする? 七海さんが警戒するなら来なくてもいいし。

もう一度尋ねられて答えに詰まっていると、白猫が私の足元にすり寄ってきた。

ボスニーヤは零弐さんの足元で、おなかがすいたとニャアニャアと鳴き声を上げて軽く猫パンチをしている。

そのくせニーヤたちは、一匹たりとも移動しようとはしない。

かわりにどうするの? という雰囲気で私を見上げている。

七海

う、うーん。おなかも空いたけど、私とも遊びたいって思ってくれているのかな?

零弐

……かな?

病院からの帰りで不安になっていた気持ちが、猫たちのおかげで随分と明るいものに変化していた。

七海

(もうちょっとこの子たちと一緒にいたら、いつもの元気な気持ちに戻れるかもしれない……)

七海

うん。……じゃあ、行こうかな。

七海

でもついていっても、変なことはしないでね。

冗談交じりに告げた私の言葉に、零弐さんは苦笑しながらも頷いてくれたのだった。

ーレイン邸室内ー

家に入ると、早速猫たちはご飯を欲しがって、零弐さんの足元にまとわりつく。

零弐

お前たち、エサの時間なのに寄り道してたから、いつもより余計おなかが減ってるんだろ?

零弐

でもケンカせず仲良く食べるんだぞ。

零弐さんはニコニコと笑顔を見せながらお皿にエサを山盛りにしていく。

ニーヤたちが一生懸命食べ始めたのを確認して、近くで猫を見ていた私に零弐さんがそっと話しかけてきた。

零弐

オレさ……。

七海

──ん? 何ですか?

零弐

オレ、ちょっと今の自分にびっくりしてるんだよね。

七海

……びっくりって?

零弐

──他人を家に誘ったこと。

七海

…………え?

部屋の中では、猫たちがうにゃうにゃと声を上げながら、ご飯を必死に食べる音が響いている。

夕日の差し込む部屋の中で、私はニーヤたちをじっと見つめる零弐さんの綺麗な横顔に見入ってしまっていた。

零弐

……基本的にオレって、他の人間に興味ないのかなって思ってたし。

零弐さんはどこか飄々とした表情のまま呟く。

零弐

そんなオレが、どうして七海さんを家に誘ったんだろうな、2度も。

淡々と呟くように発せられた言葉に、思わずドキッとしてしまう。

じわっと頬に熱がこみ上げながらも、端正な零弐さんの横顔から視線が逸らせない。

七海

(ニーヤといる時の零弐さんは、いつも楽しそうだけど)

七海

(お医者さんになるのをやめたことも含めて、零弐さんも色々悩んだり考えたりしてるんだろうな)

七海

(私だっていつも元気に振舞おうと思ってるけど、お母さんのことで密かに不安になったり悩むみたいに……)

七海

零弐さんが人に興味ない、なんてこと私はないと思います。

七海

だって零弐さん、車に轢かれそうになった私を助けてくれたじゃないですか。

人に無関心そうに見えても、ちゃんと人の命を大事に思うことができる人なんだと思う。

七海

そりゃ私が零弐さんところのニーヤを助けようって思ったからかもしれないけれど……。

七海

でも助けるって簡単にできることじゃないし、零弐さんは基本的に優しい人なんだと思ってます。

ちょっぴりムキになって言う私に、零弐さんは少しだけ驚いたように目を丸くした。

零弐

…………。

七海

それに、私が前に手首を痛めたことにもすぐ気づいてくれて嬉しかったです。

七海

他人に関心がなかったら、そういうことだって気づいてくれないと思う。

零弐

……そっか。

零弐さんが瞳をふっと細めて、困ったような照れたような笑みを浮かべる。

少し内面に触れた会話をしたせいか、何だか零弐さんはいつもよりも大人っぽく男らしい表情に見えた。

七海

(何か……調子が狂うな)

その表情に一人で勝手にドキドキしてしまって、そっと熱っぽいため息をつく。

そんな私に気づいていないらしい零弐さんは、寄ってきたニーヤを撫でながら話しかける。

零弐

……なんかさ、オレ、高校生に教えられることばかりなんだけど。

零弐

ニーヤ、これってどう思う?

冗談めかした零弐さんの言葉に、撫でてもらったニーヤはニャアと、一言返事をした。

そんなやりとりに、私はまた笑みを浮かべていることに気付く。

するりと私の足元に寄ってきた白猫を抱き上げて、喉元を撫でてやると嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

七海

お前を抱っこしていると温かいね。

七海

(ニーヤたちと零弐さんに元気をいっぱいもらっちゃったな)

七海

……今日は色々ありがとうね。

私の言葉に、白猫ニーヤはどういたしまして、というように、ニャア、と一言答えたのだった。

密かに抱えていた不安も、今だけは忘れて穏やかな気持ちになることができた。

……それも、束の間の時間だと後から思い知ることになるのだけれど。