ーレイン邸室内ー
……結局、なんだかんだ言いつつ、この本だって捨てられてないんだよな。
いつもならソファーにごろごろと転がって、猫を構っている時間帯。
オレは、本棚から数年ぶりに引っ張り出してきた医学部時代の教科書をパラパラとめくっていた。
座っているソファーには教科書がいくつも置かれていたが、いっこうに読み進められない。
あの頃はなんなく読めていたはずの本が酷く難解な文章のように思えて、小さくため息をついた。
(ちょっと……わからないところを調べながら読まないと、頭に入ってこなさそうだな)
そのまま読み続けようかと迷っていると部屋にいたニーヤが、ちょこんと本の上に座りこんだ。
ちょ……それオレが今読んでんだよ。そこからどいてよ〜。
思わず情けない声を上げて、ニーヤのお尻の下から、本を取り上げた瞬間、
零弐? こんにちは。今日はね、ニーヤのご飯ゲットしてきた! おじゃましてもいい?
にこにこと笑顔を浮かべた七海が、ひょいっと窓から顔を出した。
お、おう……。
オレは慌てて持っていた本を横に伏せてソファーに散乱した本はクッションで隠した。
おじゃまします。
ニャーーーン!
ニャーニャー!!
掃き出し窓から靴を脱いで入ってきた七海がエサを持ってきたのに気づいたのか、
部屋にいたニーヤたちが一斉に七海の方に寄っていく。
今あげるからね。新商品の美味そうなご飯が出てたから思わず買っちゃった。
エサを持ってきた七海も、ごちそうになるニーヤたちもすごくご機嫌だ。
(ニーヤが犬なら、多分しっぽを振る勢いだろうな……)
……ふっ。
オレが思わずその姿を見て、笑みを浮かべていると、ふと七海がこちらを振り向いて、尋ねた。
あれ……零弐、なんか勉強してたの?
七海は、オレがとっさにソファーに伏せた本を見て首をかしげる。
い、いや、別に……。
ニャアニャア!
ああ、もう食べちゃったの? まだおかわりあるから、待ってね〜。
エサを催促するニーヤたちの声に、七海がこちらから視線を逸らす。
その隙にオレは読んでいた本を閉じて、こっそりソファーの上のクッションで本を隠した。
……七海、お母さんの調子はどう?
機嫌よさそうな七海の様子を見ながら、少し気になって聞いてみる。
うん、このところいい感じなの。お見舞いに行っても表情がすごく明るいし。
そっか、良かった。
そのことに安堵しつつ、何気なく話す様子に、オレとお母さんが病院で会ったことはまだ知られてないと思った。
(別に何か悪いことしたわけじゃないけど、決まりが悪いもんな)
オレはソファーから立ち上がり、エサを一生懸命食べているニーヤたちのそばに歩いていく。
なら、このまま発作が起きなければ、大丈夫なんじゃないかな。
(って、大崎の受け売りだけどな)
その言葉に、七海がオレの顔を覗きこんで笑う。
本当? 元医大生の零弐の言うことだし信用しておこうかな。
エサを食べ終わった猫たちに背中に乗られたり、膝に前足を掛けられたりとすっかり七海は猫まみれだ。
ってか、すっかりその猫まみれが定着してきたよな。
みんな七海が大好きだ。
──え?
そのとき、七海の肩によじ登ろうとしていた子猫ニーヤが滑り落ちそうになる。
あっ、登っちゃ危ないって。いたた、爪を出さないの〜。
落ちまいと爪を全開にした子猫を、あわてて七海が上手にキャッチした。
口をとがらせて文句を言う七海の表情や子猫とのやり取りが無邪気で可愛くて、オレは思わず笑ってしまった。
もう、零弐も笑わなくてもいいでしょ?
いや、笑うつもりはなかったんだけどさ。なんか……おかしくなってきて。
オレに文句を言いながらも、七海も、気づけばオレと一緒に笑っている。
ニャ?
そんなオレたちを見て、ニーヤが不思議そうに顔を上げていた。
それから2人で手分けして、ニーヤたちにたっぷりエサを食べさせてやった。
今は満腹になったニーヤをお互いに抱きかかえて撫でまくっている。
今日はたくさん食べたね〜。みんなお腹ポンポンに膨らんでて可愛いな。
リラックスしすぎた格好のボスニーヤが、丸出しのお腹を七海にさすられてゴロゴロ鳴いた。
幸せそうな七海を見ていると、なぜだか逆に、先日の不安そうな顔でオレの家の窓を見上げていた七海を思い出す。
(もう、あんな顔はして欲しくないな)
なあ、七海?
ん? どうしたの?
あのさ、オレのメアドとか、七海に教えておくわ。
……え? 何でいきなり?
七海はボスニーヤを撫でていた手を止めて、オレの方を見上げた。
いや、何かあった時にさ、いきなりうちに来るんじゃ効率悪いだろ?
七海は一瞬黙って、思案するような表情をした。
しかし、すぐにオレがなぜそんなことを言い出したのか察したらしい。
ねえ……それって。辛い時に零弐を頼ってもいいの?
不安そうな中に、どこか素直にオレに頼ってくれているような表情が見えて思わず見つめてしまう。
いいって前も言っただろ?
それにオレ、七海のことが気になるっていうか、ほっとけないんだよな。
(うわ、オレ何言ってんだろ。本音とはいえ恥ずかしいな)
──七海は大事な友達、だからかな?
照れをごまかす様にオレはニヤっと笑みを浮かべた。
まさか誰かに、自分から友達だって言ったり、連絡先を交換しようなんて話す日が来るとは思わなかった……。
……今までずいぶん浮世離れした生活してたんだね、零弐って。
七海はそう言うと、ふふっと笑い声を上げた。
正直オレ自身が一番びっくりしてるよ。
ふふふ、そうなんだ。うん。連絡先、交換しよう。
楽しそうに笑う七海につられてオレも笑いながら、スマホを取り出した。
︙
ー七海の部屋ー
(今日は零弐の家で、ニーヤたちと一緒に遊んで楽しかったな)
今日のことを思い出して小さく笑みを浮かべながら、私は特に何の着信もないスマホの画面をながめていた。
最近は、零弐とニーヤたちと過ごす時間が自分にとって一番楽しい時間になりつつある。
ふと今日の会話を思い出して、一人顔が赤くなってしまう。
『みんな七海が大好きだ』
『──それにオレ、七海のことが気になるっていうか、ほっとけないんだよな』
脳内で再生される声と共に、柔らかい笑みを浮かべた零弐の顔が浮かぶ。
何だかじわりと頬が熱く感じた。
(零弐、私のことを大事な友達って言ってくれてた)
(だ、だから、そういう意味で、気にしてくれているんだよね)
熱っぽい頬を覚ますみたいに、手をパタパタと頬の前で仰ぐ。
(……そういえば、後で一度メールを送ってみるって、零弐が言ってたけどまだ来てないな)
メールの着信音が早く鳴らないかなとさっきからずっと期待している自分がいる。
(私……ちょっと変かも)
小さく苦笑を漏らしたその瞬間。メールの着信音がして、私は慌ててスマホに手を伸ばしてしまう。
やっぱり零弐だ!
ドキドキしながらメールを確認する。
『今日はニーヤたちに新商品のご飯、ありがとうな』
『あいつらの腹、まだ、ぱんぱんに膨れてる。あいつらどんだけ食いしん坊なんだよってすげぇ笑った(^−^)』
(意外。零弐って顔文字とか使うんだ)
思わずくすっと笑いながらも、私はふわりと心の中が温かくなる。
もっと零弐とやり取りをしたくて、すぐにメールに返信をしようと返信画面を開いた。
︙
ーレイン邸室内ー
七海のお母さんの調子は、その後も安定していた。
そろそろ退院に向けての予定を決めようかという話も出ていると聞いていた。
そんな、ある日のことだった。
……ん? なんだ?
オレはスマホが鳴っているのに気づいて手を伸ばした。
着信画面に出ているのは七海の名前で、何となく嫌な予感がして慌てて電話を取る。
……七海? どうしたの?
すぐには返事がなくて、かわりに電話の奥から、小さく震えるような呼吸音が聞こえた。
……七海!? 七海、何があったんだよ?
焦って尋ねるオレの問いに、電話の向こうから、ようやく微かに小さな声がする。
『……零弐、どうしよう』
『お母さんが。……お母さんが、発作を起こしたの』
オレはぞわりとする嫌な感覚を背筋に感じながら、スマホをしっかりと握りなおした。
︙
ー病院廊下ー
七海……大丈夫か?
…………。
病院に駆けつけると、真っ青な顔をしたまま、呆然と病室の前に立ちつくしている七海がいた。
慌ただしさの中で緊急の処置を行っている看護師と大崎の姿も確認できた。
(大丈夫、って何聞いてんだろ、オレ。大丈夫って言えるような精神状態じゃないよな)
先日の大崎の話では、発作さえ起こらなければもう問題ないだろうという話だった。
(逆に言えば、もし発作が起きてしまえば、深刻な事態にもなりうるということだ)
(でも、こうして頼ってくれたんだ。オレは七海を力づけてあげないと……)
内心は焦りでどうにかなりそうな気持ちだけれど、できるだけ気丈にならなければと自分を奮い立たせる。
不安そうな表情の七海の肩を軽く掴むと顔を覗き込んで声をかける。
……医者もついているし、大丈夫だよ。まずは七海がもっとしっかりしないと。
気合いを入れるつもりでそう声を掛けるけれど、七海の反応は鈍い。
…………理、だよ……。
七海がオレから視線をそらす。
…………七海?
……大丈夫なわけ、ない。
わずかに上げた視線でオレのことを悲しそうに睨み付けるようにすると、七海はそう呟いた。
……起きちゃいけない発作が起きたのに大丈夫なんて思えるわけないよ。
……っ。
それに私、頑張ってるつもりだもん!
こんなときに、零弐にもっとしっかりしろなんて言われたくない……。
七海は力なくオレの手を振り払い、涙をこらえるような悲しそうな目でこちらを見た。
あ……、ごめ……。
ねえ、うちのお母さん、どうなるの? ちゃんと治るのかな?
……怖くて、怖くて。不安で押しつぶされそうだよ。
七海はオレにすがることもなく、ぎゅっと両手を爪が白くなるほどにきつく握りしめていた。
…………。
零弐とは違うんだもん……。お母さんは私のたった一人の家族なんだもん。
声が震え、大きな目が瞬くと、ポロリと七海の目から涙が零れ落ちる。
──っ。
零弐には……。
他人の零弐には、私のこの気持ちがわかるわけないよ……!
…………。
(高校生の七海がずっと一人で、不安な思いで頑張っているのをオレは知ってたのに)
(肉親が、今危ない状態だってのに)
胸にズキンと鋭い痛みを感じる。
それは昔、医学から逃げたときにも感じた痛みや恐怖にもよく似ているなと思った。
…………っ。
七海はオレから気まずそうに顔をそらして背中を向ける。
(七海よりも年上のくせに、、何て言って……慰めていいのかわからない自分が情けない)
ふとこの間会話を交わした、七海のお母さんの優しい笑顔を思い出す。
(……助かって欲しい)
(医学の道から一度逃げ出したけれど、今の自分の現実から、もう逃げ出すつもりはない)
この気持ちは、七海やそのお母さんから教えてもらったものだった。
(だけど、まだその気持ちを伝えられるほどの何かを、オレは持ってないのも事実だ)
そばにいるつもりなのに、不安に耐えている七海の助けになれていない自分がこの上なく悔しかった。
…………。
七海のお母さんのいる病室からは処置が終わったのか、看護師たちが静かに出てくる。
……お母さんの様子、気になるから。
ぽつりとそう一言言うと、七海はオレを見ることもなく、悲しい表情でそのまま病室に戻っていく。
オレはその背中をただ力なく見送ることしかできなかった。
︙
その日を境に、七海がニーヤたちにご飯をやりに来ることも、メールのやりとりすらもなくなってしまう。
オレ自身も七海に接触するきっかけが掴めないまま、会えない時間だけが積み重なっていった。
そう、あの日までは……。