北野異人館旧レイン邸
~5話~

ー七海の家リビングー

七海

……はい、もしもし有馬です。

早朝から自宅の電話が鳴り、私は妙に嫌な予感を感じながらその電話を取った。

七海

……えっ? 母の容体が!?

七海

わ、わかりました。今からそちらにお伺いしてもいいですか?

不安に震える指で電話を切ると、ゆっくりと深呼吸をする。

七海

(私がちゃんと落ち着かないと)

電話はやはり病院からで、お母さんの容体が少し悪化したので念のための連絡をくれたのだった。

不安で落ち着いていられず、病院に行くことにした私は大急ぎで支度をした。

ーレイン邸ー

七海

(それなのに……。どうしてここに来ちゃったんだろう)

すぐにでも病院に行かなければと思っているのに、なぜか私は零弐の家に来てしまっていた。

七海

(でもこんな朝早くから呼び鈴を押すわけにもいかないし)

呼び出すこともできずに悩んでいると、ふと猫の鳴き声が聞こえてきた。

???(猫)

ミャー

???(猫)

ニャーニャー

七海

……ニーヤ。

足元には気付くと何匹ものニーヤたちが集まってきて、朝の挨拶でもするように温かい体をすり寄せてくれる。

ニーヤ

ニャアアア!

ニーヤ

ニャアニャア!

そして何匹かの猫たちは私を見上げ、元気よく鳴き声を上げた。

七海

そ、そんなに元気に挨拶しちゃうと……。

不安に思っていると唐突に2階の窓が開く。

七海

(やばっ)

零弐

……ニーヤ、いったい朝からどうしたんだよ?

寝ぼけまなこの零弐が、集まってきたニーヤたちに上から声を掛けた。

零弐

──って七海?

一瞬隠れようとも思ったけれど、驚く零弐としっかりと目が合ってしまい動けなくなってしまう。

零弐

何があったん……。いやいい。オレが今、下に行くからそこで待ってて。

慌てて窓を閉めると、駆け下りてきた零弐がすぐに玄関の扉を開く。

零弐

七海、一体どうしたんだよ。顔色も真っ青だし……。

七海

零弐……。

七海

ごめん、何で私、ここに来ちゃったのかわからないの。

七海

でも、気づいたらここに足が向かってて……。

震える声でそう訴えると、零弐はスリッパのまま外に出て、私の手をしっかりと握りしめた。

零弐

……こんなに手が震えてる。指先まで冷たくなって。

七海

零弐の手、あったかいね。

しっかりと握りしめてくれた所から零弐の手の温かさが優しく伝わってくる。

ドキドキして、かぁっと全身に熱がこみ上がり、瞳が熱くなってしまうのを感じた。

七海

──っ…………。

そして、次の瞬間には、堪えようのない涙が溢れ出ていた。

零弐

──っ!

七海

どうしよう……ねえ、どうしよう。

一度あふれた感情はもう止められない。

気づけば私の手を握りしめてくれている零弐の手の甲の上にいくつも涙を零していた。

七海

お母さんが……っ。もし、お母さんがいなくなっちゃったらどうしよう……。

不安と恐れが心を支配してしまって、涙を止めることができない。

零弐

…………。

零弐

……お母さんが、どうかしたの?

私の涙が止まるのを待っていてくれた零弐は、落ち着つかせるような口調で尋ねた。

七海

お母さんの容体が……っ。

七海

お母さんの容体が少し悪化したって。だから私、病院に行かなきゃって……。

零弐

それなら急いで病院に行かないと。

ぎゅっと手を握りしめ直すと、零弐はしっかりと私と目線を合わせた。

七海

零弐……。

零弐

うん。

七海

あのね、私、怖いの……。

そう言うだけで、不安で語尾が震える。

私は涙が再び溢れそうになるのを必死で耐えた。

七海

病院に行かないといけないのはわかってる。でも行くのが怖くて。

零弐

そりゃ、そう……だよな。

七海

零弐……お願いがあるの。

七海

怖いから途中まで一緒に来てくれないかな。

零弐

……わかった。一緒に行くよ。

零弐はすぐに安心させるように力強い表情をすると、小さく頷いた。

ー病院廊下ー

七海

ついてきてくれてありがとう。おかげで落ち着いた……。

七海

じゃあ、お母さんに会ってくるね。

零弐

うん。行っておいで。

七海は緊張した面持ちで、母親がいる病室に向かっていく。

その不安げな背中を見送っていると、ひどく切ない気持ちになった。

零弐

(あんな七海、初めて見た)

普段は一人で頑張らないといけないと、気を張っている部分もあるのだろう。

零弐

(そりゃたった一人の家族だ。大切で大事だからこそ、余計不安だよな)

ふと、大切な人の命をつないで欲しいと必死に祈っていた人々の顔を思い出す。

それは医学生をしてた頃の記憶だった。

零弐

…………。

オレは無意識で、あの頃の緊張を思い出して、じわりと手のひらに汗をかいてしまう。

医者として誰かの大事な人の命を預かったり、冷静に向かい合わないといけないこと。

必死の治療にも関わらず、いつでもハッピーエンドが待っているわけではないという事実。

零弐

(命がけで病に戦う患者と、その家族の必死の想いを目の当たりにする度に……)

零弐

(オレはそれを見ていることが辛くなり、どんどん怖くなってしまったんだ)

病室に入った七海を見届けると、ふぅっと息を吐き出し、辺りを見渡す。

ふいに病院の匂いを久しぶりに鼻先に感じて、思わず苦笑が零れた。

零弐

(……一度は諦めてしまった道だけど、やっぱり、どこか少し懐かしいって気持ちになるものなんだな……)

嗅ぎなれていた匂いに感化されたのか、あの頃の風景がさらに思い出されてくる。

真剣に医学の道を目指して、学業に実習にと、まい進していた頃の記憶。

零弐

(だけど……)

──揺るぎようのない厳しい現実に怯え、立ちすくみ、
結局、小さな頃からの夢を放り出して無力過ぎる自分から逃げ出したオレ。

零弐

(10歳も年下の七海だって、一人で不安と戦ってるってのに……)

零弐

(オレは何やってんだろう)

忙しそうに行き過ぎる学生らしい白衣の男性は、インターンだろうか……。

その表情は、忙しそうでも、夢を目指す喜びに満ちている様な気がした。

そして、その姿に過去の自分が重なりズキリと胸が痛んだ。

零弐

(結局……。オレだけ時間が止まったままだ)

零弐

(…………っ)

ふと先ほどオレに手を握りしめられて、ぽろぽろと涙を零していた七海の姿を思い出して、胸がぎゅっと痛んだ。

零弐

(七海……)

零弐

(七海のお母さんには無事でいて欲しいし、七海にも安心して、いつもみたいに明るく笑って欲しい)

零弐

(あの時は逃げ出してしまったオレだけど)

零弐

(でも今の、この気持ちだけは間違いなく本物だ)

オレはそう思いながら、七海の姿が消えた後も、しばらくその場にたたずんでいた。

ーレイン邸室内ー

七海

今日は早朝に急に来ちゃって本当にごめんなさい。

お母さんのお見舞いを終えた私は、改めて零弐の家を訪れていた。

零弐

いや、全然いいよ。

柔らかい笑みを浮かべる零弐は、いつもと全く変わらない。

私はその顔を見てほっと息をついた。

七海

あのとき零弐が一緒に来てくれてすごく安心できた。本当にありがとう。

零弐

それならよかったよ。

七海

うん。それにお母さんの容体もかなり持ち直したって先生が言ってくれたの。

七海

先生が『お母さん、七海ちゃんの声を聞いて驚くくらい落ち着いたんだよ』って言ってくれて。

七海

……零弐に来てもらえなかったら、私、怖くてなかなか病室に入れなかったかもしれない。

七海

とっても感謝してる。

お医者さんの処置が良かったのもあり、昼頃には小康状態にまで回復して笑顔を見せた母親の顔を思い出す。

零弐

七海の顔を見てお母さん元気づけられたんだな。

零弐はいつもより柔らかい笑みを唇に浮かべ、私の気持ちに寄り添うように嬉しそうに笑ってくれた。

七海

うん……。本当に、本当によかったよ。

安堵感が押し寄せてきて、思わず浮かんできそうになった涙を瞬きをして誤魔化した。

その、次の瞬間。

七海

えっ……?

ふわりと零弐の温かな手が私の頭を優しく覆う。

そして、わしゃわしゃと頭を撫でられて思わず目を見開いた。

零弐

あ……勝手にごめん。

零弐

なんか大人っぽく見えてもさ、七海はまだ高校生で、それでもこんなに頑張っているんだなって思って。

零弐

そう思ったら、えらいなって気持ちが先にたって、つい無意識に手が動いてた。

自分の行動にびっくりしたのか、そう言いながらどこか恥ずかしそうな零弐に思わず笑みがこぼれた。

七海

なんか……撫で方。

零弐

え?

七海

女子を撫でるっていうより、猫を撫でているみたい。

零弐

……まあ、普段からニーヤばっかり撫でてるからな。

七海

猫扱いか〜。でも零弐にとっては大事なニーヤたちだもんね。

零弐

そそ。共通点は、どっちも大事な友達ってことで。

冗談めかした明るい声で零弐がそう言ってくれるから、互いに目線を合わせ思わず笑いだしてしまった。

七海

(それに、私のこと大事な友達って思ってくれてるのが嬉しいな)

七海

(零弐といると私の気持ちまで温かく、明るくなっていく……)

私を撫でる仕草は、猫を撫でる時よりも少しだけ柔らかい動きに変わる。

優しい手に安心感を感じて幸せな気持ちで満たされていった。

零弐

…………。

心地よくて猫みたいに瞳を細めると、零弐は笑顔を浮かべたまま、私の頭を撫でてくれる。

零弐

あのさ……。

しばらくすると、零弐はふと手を止めた。

七海

うん?

零弐

オレ……何も出来なくてごめんな。

七海

──え?

零弐は眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべるけれど、私は反射的に頭を横に振った。

七海

ううん。そんなことないよ。

七海

実はね、お母さんが、七海にばかり不安な思いをさせてゴメンって謝るから私、零弐の話しちゃったの。

零弐

……え?

七海

私が車に轢かれそうになった時に助けてくれたこととか。

七海

あと、零弐の家が猫まみれなこととか、元医学生でお医者さんを目指してたとか色々。

零弐

そうなんだ。

七海

今日もお母さんの調子が悪くなって不安で仕方なかった時に、病院までついてきてくれたことも。

七海

不安な時に、すごく心強かったってそうお母さんに言ったの。

零弐

……お母さん、何か言ってた?

七海

うん。ちゃんとその人にお礼を言いなさいって。

七海

……あのね、零弐。

七海

改めて、今日は本当にありがとう。零弐がいてくれて、すごく心強かった。

私が笑顔でそう言うと、零弐はびっくりしたように瞳を瞬かせて、照れくさそうに小さな笑みをこぼした。

零弐

改まって言われると……照れるな。

零弐

それに、お母さんにそんな話をしたんだ……。

七海

……まずかったかな?

零弐

いや、全然。

零弐は微かに頬を染めながら、照れくさそうに笑顔を浮かべている。

だから私は、まさか零弐があんなことを密かに考えているなんて思いもよらなかったのだ。