ー七海の部屋ー
あれから数日して、お母さんの容体は少し持ち直していた。
体調も一時に比べると大分安定していて、私も一息つけるようになった。
零弐、どうしてるかな……。
(……心配してくれていたし、一度連絡してお母さんの体調が落ち着いたよって知らせるべきだよね)
そう思うのに、この前の別れ際を考えると、連絡が取りにくくて二の足を踏んでしまっていた。
(零弐は私を心配して、気遣ってくれてたのに)
(そんな零弐の優しさに……八つ当たりするみたいにひどいこと言っちゃった……)
あの時の、何とも言えない悲しそうな零弐の顔を思い出すと、ぎゅっと胸が痛む。
(せめてメールだけでも……)
スマホを取り出しても、メールを打とうとすると手が止まってしまう。
(何て書いたらいいんだろう。きちんと謝ってもいないのに……)
(やっぱりメールじゃだめだ。直接ちゃんと零弐の顔を見て、ごめんなさいって謝ろう)
私はそう決めると、いてもたってもいられずに出かける準備を始めた。
︙
ーレイン邸ー
何も考えずに、急いでやってきた零弐の家の前で呼吸を整える。
(よし、呼び鈴を押して……)
喉から心臓が出そうなくらいドキドキしながら、呼び鈴を押す。
……零弐?
声を掛けたけれど、何も返答がない。
(どこかに出かけているのかな?)
勢いよく来たのはいいけれど、会いたいと思っていた人がいなくて、何だか拍子抜けしてしまう。
(連絡もなしに来たもんね。仕方ないか……いったん帰ろう)
私は小さくため息をつくと踵を返した。──その時。
あれ、七海?
……零弐!
私が後ろを振り向くと、重そうな荷物を持って、猫を抱きかかえた零弐が坂をこちらに向かって登ってきていた。
しかし、いざ目の前にすると、上手く言葉が出てこなくて口ごもってしまう。
……お母さんの具合は……どう?
零弐はそんな私に、穏やかな声で尋ねてくれた。
あ、あの……。
お母さんの容体、少しよくなったの。体調もちょっとずつだけど回復してきているし。
私がそういうと、零弐ははぁっと大きな安堵のため息をついた。
そうか、よかった。七海、ホントによかったな……。
(あんなにひどい態度を取ったのに、零弐はどれだけ私たちのことを心配してくれてたんだろう)
申し訳なさで胸がぎゅっと苦しくなる。
あの……この間はごめんなさい!
慌てて私が頭を下げると、零弐は少し困ったような顔をしながら顔を横に振った。
いや……いいよ。気にしないで。
(あれ? 何だか零弐……この前と表情っていうか、印象が違う気がする)
(何ていうか、少し……達観したような……)
ふと感じた違和感に、改めて零弐の様子を改めて見つめると、
抱きかかえている子猫の前足の辺りに、赤いにじみがあるのに気づいた。
えっ、もしかしてその子、怪我してるの?
私が猫の前足を覗き込もうとすると、零弐の手にも血がにじんでいるのに気づいた。
そして猫の前足についているのは零弐の血だと気付く。
……零弐も……怪我してる。
ああ……さっき、コイツが車に轢かれそうになってさ。
とっさにかばったんだけど……。
零弐は心配そうに猫の顔をじっと覗き込む。
ニーヤはかすり傷っぽいけど……。零弐の怪我はすごく痛そう。
…………。
私、零弐のおうちにお邪魔させてもらっていいかな。それ、手当てしないと……。
ありがとう。じゃあ、ちょっとお願いしてもいいかな。
零弐はそう言うと、慌てて玄関のドアを開けようとした。
あ、その重そうな荷物、持つよ。
両手がふさがってドアを開けにくそうにしているのを見て、零弐の荷物を持とうと手を伸ばす。
い、いやいいよ! これ、重いし。
だけど零弐は私の手を焦ってよけるようにする。
ちょっとぐらい重くても大丈夫だよ。ほら、代わりに持つってば。
そのままじゃ玄関の鍵、開けにくそうだし……。
零弐は急いで鍵を取り出そうとするけれど、やはり上手くいかない。
せめてドア開ける間だけでも預かるよ。
だ、大丈夫だから……。
零弐はかたくなに私に荷物を預けようとしない。
──その時。
……あっ……。
ご、ごめんなさい……!
私の手を避けた時の勢いで、袋の端から中に入っていた物が一気に玄関前に落ちて散らばってしまう。
零弐は座り込んで荷物を拾おうとするけれど、怪我をしている猫を抱いているから、散らばった荷物を拾えない。
大丈夫だよ、私拾うから……!
落ちていたのは大量の分厚い本で、そのうちの一冊を手に取って、私は思わず言葉を失った。
……これって……。
私は思わず零弐の顔を見上げる。すると、彼はどこかきまり悪そうな笑みを浮かべた。
…………。
散乱している本は、難しい題名のついた専門書が多かった。
(これって……医学書だよね)
(まさか、もう一度、挑戦しようと思っているとか……)
さっきの違和感はこのせいだったのかもと、妙に嬉しくなってしまう。
零弐はそんな私の視線を避けるように、慌てて玄関のドアを開け、猫を玄関先に下ろした。
それから散乱している本を慌てて拾い集めると、何事もなかったように中に入ってしまった。
︙
ーレイン邸室内ー
──はい、手当て終わったよ。
零弐の家のリビングに入ると、私はこの間のように零弐の手当てをした。
ありがとう。
ニーヤも、零弐も大きな怪我じゃなくてよかった……。
零弐の怪我は少し深めの擦り傷で、痛そうだけれど、病院に行かないでも治りそうなものだった。
七海、この間より手当ての仕方上手くなってるね。
ふふふ。本当は私、そんなに不器用じゃないと思うよ。
この前ちょっと下手だったのは、手首をひねってたせいもあると思うな。
そうかもな。
冗談ぽく話す私に、柔らかに微笑んでくれる零弐に安心してしまう。
……でも、零弐に褒めてもらえたら、普通に嬉しいけど。
いつもの穏やかな空気感にほっとして笑みを浮かべると、逆に零弐は申し訳なさそうな表情になる。
七海、あのさ。
うん?
……この間はゴメン。
悲しそうな表情で私を見る零弐に、罪悪感で胸がいっぱいになっていく。
謝らないといけないのは私の方だよ。
零弐にひどいこと、たくさん言っちゃって……。あの時は本当にごめんなさい。
それに、さっきの本……。
私は零弐が持っていた医学書のことを思い出す。
零弐だって、一生懸命に前を向いて自分に向き合おうとしてる。
私がそう言うと、零弐は少し困ったような顔をした。
……七海。
でもオレ……。まだ何もできてないからさ。
コイツのことも、ちゃんと守ってやれなかったし……情けないよな。
零弐は悲しそうな顔をしながら、甘えてくるニーヤの背を撫でた。
ニャア。
私はそんな零弐を見ながら首を横に振る。
……零弐、それは違うよ。
……え?
零弐は私のことも、ニーヤのことだってちゃんと守ってくれたよ。
私とニーヤが車に轢かれそうになった時もかばってくれたし。
それに、私が不安にしているのを知って頼っていいよって言ってくれたもん。
それが私にとって、どれだけ力強かったか……。
零弐のおかげで、ニーヤはかすり傷で済んだんだよ!
……ありがとな。
私の言葉に少し表情を緩めると、零弐は怪我したニーヤを見つめて意外なことを話し始めた。
実はさ……。
オレ七海のお母さんが発作を起こす前に……会ってるんだよ。
え……。
黙っててゴメン。
頑張っている七海を見てたら居ても立ってもいられなくなって、気づいたら病院に向かってたんだ。
そしたら学生時代の知り合いの大崎に会って、その大崎がたまたま七海のお母さんの担当でさ。
えっ、大崎先生って零弐の知り合いだったんだ!
まあね。そんな成り行きもあって、七海のお母さんと少し話をしたんだ。
そうだったんだ。びっくりした……。
そうやって七海たちと最近関わりを持っていく中で色々気づいたんだ。
怖くなって医者を諦めたことに悔いが残ってたのにも気づいた。
だったら、きちんと向かい合おうって思えるようになってきたんだ。
まっすぐと私の瞳を見て語り掛ける零弐の姿に、じわりと胸が熱くなった。
(零弐が私たちと関わったことで、そんな風に思ってくれたなんてすごく嬉しい)
(でも……)
ねえ……怖くて医者になれなかったってどういうこと?
つい疑問に思ったことを私が尋ねると、零弐は瞳を細めて何かを思い出すような表情をする。
この間だって怖かったよ。
患者の生死や、それを見守っている家族の気持ちを思うと、すごく怖い。
……零弐。
私は何となく、零弐が医学の道を諦めた理由がわかったような気がした。
(零弐のニーヤたちを見る目を見たら、すごく愛情が深い人なんだってことはよくわかる気がする……)
零弐は優しいから、患者さんや家族の心を思いやって心が痛んで、お医者さんを目指せなくなってしまったんだね。
……え?
その言葉に零弐はちょっとびっくりした表情を浮かべた後、不思議そうな顔で私を見た。
この間、七海のお母さんにも同じようなことを言われたよ……。
え……そうなの?
うん。七海のお母さんにそう言われて、オレ、自分のことが少し見えるようになったんだ。
自分の弱さも、本当にやりたいことが何なのかも……。
……そうだったんだ。
零弐の変化にお母さんの言葉が関係してるなんて思いもよらなかった。
七海のお母さん、こう言ってたんだ。『悔いのない幸せな人生だったと最後の瞬間に思いたい』って。
オレもおんなじだ。
…………。
怖くて逃げるんじゃなくて、怖くならないくらい医療の勉強をして、自分に自信をつけたい。
人を助けたいと思った最初の気持ちを思い出して、オレなりに悔いのない人生を送りたいって思ったんだ。
私は零弐の言った『最後』という言葉に思わずドキッとしてしまった。
(でも、きっと。命が亡くなることをただ怖がるより、どう生きるのかの方がもっと大事なのかもしれない)
大事そうに部屋に置かれた医学書を見つめる零弐を見て、私まで胸が熱くなるような気持ちがしていた。
(私もお母さんのこと、自分の未来のことについて、ちゃんと向き合っていこう)
お母さんや零弐みたいに、悔いのない人生を生きたいと、自然とそう願っていたのだった。
運命が混じり合って、化学変化みたいにどんどん変わっていることに、この時の私は気づきもしなかった。